リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第二章

27.黒と青の束縛 ★

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 冷たい雨が降る秋の早朝。リアは傘をくるくると回しながら工場こうばまでの道を歩いていた。冷えた空気をゆっくりと吸い込みながら、考え込む。リアは最近、ゼルドリックについて悩んでいた。

 夕食を共にしていた際、ゼルドリックはリアを可愛いと評した。その言葉が深層に影響を及ぼしたのか、その夜は黒の王子様にうつろを満たしてもらう、甘く切なく幸せな夢をリアは見た。リアは黒の王子様とゼルドリックのことを思い出し、小さく溜息を吐いた。

(……あの日から、ゼルが何だか変。正直に言えば……怖いの)

 あの日から、彼の接触が随分と増えた。会った当初から彼はよく自分に触れてきた。硬いと言いながらも手をなぞり、髪を揶揄し、抱き締め……。
 だが、そこには変な言い方だが、少しは遠慮のようなものがあった気がする。彼は、アンジェロやマルティンからの視線をまだ気にしているように思えた。

 しかし、最近はその遠慮のようなものが一切ない。ゼルドリックは人目を憚らず自分に触れてこようとする。自分のものだ、触れたいから触れるのだと言わんばかりの彼の仕草に、心が酷く乱される。

(私が薔薇の手入れをして、棘で怪我をすることがあれば、ゼルはそれを目敏く見つけて軟膏を塗り込んでくれる。何度も何度も、私の掌をなぞりあげつつ……。あの触れ方は、背筋がそわそわするから止めてほしい……。私の指を傷付けた薔薇を、枯らそうとしたのには参ってしまった)

(よく働いた日に肩が張ってしまうことがあれば、ゼルは肩から腰まで丹念に揉んでくれる。いくら断っても聞いてくれない……。あの触り方、少しいやらしさのようなものを感じる。身体が疼いて、よく見るあの夢を思い出して……じっとしていられない)

(腰を揉まれて思わず声を出してしまった日もあった。とても恥ずかしかった。なのに、ゼルは嬉しそうで……、私にわざと声を上げさせるように、何度も何度もしつこく同じ場所を揉んだ)

(唇に薔薇の蜜を塗られるだけなら……まだ耐えられた。でも、香油を胸元に垂らされて、塗られた時は……少し嫌だったかな……)

(休みが合った日に、一緒に観劇を観に行った。大勢の人がいる前で、腰に手を回されて、抱き寄せられて、髪の匂いを嗅がれて……。そのせいで周囲の人たちから揶揄われた。恥ずかしくて、観劇の内容があまり頭に入ってこなかった)

(私に贈ってくれた口紅。ゼルは、それを毎日唇に差すように言った。唇が荒れていたから、紅を差さずに仕事に向かおうとした日は……ゼルは扉を塞いで私を外に出そうとしなかった。結局、あの日は唇に薔薇の蜜を塗られて……彼の指で、何度も唇をなぞられて。潤った唇に口紅を手ずから塗られてしまった)

(口紅だけじゃない。軟膏も、香水も、服も……。ゼルは、色々なものを私にくれる。それを必ず身に着けるようにと強く言って。……身に着けないとずっと理由を聞いてくる。仕方なく身に着けると、ずっと私に触れてくる……。)

(後は……)

 リアはまたひとつ、溜息を吐いた。

 リアは先日、市場でいつも通り買い物をしていた。八百屋で大量の野菜を買い込み袋を持ち上げようとした時、身体の奥底で燻り続ける熱が強い目眩を引き起こした。リアは袋を落としその場に座り込んでしまったが、八百屋のオークが急いでリアに手を差し伸べ、抱き起こしてくれた。

 リアがオークの手を握り何度も礼を述べていたところ、ふと黒いもやが立ち上りそこからゼルドリックが現れた。リアの恩人だというにも拘らず、ゼルドリックはオークを強い言葉で威圧しリアを屋敷に連れ帰った。

 恩人に対してなぜあんな言い方をするのかと訝しげに尋ねるリアに対し、もうあの八百屋には行くなとゼルドリックはリアに言い含めた。リアは納得しなかった。何度もゼルドリックに食いついたが、ゼルドリックはぞっとするような昏い瞳をリアに向け、それ以上取り合おうとはしなかった。

(結局……あれからあの話は出来ていない。どうしてゼルがあんなことを言ったのか分からない。あの八百屋のオークさんに失礼なことを言って。私の行動を縛るようなことを言って。ゼルは、何を考えてるんだろう。……ゼルは私をどう思っているんだろう)

