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prrrr…prrrr……

聞き慣れた音に意識が浮上する。似た音に自分のかと思ったけど、目の前で大きな体が寝返りを打ったのを見て、ここが彼の家であることを思い出した。二人で何度も抱き合って、寝たり起きたりを繰り返していたのでまだ思考が定まらない。でもそれが幸せの絶頂にあるような気がしてくふふと笑った。
夕方、私たちは2人でお風呂に入って、それから彼の作ってくれた軽食を食べた。ソファで並んで映画を見ていたはずだけど、どうやらそのまま寝てしまっていたらしい。彼が運んでくれたのか、質のいいシーツが私を包んでいる。すぐ隣にある大きな体に抱きつこうとすると、ぐるりと背中を向けられて少し寂しく思う。この音の発信源は彼の社用スマホなのだろう。仕方がないかとごそごそ動く彼の背中にぴとりとくっついた。

「ん、はい…冬木………あぁ君か。どうしたの?」

電話越しに聞こえた声にため息が出た。幸せの絶頂は一瞬で崩壊して、それ以上聞きたくないと、ダルい身体を無理やり起こして部屋を出る。リビングで水を一杯飲んでから、置きっぱなしだった鞄から自分のスマホを取り出す。時刻は23:38。
彼の大きなスウェットは太ももまですっぽりと隠してくれるが、寝起きの体には少し寒い。いや、寒いのは身体だけじゃないのかも。



「うん、その件ならまた週明けにでも……うん…そうだね……………うん…」

寝室に戻ると彼がベッドの縁に座って何やら資料を見ながらまだ話していた。聞こえてくる声も仕事の内容で困っているのが伝わってくる。相手の相当切羽詰まっているらしいその様子に、私はまた彼に背中を向けてリビングに戻ろうとした。仕事だもの、仕方ない。きっと私でも頼られたらそうする。彼は部長だし、こんな時間でも仕方ない…

―世の中は合理的なものばかりじゃない―

守兄の言葉が頭を掠めて、思わず自嘲する。私はいつの間に、こんなにも待ったが効かない子になっていたんだろう。それもこれも全て彼のせいだと結論づけて、もう一度彼の方に向き直る。
どうやって分からせようかなんて考える余地もなかった。彼の大きな背中におんぶするように抱きついて、精一杯甘えた声を出す。

「ねぇ、克己さん…私、待ちきれない」
「っ!…あ、あぁ。そうなんだ、恋人が来いてね。悪いね、待たせたくないからその件はまた会社で。君もオフの日くらい仕事は忘れてね」

スマホ越しに聞こえる声は焦っているのかなんなのか、それでも彼を引き止めようとするので、私はいやいやと首を降って彼の肩に頭を寄せる。

「それじゃ」
……ピッ…

彼は社用スマホの電源を落としてから、ベッドサイドの机に放った。

「ごめんね、起こしたね」
「…そういう問題じゃないわ」
「そうだよね、仕事の電話でどうしてもって…」
「恋人を抱きながら他の女と電話するなんて誰に教わったのよ」

自分でも思ったより冷たい声が出たなと思った時には既に遅かった。やってしまった罪悪感にふるりと身体が震えて、彼から体を離して後ろを向く。
いくら感情を優先したとしても、彼に当たるなんて情けないにも程がある。それに仕事は仕事なのだ。どんなに嫌でも我慢することだってあるんだから。"待て"もできない自分に嫌気がさして、膝を抱えて座る。

「…ごめん、浅はかだったね。許して?」

なぜこの人は、理不尽に怒る私を叱らないのか。私の後ろから静かに謝る彼に、抑えつけた思いがまた沸々と蘇ってしまう。これは完全に八つ当たりだ。

「…私すごく幸せだったのよ」
「僕も幸せだよ。ずっと君がいて、君を抱く権利すら持ってるなんて」

そう言って後ろから抱きしめてくる彼の腕を掴んで、強引に引き剥がす。

「今はそういうんじゃない」
「どうして?僕たちはいつだって抱きしめ合えるよ」
「…他の女と話した後に抱かれたくない」

あんなにも距離が近づいたのに。近づいた彼との距離をもう絶対に離したくないと、本気で思っていたのに。私は私のわがままな思いだけで、彼を突き放して距離をとる。まったく…彼女はどうして、いつも最悪のタイミングで私の前に現れるのか。いやちがう。これもただの八つ当たりだ。
この幸せな時間をむちゃくちゃにしたのは彼でも、電話をしてきた彼女でもない、この私だ。



「それでも僕は君を愛している」

その言葉に思わず顔をあげた。振り向いた先にはこちらを見つめる真剣な彼がいて、一度合った目はもう逸らせない。けれどその目は彼の方から逸らされてしまった。

「僕は愚かだったよ。どんな理由があれ君よりも優先すべきことなんて何もないのに」

「こんな愚かな男を許してほしい」と俯く彼に思わず手を伸ばして、彼の頬を掴んで顔を上げさせる。目元が熱くじわりと滲んでいた。

「…ど、うして。私、仕事の邪魔をして」
「邪魔なんてことあるわけがない。仮に会社存続の危機についての電話であったとしても、君に背中を向ける必要なんてない。なのに僕は、僕に抱きつこうとする君に背中を向けた。最低だった」
「…気づいてたの?」
「僕も君を抱きしめようとしていたところだったから」

