運命を破り捨てないで。

ますじ

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千晴の場合――4

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 雨が降る前に帰ろうと思ったが、なんとなく気が向かず家とは反対側に足を向けた。案の定すぐに雨が降り出して、あっという間に頭から爪の先まで濡れ鼠になる。雨脚は強くなる一方で、さすがに帰ろうかと思いはじめたところで公園を見つけた。歩いて疲れたせいか妙に体が重い。少し休んでから帰ろうとベンチに腰掛けた。雨に濡れて寒いはずなのに、身体はなんとなく熱い。風邪でも引いたのか、……それとも。
「ん? 君どうしたの?」
 思考がばらばらになっていくような、泥に沈むような不思議な感覚の中、ふと知らない声がして体が硬直した。脳裏を過ったのは、あのゲームセンターでの事件だ。本能的な恐怖に全身が強張り、寒さとは違う意味で震えあがった。
「こんなとこで何してるの? ……その様子だと、多分ヒートだよね?」
「ぁ……いや、ちが、う……」
 逃げなければと思うのに体が動かない。男はまるで気遣うように傘を差しだすが、その息は興奮で荒く、目もぎらついていた。匂いはないので、恐らくはベータだ。それでもヒートを起こしたオメガにとっては十分な脅威になる。
「風邪ひいちゃうよ。ほら、俺んち近くだからさ。雨宿りしていきなって」
 無理矢理腕を掴まれ、ベンチから引っ張り上げられる。バランスを崩したまま男のほうに倒れ込みそうになった時、別の影が間に割り込んだ。千晴と同じくらい雨に濡れていて、けれど千晴よりもずっと分厚くて頼もしい体だ。ヒートを起こしかけている今だときつすぎるほど感じる、どんなアルファとも違うあの独特の匂いがすぐ傍にあった。
「……あしだ、さん……? なんで……?」
「家にいないって言われたから、ここじゃないかって」
 いつの間にか男に掴まれていた腕は解放されていた。芦田の向こうに取り残された男の姿が見える。男は何事か文句を言いかけたが、芦田が睨むと途端に凍り付いた。千晴にも分かるほどの威圧感だ。これを直接向けられたら誰だって竦み上るだろう。
「帰るぞ」
「あ……」
 芦田に手を取られ、半ば強引に連行される。公園を出て住宅街を進む間も強い雨は降り続けていた。早く身体を暖めなければ二人とも風邪をひくだろう。このままだとどこに連れていかれるのだろう。
 頭が、ぼうっとする。考えがまとまらない。
「あの、芦田さん……」
「なんだ」
「ひ、一人で帰れます。……手、離してください」
「だめだ。うちに来い。もう逃がさねえぞ」
 普段よりも低い芦田の声を聞いて、背筋にびりびりとしたものが走る。膝が笑ってその場に崩れ落ちそうになった。……発情、している。もう隠せないし逃げられない。
「な、なんで……なんでだよ……いみわかんない……」
 身体は芦田を求めてはしたなく熱を上げるばかりだが、感情面は違う意味で暴走していた。腹の底からじわじわと怒りが湧いてくる。情緒不安定になっているのは自覚できたが、どうしても止められなかった。きっとこれもヒートのせいだ。
「離せって言ってんだろ!」
 芦田の手を振り払おうとするが、力では叶うはずもなく失敗に終わる。ただその場に立ち止まって、散歩の帰りを嫌がる犬のように踏ん張った。
「人のこと弄んでそんなに楽しいのか!? あんた何様のつもりだよ!」
「弄んだつもりはない。けどそう思ったんなら、すまん」
「謝るなって言っただろ! 虚しいんだ、惨めなんだよ! 僕の気持ちなんてなんにも知らないくせに! 分かってないくせに! 分かってたまるかッ!!」
 どうにか逃げようと千晴がもがいていると、今まで以上に強く腕を引かれ、そのまま見事にバランスを崩した。千晴が倒れ込む前に芦田が膝をつき、正面から抱きとめる。逃がさないと言わんばかりに力を籠められ、どれだけ暴れても芦田を振り解くことができなかった。
「……なあ、千晴」
「うっさい、うっさいうっさい! はなせぇッ!」
 感情のまま拳を振り上げ、芦田の頭を容赦なく殴りつける。無意識に取ってしまった行動に、千晴はぎょっとして手を引っ込めた。アルファを、好きな人を殴ってしまった。アルファに歯向かったという本能的恐怖と、嫌われたらどうしようという不安とが同時に押し寄せる。しかし芦田は一切動じることなく、千晴を強く抱きしめ続けた。
「頼む、聞いてくれ。……番の契約ができないとしても、それでも俺は千晴のことをパートナーにしたいんだ」
「は……?」
「この先なにがあっても俺は千晴以外を番になんてしない。不安なら俺はこの牙を抜いて二度と生えないようにする。そんで一生、千晴の側にいたい」
 芦田の言っている意味が分かるようで分からず、呆然としてしまう。パートナーにしたい、傍にいたい……不安だったらアルファの象徴である牙も無くすとまで言った。どこまで本気なのか分からないけれど、真面目な芦田のことだから、きっと全部本気なのだろう。
「それくらい本気で千晴のことが好きなんだ。千晴がどれだけ傷付いたか、確かに俺には全部察することも理解することもできない。だけどこれから先、なにがあっても一生添い遂げたいと思ってる。これだけは本当なんだ」
 急激に体の力が抜けていく。芦田は千晴が倒れてしまわないよう、しっかりと支えて抱きしめた。
「……なんだよ、それ……」
「プロポーズだ。分かんねえか?」
「あほでしょ。だって僕はもう番なんて……」
「言っただろ。それでも俺はずっと千晴の傍にいたい」
 そっと身体を離して見つめあう。あれだけ降りしきっていた雨は少しだけ勢いを弱めて小雨になっていた。芦田の顔もびしょ濡れで、らしくもなく泣いているようにさえ見えた。
「なあ……俺が傍にいたら、駄目か?」
「……ずるい」
「千晴の気持ちが知りたいんだ。教えてくれ」
「ずるすぎだろ、ほんとに……」
 だめだなんて言えるはずがない。完敗だ。
 再び体の力を抜いて身を預ける。相変わらず強い力で抱きしめられ、少しだけ息苦しかった。それさえ心地よく思ってしまうのは、もはや病気だろう。
 大きく深呼吸すれば、胸いっぱいに芦田の匂いが満ちた。他のどのアルファにも感じない不思議な香りだ。みんなは甘くていい匂いだと言うけれど、自分にはなんだか苦くて、でも妙に安心する香りだった。
「……あなたのものに、なりたいです」
 ぼそりと掻き消えそうな声で千晴が吐き出す。芦田の呼吸が小さく震えるのが伝わった。
「ものじゃないだろ。パートナーだ」
「はは……そう、だね」
 芦田の手を取り、首の後ろに誘導する。濡れた指先が項に触れると、腰の奥がじんと切なく疼いた。
「噛んで、ください……あなたの……あなただけの、僕にして」
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