 首元のチョーカーが、纏わり付くような熱を伝えてくる。リアは熱の籠もった息を吐いた。

(中央政府の役人として混ざり血の私に気を配っている……あるいは、友人として私を気遣ってくれている……でも、それにしては……)

 ゼルドリックからの接触は、はっきりと色を含んでいる。
 彼の触り方はどうも、リアにあの「夢」を想起させた。

 身体がずっと疼き続けている。毎夜あの淫らな「夢」を見る。うつろを満たしてもらってから、夢の中の「黒の王子様」は必ず自分の内に入り込むようになった。

 うつろが満たされてから、尚更自分の身体が燃え上がっている。近頃は膣内でも快楽を拾えるようになって、腹の裏側を擦られる度に、情けなく悲鳴を上げて夢の中の王子に縋り付いてしまう。

 真に迫る程のいやらしい夢。自身にはその経験が全くないというのに、何故あそこまで現実のような夢を見てしまうのだろうか?   

 ――大体あれは、本当に夢なのだろうか?

 どくりと、胸が大きく鳴る。

 ふと自分の中に沸き起こった疑念に、リアは足を止めた。

 ――魔法を使える彼なら、夢と見せかけて自分に触れることも可能ではないだろうか?

(……だめ)

 ――身体の疼きは日毎に強くなる。ただの夢が、これほどに身体に影響を及ぼすものだろうか?

(……だめ……こんなことを考えては駄目だわ。ゼルのことを疑ってはいけない)

 リアは、毎夜夢を見るのはきっと自分が度を越して淫らなせいなのだと自虐的な答えを出し、考えを打ち切った。

(私が、どんどんゼルに侵食されていく。私は最近ずっと、ゼルのことしか考えていない……。身体が疼いて疼いて仕方がない。だから……尚更あの夢に溺れてしまう。王子様に、縋ってしまう……)

(ゼルのことが好き。だから、何を考えているのか知りたい。知らないから怖いのよ、ゼルのあの昏い瞳が……。ゼルが何を考えているのか、何を不安に思っているのか知ることが出来たら、あの瞳も真っ直ぐ見られそうな気がする。私は、彼の深いところに触れたい……)

 リアはそんなことを考えつつ、熱い身体を引きずりながら工場に向かった。

 そしてその日は丁度レントを伴ってファティアナがやって来た日で、リアが装身具を見せるとファティアナは大喜びでそれを身に着けた。

「リア、あなたは本当に凄いわ、まるで魔法使いよ! 作品に込められた感情は一層強くなって、一層輝きを増しているわ……。とっても素敵。わたし……うっとりしてしまうわ!」

 リアはファティアナの喜び様を見て微笑んだ。自分の中に巣食う不安や陰りの様なものが、ファティアナからの賛辞の前に霧散していく気がした。ファティアナに捧げてきた作品は、全てゼルドリックを想って作ってきた。ファティアナが喜ぶ様子は、自分の恋情を肯定し応援してくれているようで、リアは喜びを感じた。

 喜ぶ二人を見ながら、レントただ一人が浮かない顔をしていた。レントは、ファティアナとリアには分からないように、眉を悲しげに下げた。

 リアが作品に込めたであろう感情が何なのか、自分はおそらく知っている。
 そして、ファティアナに捧げる作品に曇りが出ようとも、いずれはリアのために、ゼルドリックのために、その芽を摘み取らねばならない。

 レントは心の内で、リアに何度も謝った。

(……リアさん。ごめんなさい)

 無邪気に笑い感想を求めるファティアナに対して、レントは誤魔化すように微笑みを向けた。


 ――――――――――


 それから数日が経った。ある日の昼下がり、リアは暑い鍛冶場の中でひたすら作業に専念していた。

 作業机の上にはファティアナに捧げる作品の案を記した紙が束になって載せられている。リアはゼルドリックと共に過ごしてより、自分の中から良い案が次々と湧き出ることを実感していた。

 リアは笑みを浮かべた。

 自分の作品が王女を始めとした周囲に認められるのは嬉しいものだった。王都での生活にも慣れ、それなりに上手く過ごせているように思えた。

 だからこそ、大きな不安要素である身体の変化が気になる。
 ずっと身体の奥底が熱く、切なく疼くような感覚が続いている。

(私の身体、やっぱりおかしいよね? 急に熱くなったり、鼓動が速くなったり……ゼルは自分が治療するって言ってくれたけど、やっぱり病院に行った方がいいんじゃないかな……)