あの瞬間幸せだと、そして寂しいと感じたのは私だけではなかった。私の中でどん底に落ちていたものが少しずつ浮上してくるのが分かる。

「僕は君を抱いてさえいられればそれでいい。背中でも腕でも、君には僕にしがみついていてほしいし、そんな君を僕は離したくない。そこに仕事も他の女も関係ないんだ」

彼の言葉が何度も頭の中で繰り返される。私より優先すべきものはないと言った彼に、戸惑いと同時に身体の中を温かいものが満たしていく。

「何でも言って。今思ってること、何でも話し合おうって言ったでしょう?」

彼の頬から離そうとした手を今度は彼が掴み取る。彼はこんなにも優しさで溢れているのに、私の心の中は暗いもので渦巻いている。

「…なんで金本さんなの。しかも土曜日のこんな時間なんて…いくら仕事でも非常識よ」
「それはそうだ。電話に出た僕が悪かった」

彼が謝る必要なんてないのに、何を言っても彼を責め立てるような気がして言葉が詰まる。けれど繋ぐ手も交わる視線も強く私を求めているから、閉じる喉をぐっと開けて言葉を探す。

「…楓先輩から何度か聞いたの。貴方は女たらしのどクズだって」

気になっていたけど聞けなかったこと。過去をどうこう言いたいんじゃない。けれど彼のことをもっと知りたい。一度放った言葉に後悔が襲うけど、それでも止められないのは彼をここで諦めたくないから。

「…私は貴方と出会って、接して…貴方が本当は優しくて繊細で、私を大事に思ってくれていることを知った。でも、今までに会社で貴方の周りにいる女性を見てきたのもあって少し…気にしてるのも事実なの。
いろんな"お気に入り"の女性がいるって聞いた。噂を信じるつもりはないけど、現に今の"お気に入り"は金本さんだって…貴方が彼女を、電話で優しく嗜めるのを聞くのはこれで2回目よ。…だから…わ、私に思いを伝えてくれるのも…それがほんとに、私だけなのかも…」

疑ってるわけじゃない。でもどこか彼を責め立てているような言い方をしてしまって、思わず下を向く。
彼は私の話を静かに、じっとこちらを窺いながら聞いていた。彼には出会った頃から戸惑わされてばかりだ。掲示板での謎の暗号も、人前での告白も、すぐに手を伸ばして触れようとしてくるところも、私ばかり焦って戸惑って困惑していたように思う。
ぎゅっと握ったままの手に勇気をもらってもう一度顔を上げると、彼は少し寂しそうな顔で私を見ていた。

「"たらし"とか"お気に入り"なんかの自覚は、正直僕にはない。ただ僕はあまり誰かを叱ったりするのが得意じゃないから、なるべく優しくフォローしたいと思ってきたのは事実だ。金本くんとはつい最近まで同じプロジェクトにいたから、余計にそう思われたんだろう。
自覚はないけど…そうやって一緒に仕事をする度に相手の女性にいらない勘違いをさせてきたことは度々あった。でもこれだけは断言する。それらは毎回断ってきたし、断る時に濁したり適当に済ませたりしたことは、一度もない」

その力強い言葉に引き込まれる。私の誤解を解きたいと思っているその気持ちが伝わって胸が締め付けられる。

「…ただそれでも何人かは泣かせてしまって、それを深山がフォローしていたのも知っているから…あいつにそう言われてしまうのはなんとも言い返せない」

彼が楓先輩のことを"深山"と呼ぶのを聞いたときから、彼らには同期としての深い絆があるのだろうとなんとなく思っていた。お互いに軽口ばかり叩いているけれど、信頼し合っているのは分かって、それすらも羨ましいと思った私がいることを、彼は知らないだろう。それだけ私も、彼に思いを寄せてしまったんだ。

「今までに女性を抱いたことがないのは本当だよ。若い頃に女性と付き合ったことはあるけれど、その時には身体の関係なんて結んでいない。それを証明することはできないけれど…僕は穂を愛していて、穂が僕を捧げる最後の人であることを、僕はこれからの人生をかけて証明するよ」
「…っ、それって…」
「君に何を言われても、僕はもう穂を手放せない。君が誰に何を言われようとも、僕と離れることを少しでも考えようとも、僕は君から離れないし、これから先離すことはない」

もし、もし仮にこれらの言葉が全て嘘だったとして、その時はきっと彼を恨むけれど、それでももう離れられないのは私の方だ。

「だって、ずっと片思いしてきた君が、やっと腕の中に入ってきてくれたのに。抱き締める腕を緩めるような愚かなことを僕はしない」
「…私に貴方の人生をくれるの?」
「人生も魂も捧げるよ。僕はずっと君に会いたくて、その為に生まれてきたんじゃないかって、本気で思ってる」