 リアが物思いに耽っていると、尚更身体の奥が燃えるような感覚がした。熱を冷ましたくて、リアは鍛冶場を出て外に出た。

「……ふう」

 リアは胸元を少し寛げ、熱い肌を風に晒した。涼しい風が汗ばんだ身体を冷ましてくれる。リアは適当なベンチに腰掛け、木々と美しい青空を見上げた。

 王都に来てから数ヶ月が経った。もうすぐ冬が訪れようとしている。

 木々の中にリアは何やら黒いものを見た。それは美しい真っ黒な鷹で、こちらをじっと見ている様だった。リアは、はずれの村で見た珍しい黒い鷹のことを思い出した。

(あの黒い鷹は……王都にも居るのね)

 リアは王都でも鷹が自分を見守ってくれるような気がして、鷹に向けて微笑んだ。そして心地よい風に吹かれながら休憩しているところ、リアは突然声をかけられた。

「久しいな! 綿毛女!」

 どこから現れたのか、背が大きいエルフの男がリアを見下ろしていた。若草色のおかっぱ頭。彼の姿をリアは見たことがある。赤い髪や体型を揶揄ってきた集団の中にいるエルフのひとりだった。前回も「綿毛女」と話しかけてきた高慢なエルフ。

 彼が現れた途端、絶えず吹いていた風が、ぴたりと止んだ気がした。

(確か……ゼルの同僚だったよね?)

 自分に何か用だろうかと、リアは訝しげな気持ちを込めて答えた。

「私は綿毛女ではありません。リアと申します」

「だから貴様の名など、とうに知っているというに!」

 ゼルドリックの同僚は眉をしかめ、ふんと鼻から息を吐いた。高慢なその態度にリアは疲れがどっと押し寄せてくるのを感じた。

「ならなぜ、私の名を呼んでくださらないのですか?」

「貴様の名を呼べぬ理由がこちらにはあるのだ、まあそんなことよりも、貴様に聞きたいことがあってここに来た」

 ゼルドリックの同僚はリアの隣にいきなり座り込み足を組んだ。面倒なエルフが来たものだとリアは内心溜息を吐いた。

「またふっくらとしてきたようだな? しっかりと食えているようで喜ばしい! 貴様は一時期、ハーフドワーフらしからぬ体型をしていたからな。たらふく食べるのは恥ではない、しっかりと代謝に合った食事をしたまえ!」

 はきはきと大きな声でおかっぱ頭のエルフは喋った。リアはその声の大きさに、思わず耳を塞ぎたくなった。

「ご存知ですか? 女性に向かって体型のことをあれこれ言ってはいけないのですよ」

 リアが低い声で怒りを示すと彼は大きな笑い声を上げた。

「まあ、気を悪くするな! 聞いたこともない田舎からやってきた噂の赤毛のハーフドワーフがいきなりやつれたのだ。何かあったのではないかと気にするだろう? 私は中央政府の役人として、混ざり血の貴様を心配してやったのだ! ありがたく思いたまえ!」

「はあ……」

 リアはあなたがやつれた元凶の一人だとは言えず、間の抜けた相槌を返した。

「ところでだ。貴様、ゼルドリックから魔法でも習っているのか?」

「え?」

 リアは目を瞬いた。唐突な質問の意味が理解できなかった。

「え、と……習っていません。そもそも私はハーフドワーフですので、エルフの方々の様に魔法を使うことはできませんが……?」

 リアの答えに、ゼルドリックの同僚は訝しげな様子で眉をしかめた。何かに納得が行っていない表情だった。

「む? だが貴様の中に魔力の器が……。いや、何でもない。ゼルドリックから魔法を習ってないということだな? あい分かった、変な質問をして悪かった。……あともう一つ。貴様はゼルドリックとはどんな関係だ?」

 ゼルドリックの同僚は笑みを引っ込め、真面目な顔でリアに問いかけた。

「……ただの同居人ですが」

「違う。貴様とゼルドリックの間には何か同居人以上のものがある気がするのだ」

 おかっぱ頭のエルフはきっぱりと言い切った。彼はリアの首元のチョーカーに目をやった。
 彼は黒と青のチョーカーに、何か感じるものがあるらしかった。

「そのチョーカー、引っかかる。黒と青は奴の色だ。貴様は相当気に入られているな? 単なる同居人である訳がない」

「いえ、それ以上のことは本当に何も……」

「綿毛女、正直に教えてくれ。貴様はゼルドリックの何だ? 奴の愛玩動物か?」

「愛玩動物? それ、どういう意味ですか……?」

「つまりだ。貴様はゼルドリックと性的関係を結び、その身体を衣食住の対価として、奴の屋敷の中で飼われているのかと聞いているのだ」

「っ……!」

 リアは絶句した。目の前のエルフの男を引っ叩いてやりたかった。
 なぜ自分がそんな失礼なことを言われるのか、全く見当も付かなかった。

「本当に失礼な方ですね。私と彼の間には何もありません! 恋人でも愛玩動物でも何でもない、本当にただの同居人です!」

 怒るリアを前にして、ゼルドリックの同僚は何かを考えていた。
 しばらく顎に手をやり、口を開きかけ何やら逡巡した後、リアに向き直った。

「……確かに、私の質問は礼を失していたな。謝罪する」

 ゼルドリックの同僚は素直にリアに謝った。リアはそれ以上怒りの矛先を向けることが出来ず、強く寄せた眉を緩めた。

「綿毛女。貴様に言っておくぞ。ゼルドリックと過ごす上で何か異常があったり困ったりした時は、周囲のエルフに直ぐ助けを求めろ。もう一つ。外には貴様を見張るものがある。なるべく誰かとは……特に男とは室内で話すのだ。鳥の入らぬところにな。良いな?」

 ゼルドリックの同僚は、リアと目を合わせて口早に言った。
 きん、と頭の中で何かが響いて、リアは無意識に頷いた。

「よし。まだ聞きたいことはあるが……。残念ながら遮蔽しゃへい魔術も持たん、そろそろ時間の様だ。それではな、綿毛女! ファティアナ王女のために精々しっかりと働くことだ!」

 ゼルドリックの同僚はベンチを立ち、呆けたリアを放って去っていった。
 彼が去ると、再び寒い風がひゅうひゅうと吹き始めた。

「何だったんだろう?」

 リアはぽつりと呟いた。何の目的があってゼルドリックの同僚が自分に話しかけてきたのか、さっぱり分からなかった。

 ただ、今の話の内容をゼルドリックに話すのだけはいけない気がした。
 自分の意識の深層にまで、彼の命令の影響が及んでいる様だった。


 木に留まっていた黒い鷹はもういない。何か強いものに押し潰されたように、幾枚もの黒い羽を散らしてその姿を失わせた。

 ――――――――――


 リアが外で寛いでいると、もう一人珍しいエルフを見かけた。
 波打つ茶髪と細く美しい鶴の様な首筋。リアにとってよく見覚えのある姿だった。

「パルナパ様?」

 リアが声をかけるとアンジェロが振り向いた。相変わらずの無表情ではあったが、胸元にリアが贈ったブローチを着けてくれていた。

「久しぶりだな、リローラン殿。変わりないようで何よりだ。以前は食事をご馳走になり大変助けられた」

 アンジェロは平坦な声でリアに礼を言った。その無表情な顔を見てリアは何だか懐かしく思った。

「お元気そうで何よりです! はずれの村ではお世話になりました。パルナパ様はなぜこちらへ?」

「ここには私の友人がいてな。レント=オルフィアンというのだが、彼は甘党でな。よく買った菓子をくれるのだ。だからたまに顔を出すことにしている」

「あら、レントさんとお知り合いだったのですか? 良い人ですよね! 私にもとても優しいのです」

 リアが笑顔で言うと、アンジェロは瞬きをひとつした。

「なるほど、リローラン殿はここで働いているのだったか。それならば、彼と仲良くなってもおかしくないな」

「はい! 鍛冶場にある道具や石は、レントさんが用意して下さったのです。歳も近いのですぐ打ち解けました」

 リアがにこにこと笑いながらレントの話をすると、アンジェロも微かに笑った気がした。

「彼は親切だからな。リローラン殿が元気に働けているようで良かった。ああ、そうだ。ゼルドリック様とは上手く行っているか?」

「ゼ……いえ、ブラッドスター様とは、特に問題なく暮らしています」

(危ない、ゼルと言いそうになってしまった……)

 リアが顔を赤らめ、共に食事を取ったり薔薇の咲く庭を毎朝散歩していると伝えると、アンジェロは意外なものを見たように僅かに目を見開いた。

「そうか。二人が上手くいっている様で安心した。マルティンも喜ぶだろう」

「マル?」

 リアはアンジェロの口から出た弟の名前に目を瞬いた。

「ああ。干し肉を貰ったことがきっかけで仲良くなってな。まとまった休みが取れたら彼に会いに行くといい。あいつは気丈だが、リローラン殿に会えなくて寂しがっているだろうからな」

「……はい」

 リアは王都から遠く離れた村に住む弟の姿を思い出し目が潤むのを感じた。もう随分と会っていない。いつか休みを取って、はずれの村に向かおうと決めた。

「そうだ。あなたに聞きたい事があった。マルティンからの手紙は届いたか?」

「手紙ですか? いいえ、私の元には何も……?」

「……ふむ? マルティンがあなたに手紙を出したが返事が無いと言っていたのでな。まあ、郵便が遅れているのだろう。……さて、私はそろそろ失礼する。次の仕事に向かわねばならないのでな。リローラン殿、ゼルドリック様と仲良くな」