「なんせ、運命の人だからね」と笑った彼に、私も笑って返すけど、それはひどくぎこちないものだった気がする。今日、隙間なく抱き合った彼との時間が蘇ると、そこには私への思いが溢れかえっていた空気が確かにあって、心がぎゅうっと痛くなった。胸をおさえて下を向く私に、今度は彼が頬を掴んで上を向かせた。

「…どうして…どうしてそこまで、私を」
「それに答える前にお願い、誓って。僕は君を悲しませることを絶対にしないと約束するから。君が僕に何も言わずに去るようなことはしないと誓ってほしい。不安に思ったら何でも言って。嫌なことも気に入らないことも何でも言って。だから僕の腕の中から出ていかないで」

切なく苦しい声でそう言って抱きしめられて、突き放すことなんてできなかった。だって私は彼からの思いを受け入れているし、その言葉さえも嬉しくて幸せに思えてしまうのだから。

「…じゃあ、私以外の女に触れないで」
「もちろん」
「頭を撫でるのも、腕を組まれるのもなしよ?」
「そんなことしないよ」
「……でも前にそんな姿を見たわ」
「前を出されると苦しいけど、二度とそんなことはしないよ」
「……あと、他の女に仕事以外で優しくしないで」
「仕事以外で優しくした覚えはないから、これは大丈夫だね。僕が可愛がるのは君だけだよ」
「…これからも私だけを感じて」
「あんなに頑張って自分を曝け出してくれた君を抱いて、それ以外なんて考えられないね」

どこまでも優しい彼に、今度は自分に嫌気がさしてきた。私はただわがままを言って駄々をこねる子どもみたいだと感じて俯くのに、頬にある手がそれを許してはくれない。

「……だめ、貴方といると私、小さな子どもみたいになる…」
「ふふ、穂は末っ子気質だもんね。かわいくて愛したくなる」
「…ならこれからも無条件に愛して」
「もちろん。君の身体にあるすべてが、もう僕のものだからね」

そう言って抱きしめてくれる彼を同じように抱きしめて、どちらからともなく唇を重ねた私たちは、また二人でベッドに沈み込む。

「…あんなこと、言いたくなかったのに」
「どうして?僕は君の心に触れられて嬉しいよ」
「…ほんとに?」
「うん。だからさっきの、もう一度言って」
「さっきの?」
「背中にいて君の顔が見れなかったから」

「君の声で言われると、クるものがあった」なんて素直に言っちゃう彼をずるいなと思う。悔しいから彼の後頭部に手を寄せながら耳元で囁く。
 
「…もう一度、丁寧に抱きしめて?」
「っ…もう、ほんとに君はっ」









「そういえば、普段こんな時間にかかってこないなら、何で彼女は電話をかけてきたの?」

金本さんの電話越しの様子が気になって、もう明け方に近いのに未だ抱き合う彼に聞いた。普段そこまで失礼なことをしない人なら、なぜ今日に限ってこんな夜に、しかも内容は彼に好意を寄せるものでもなく本当に仕事の話だったから、初対面で生真面目な人だと思った印象はあながち間違いではなかったのかと振り返る。

「うーん、君が山崎さんから聞いてないことを僕が言うのもどうかと思うんだけど…彼女次の週明けに別の支店へ異動なんだよ」
「異動って…この前の件で?」
「規約を破ってウイルスを持ち込んだこともそうだけど、彼女のヒステリックな言動から今の部署には向かないと上で判断したんだ。それに…」
「…それに?」
「これは完璧な私情だけど、僕は君を傷つけた人間をいつまでも部下に置いておきたくないからね。君はもう気にしていないらしいけど」

「もっと怒っていいんだよ」と言う彼は優しく私の頬を撫でた。彼女から受けた暴力については、社長からも気が済むなら被害届を出しても構わないと言われた。けれどそこまで根に持っているわけでもないし、彼女を裁いてほしいわけでもないので断ったのだが、それを彼も知っているのだろう、少し苦い顔をしている。
彼が触れた箇所はもう熱も持ってないし痛くもないのに、すっと毒が抜けていくような感じがして、その手に私も自分の手を添える。頬をすりすり動かすと、顔中に優しいキスが降ってきた。

「まぁなので、彼女は彼女の力が発揮できるところへ異動させるってことで落ち着いたから」
「そうなの」
「それで引き継ぎなんかが忙しくてね。彼女には週明けでいいと伝えていた後処理を、休みの日のあんな時間まで会社に籠もってやっているらしい。いくら仕事関連でも今僕が対応するものではないからなんともしてあげられないな」
「…なんか、それなら邪魔しちゃって申し訳ないと思うけど」
「けど?」
「…いやなものはいやよ。もう遅い時間にかかってくる電話は取らないで。特に女の」
「もちろん、そんなこともうないよ」

手を繋いで抱きしめ合って、たくさんキスをして夜が更けていく。思考がトロトロと溶けていった。

「なんだか、お腹がすいてきたかも」
「ふふ、朝ごはん何がいいかな」
「美味しいの作って」
「おおせのままに」

次に起きた時、隣に彼がいるのか、もしくは美味しいご飯の匂いがしているのか、どちらにせよ幸福感しかないなと思ったら自然と笑みが溢れた気がした。




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