「はい、ありがとうございます」

 アンジェロは無表情な顔のまま、視線をリアの首元に向けた。青の貴石が輝くチョーカーを見つめたまま、アンジェロは平坦な声でリアに忠告をした。

「ああ、そうだ。あなたに言っておく。ゼルドリック様の前では、なるべくレントの話は出さないほうが良い。レント以外の男の話もな。私とも話したと言わない方が良いだろう。そうした方があなたの為になる」

「えっ?」

 どういうことだ、と聞こうとしたが、アンジェロは転移魔法ですぐその場を後にしてしまった。

「パルナパ様まで……? もう、何なんだろう……」

 リアは混乱した。ゼルドリックの同僚もアンジェロも、意味深なことを自分に言う。
 彼らが何を言いたいのか、リアには分からなかった。


 ――――――――――


 結局その日は作業に集中出来なくて、リアは早々に鍛冶場を後にした。ゼルドリックの同僚とアンジェロから言われた言葉が、喉に刺さった小骨の様に自分の中で引っかかり続けている。俯きながらとぼとぼと歩くリアの肩を、誰かが優しく叩いた。

 ぱちり、と静電気が走った気がした。

「リアさん。何だか元気が無いようですね」

「……レントさん」

 気遣わしげにレントはリアの顔を覗き込んだ。さらさらとした金の髪が夕日の光を受けて、きらきらと美しく輝いている。レントの髪を見て、リアはいつしか村の高台で見た、夕日に照らされ美しく輝くゼルドリックの横顔を思い出し、つい顔を赤らめた。

「お疲れですか? 無理はしていませんか」

「大丈夫です! お気遣いありがとうございます」

「そうですか……。何事も無いのであれば安心なのですが、リアさんは少し頑張りすぎるところがあるので」

「まあ、そんな風に見えますか?」

「はい。はずれの村で暮らしていた時も誰かに言われませんでしたか?」

 リアはマルティンの顔を思い出した。レントは斜め上を見たリアを見て、心当たりがあるようですねと笑った。

「その方にも心配をかけてはいけませんね。ファティアナ様も僕も、リアさんにはゆったり働いて欲しいと思っているのですよ」

「ありがとうございます……心配してくれるひとがいるのは、ありがたいことですからね」

 リアはレントに、マルティンの話をした。はずれの村で長年共に暮らしてきた大切な弟。いつしかまとまった休みを取って彼に会いたいというと、レントは是非と言ってくれた。

 レントも人間の母の話をリアにしてくれた。もう亡くなってしまったが、貧しい田舎村で朝も夜も働いて、自分を養ってくれた立派な人なのだと彼は言った。また、自身にも血の繋がらない家族の様な、とても心優しいエルフたちがいるのだと言った。

 レントが母や親しい者たちを語る声には温かみが籠っていて、リアがつい両親やマルティンのことを思い出して目を潤ませると、レントも思い入った様に声を震わせた。

 二人の会話は弾んだ。そうして、リアとレントが家族の話をしていると辺りが暗くなり始めた。橙の空には紺が差し込んでいる。

「ああ、陽が落ちるのも早くなりましたね……」

「本当に。一気に寒くなりますしね。早く帰って暖まりたいです」

「僕も同じ考えです。さてと……そろそろ行きましょうか。暗いので、ゼルドリック様のお屋敷まで送っていきますよ」

 リアが礼を言おうとした時、レントの姿が急に見えなくなった。リアの目の前は、黒いもやによって覆い尽くされた。

「その必要は無い」

 黒いもやの中からゼルドリックが姿を現した。リアの姿をレントには見せないとでもいう様に、彼女の身体をすっぽりと抱き締めている。

(え、ゼル!? どうしてここに?)

「……ゼルドリック様。お疲れ様です」

 レントが頭を下げたにもかかわらず、ゼルドリックは挨拶を返さなかった。警戒する様に彼をじとりと睨み、リアを抱える腕に力を込める。それはリアを決して渡さないという意思表示のように見えた。

「彼女の帰りが遅いから、何かあったのかと思って来てみれば……またお前がいる」

 ゼルドリックは唸る様な低い声を出した。

「レント=オルフィアン。彼女に話がある時は私を通せと言った筈だが」

「リアさんとはただの世間話をしていただけですよ、ゼルドリック様。それよりも、あまり力を込めるとリアさんが苦しいのではありませんか」

 レントの言う通り、リアは苦しかった。彼の太い腕が、容赦なくリアの身体を締め付ける。リアはゼルドリックの胸を優しく叩いたが、彼は尚更リアの身体を自分に押し付けた。

「誤魔化すな! 私以外のエルフと話すことでリローランに影響が出ては堪らん。彼女は非常に繊細ゆえ。本当はお前の工場で働かせることすら厭わしい!」

 自分の身体からぶわりと黒い魔力を出し、敵意の籠った声音でゼルドリックは吐き捨てた。なりふり構わない、礼を失した中央政府の役人ならざる態度を前にして、レントは冷や汗が自分の背中を流れていくのを感じた。

 ――このダークエルフは、予想以上に彼女に執着している……!

「もう一度言う。彼女に話がある時は私を通せ」

「お言葉ですが、私が管理している工場で働いていただいている以上、私もリアさんに日々の様子を伺う義務があるのです」

 レントは震えを抑えながら目の前のダークエルフに対峙した。

「ゼルドリック様。どうか冷静さを取り戻していただきたい。私はあなたの厳格さを尊敬しています。あなたはいつだって礼儀を重んじ、同胞のためにその身を砕き、任務を忠実に遂行する方だった筈だ。こんな……」

 ――同じ中央政府に勤める者を魔力で脅したり、越権行為とも取れるような形で、特定の女に入れ込む様な方ではなかっただろう?

 そんな気持ちを込めてレントがゼルドリックに懇願の眼差しを向けても、ゼルドリックは変わらなかった。レントを仇のように睨めつけ、尚更黒い魔力を吹き上がらせた。

「お前と話すことは何もない。私は、私の任務に忠実であるだけだ。彼女は私の庇護下にある。彼女の面倒は私が見ている! そこにお前が入り込む余地など無い!」

「ゼルドリック様……」

 目の前の男とかつて厳格であった役人の姿が重ならず、レントは静かな絶望を覚えた。彼は、決して公私混同をするようなエルフでは無かったのに。

 その時、もがいてゼルドリックの腕から抜け出したリアが、レントとゼルドリックの間に立った。

「ゼル、待って! レントさんは私を気遣ってくれているだけなの! 彼にそんな言い方をしないで」

「奴を庇うか」

 リアはゼルドリックに縋ったが、ゼルドリックは昏い瞳をリアに向けた。毒蛇に睨まれるような、大きな獣に見られるようなぞっとするような恐怖が込み上げる。リアは背筋を震えさせた。

「はっ……気遣う、か? 気遣いの裏に劣情が隠れていたらどうする? 放っておいたら、何もかも奪われてしまうかもしれない……。見過ごせない!」

「うあっ!?」

 リアは再びゼルドリックに抱き寄せられた。チョーカーを着けた首にぴとりと手を添えられ、顔を強張らせるレントの方を向かされる。

「レント=オルフィアン。身の程知らずのお前に教えてやる。これが見えぬか?」

 ゼルドリックは青の貴石が留められた黒いチョーカーをレントに見せつけた。そして恋人にするように、リアの胸や腰にしっかりと腕を回す。

「この女は私のものだ。決して手を出すな」

「ひうっ……」

 身体を撫でるゼルドリックの手に、リアは短く悲鳴を上げた。チョーカーからじわじわと熱が伝わってきて、背後に落とされたゼルドリックの声は酷く冷たくて。身体を震えさせ縮こまる哀れなリアの姿に、レントは思わず手を伸ばした。

「ゼルドリック様! リアさんが怯えています、止めて下さい!」

 ゼルドリックはレントの言葉を聞かず、リアに纏わり付くようにしっかりと後ろから抱き締めた。

「レント=オルフィアン……。お前を見ているぞ」

 短く吐き捨てゼルドリックはリアを連れ去った。
 レントは肌寒い空気に晒されながら、しばらく考え続けていた。

(……まずい、本当にまずい)

 レントは思わずその場で吐きそうになった。己より力の強い者の魔力に気圧されるのは、内臓を無理やり揺り動かされるような、どうしようもない不快感があった。

(一刻も早く、リアさんをゼルドリック様から引き剥がさなければ。リアさんも、ゼルドリック様も戻れなくなる)

 レントはリアの肩を叩いた際に、また悍ましい未来の断片を視た。きっかけが何であれその未来は近づいている気がする。あの役人の、リアに対する狂気ともいえる執着を垣間見れば。

 まだ遅くはないだろうか?
 無事に狂気の芽を摘み取ってしまうことは出来るだろうか?

 何もかも元に戻して、あの厳格な役人の姿を取り戻してもらうことは出来るだろうか?

(どうか、間に合ってくれ……。リアさんを保護するための準備は、着実に進んでいるから……)

 悍ましい未来。
 耳の奥で、リアの擦り切れた悲鳴が響き続けている。

 レントは思わず、拳を強く握り締めた。


 ――――――――――


「ゼル、ねえ……ゼル! 一体どうしたの!?」

 屋敷に転移してからも、リアはゼルドリックに抱きしめられ続けていた。彼の胸を優しく叩いても一向に離してくれないので、仕方なく腕に力を込めて胸を押せば彼はふらりと離れた。

「ごめんなさい、痛かったわよね? でも放してくれないから……ねえゼル。レントさんと何かあったの……?」

 ゼルドリックは昏い瞳をリアに向けた。海の底の様な仄暗く濁りのある青が、じとりとリアを見つめている。

「ゼル……私のことを心配してくれたのは分かるけど、レントさんにあんな言い方をしてはいけないわ。彼は私のことを気遣ってくれる本当に優しい人なの」

「あやつの話をするな!」

「っ……!?」

「君は放っておけない。君に話しかけたがる奴が沢山いる、絶対に放っておけない……。また君が、悪い影響を受けてしまうのかもしれないと思うと」

 ゼルドリックは以前自分がやつれきり髪を染めようとしたことが余程衝撃だったらしい。過保護ともいえる行動で、自分を庇護しようとしているのだとリアは思った。

「えっと……ゼルの心配する様なことは何もないわ、だから……そんなに心配しないで。ね?」

 ゼルドリックの顔は晴れない。彼は放った鷹から見聞きしたリアの様子が気になってどうしようもなかった。

(リア、君が誰かに奪われてしまうかもしれないと思うと冷静ではいられない。なぜレント=オルフィアンに対して、顔を赤らめたり目を潤ませたりした……? なぜあんな顔を? あの顔は俺だけのものなのに! もしかして、君は奴が好きなのか?)

 リアが自分以外の誰かを好いている。
 その想像は、足元が崩れ落ちる様な感覚をゼルドリックに与えた。

(奪われたくない、絶対に……!)

 ゼルドリックが目を瞑れば、リアは悲痛な表情を浮かべる彼を安心させる様に柔らかく抱きしめた。

「ねえ、ゼル……。あなたの優しさは伝わっているわ。こんなに心配してくれて、私はとても嬉しいの」

 リアは手を伸ばしゼルドリックの頬を摩った。こうすれば彼に安心感を与えられることをリアは知っていた。リアの手の動きに合わせて、黒く尖った耳がひくひくと動いた。

「でもね、もう体型や髪を誰かに論われたとしても平気よ。だって私のことは、私の両親やマル、そして……あなたが認めてくれるから。あなたが私の髪を好きって言ってくれるなら、充分なの」

「……」

 柔らかく微笑むリアに対して、ゼルドリックは何も返さない。ただ昏い昏い陰りのある青い瞳を、リアに強く向け続けている。

「……ゼル?」

 リアは訝しげに彼の名を呼んだ。
 ゼルドリックは、頬を摩ったり手を握ったりして、自分が笑顔を向ければ安心してくれる筈だ。いつもはそうであるのに、どうしてこんな表情の抜け落ちた顔のままなのだろうか。どうして光を吸い込んでしまいそうな程に昏い瞳を向けてくるのだろうか。

「ゼル。どうしたの? 言いたいことがあるなら言って。最近のあなたはちょっとおかしいわ。……随分と過保護よ」

「過保護だと?」

 ゼルドリックは唸りリアの手首を強く掴んだ。乱暴な行いに、リアは思わず小さな悲鳴を上げた。

「君は、君は! 君はどんなに周囲から注目を集めているか分かっているのか!? 俺がどんなに心を砕いて、君を守ろうとしているか分かっているのか!? いつでも無防備な姿を晒して、疑うこともせずに誰にでも話をしようとして!」

 リアは肩を震わせた。声を張り上げ激昂するゼルドリックを見るのは初めてで、自分の何が彼をここまで怒らせたのか全く分からなかった。

「俺の気遣いを、過保護の一言で済ませようとするな! 混ざり血の君は弱いのだ! 特に真っ赤な髪を持つ豊満な身体付きの女など……悪いものが蔓延る王都で君の手を離したら、絶対に誰かに攫われる、奪われる! 俺の元から君が居なくなる! 俺の元に居るのが一番安全なのに、他の奴に近づく必要など無いのに! 君はそれを分かってくれない! だから俺は……」

「ゼルっ……ゼル! どうしたの?」

「そのチョーカーを忘れたか!? 俺がどんな気持ちでそれを君に贈ったか! 俺以外の男に近づくな、話をするな! 君は俺の……」

「っ! 痛いわ、放してよ!」

 リアが手首を勢いよく捻ってゼルドリックから逃れれば、彼は痛みから我を取り戻した様だった。昏い瞳に、少しずつ光が戻っていく。

「あっ……」

 口を開きかけまた噤む。黒く尖った耳が下がっていく。

 リアの赤くなった手首を見て、ゼルドリックは酷く後悔している様だった。青褪めたかのような顔で、彼は手に光を宿しリアに治癒魔法を掛けた。

「リア……済まない。本当に済まない……」

 ゼルドリックは小さく震える声でリアに謝った。泣きそうにも聞こえる声がリアの心を揺さぶり、不安にさせた。

「ゼル……お願い。思っていることがあるなら話をして。私はあなたを不安にさせたくない」

 リアはゼルドリックを気遣った。
 ゼルドリックの言葉が強く引っかかり、頭の中で警鐘が鳴り続けている。

(怖い。……だけど逃げてはいけない。ゼルの真意を知りたい)

「……済まない。俺は冷静でなかった」

 ゼルドリックはリアを優しく抱き締めた。遠慮するように、彼女の肩をごく優しく抱き寄せた。

「リア、……リア。どうか、どうか俺を、嫌わないでくれ……頼む……」

 頭上に落ちる言葉。あまりにも心細く泣きそうな声に、リアはそれ以上追及することは出来なかった。ただ、大きな背中を安心させるように摩ることしか出来なかった。

「……ゼル。嫌わないわ、落ち着いて……」

 ゼルドリックが落ち着くまで、リアは長い間彼を慰め続けた。彼を安心させるように。自分を安心させるように。ゼルドリックの我を忘れた様子はリアの心にひとつ、黒い染みを落とした。その染みは消えなくて、リアの心に不安の杭を打ち込んだ。

 ――この女は私のものだ。決して手を出すな。

(……私、ゼルの、ものじゃないよ)

 ゼルドリックとは恋仲ではない。彼から告白を受けたこともない。友情にしては、庇護欲にしては行き過ぎている彼の行動に……最近、酷く息が詰まる。

 彼が怖い。好きなのに、好きで仕方がないのに、時々彼が向けてくる独占欲のようなものに、心が惑わされる。

(ゼル。あなた一体……どうしたの?)

 リアはもう、はっきりと感じた恐怖を誤魔化すことはできなかった。


 ――――――――――


 そしてリアは、その夜また淫らな「夢」を見た。
 その日見た夢はいつもと違い、苦かった。嫉妬に狂う王子に何度も求められ、絶頂に追いやられる夢だった。

「う、あああっ、おねがっ、ゆるして! あやまる、からぁっ……!」

 四つん這いにされ、後ろから剛直を打ち付けられる。肉がぶつかり合う音が響き、リアは快感に慄いて尻だけを高く上げた。

「ふああああああああんっ……!」

 絶頂を迎え、びくびくと身体を痙攣させるリア。白い背中に手を這わせ、ゼルドリックはリアの耳元に低い声を落とした。

「……もっと謝れ、そして言え。俺が好きだと。俺のものだと……」

 達したばかりだというのに、また緩やかに腰を打ち付けられる。逃げ場のない状況で弱い場所をひたすら擦り上げられ、リアは力なく喘ぎ続けた。

「ああっ! ふ、ううっ、あ、あっ! ……あ、わたし……は、ゼルが……好き……わたし、ゼルの、もの……」

 ゼルドリックが怒った理由は、リアの寝言だった。レントと顔を合わせ辛くなってしまったと考えたリアは、寝言で誤解されたら嫌だと呟いてしまった。それをゼルドリックが強張った顔で聞いているとも知らずに。

「誤解っ、誤解だと!? ふざけるなよ……誤解されて何の問題がある!? リア、君は俺のものだ! どんなに君が足掻こうとも、この身体はっ」

「はあっ、あああああんっ、もう、もう無理っ! またいっちゃう!」

「はっ、はあっ、ほら……存分に達け……もっと情けなく悲鳴を上げる姿を見せろ!」

「う、ふうっ、あっ! ……いやああああああっ……!」

 擦り切れた悲鳴を上げるリアに、ゼルドリックは暗く笑った。

「ははっ、ほら、こんな簡単に気持ちよくなる……。君は逃げられない、リア……」

(……どうして、こんな夢を見るの? 怖いよ、王子様……)

 甘く幸せな幻にまで陰りが出ている。
 リアは不穏な気持ちを抱きつつも、深い眠りに落ちていった。
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