リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第二章

36.救いの手

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 リアに一筋の光明が差しこんだ。

 月のものに痛む腹を温めながら、リアはゼルドリックのベッドの上で休んでいた。扉の外から、何やら話し声が聞こえる。それはゼルドリックと、アンジェロの声だった。

(……? 何かしら?)

 二人の話し声は穏やかには聞こえず、まるで言い争うような感じを受けた。リアはベッドから降り、そっと扉に耳をつけた。

「ゼルドリック様。私はあなたを尊敬しております、私が一人前になれたのはあなたの指導があったからこそ。ですから、あなたの頼みは何でも受け入れて差し上げたいところですが、それだけは聞けません」

「何故だ、俺の屋敷から通わせれば良いことだ! わざわざ住居まで変える必要性が感じられない!」

「ゼルドリック様。リローラン殿を望む方はたくさんいらっしゃいます。私たちパルナパの中にも。そしてそのパルナパには王族もいる。不敬で処されたくはないでしょう。よく考えて下さい。リローラン殿と会う手立てを全て失うことになりますよ」

「くっ……」

 ゼルドリックの怒りが滲んだ苦しそうな声をリアは聞いた。一体二人が何の話をしているのか、リアには分からなかった。その時、部屋に近寄ってくる足音がしてリアは急いで扉から離れた。適当な椅子に座り、何も聞いていなかったかのように装う。かたりと音がして、部屋の扉が優しく開かれた。

「リローラン殿、迎えに来た」

「アンジェロ様……」

 アンジェロは眉を下げた。労りと痛ましさが彼の顔に浮かんだ。リアはアンジェロに優しく立つよう促された。そしてその後、その肩に柔らかくコートを掛けられた。上質な柔らかさが、リアの背中を温める。アンジェロは労るようにリアの背中を撫でた。

 アンジェロは、リアの耳元にそっと声を落とした。

「リローラン殿。あなたはここから出ることを望むか? 出たいのなら、私が手を貸そう」

 リアはアンジェロを見つめた。
 アンジェロは自分の身を気遣ってくれたのだろうか? ゼルドリックとの対話が上手くいかなかった時のために。ゼルドリックは自分と話し合う気が一切無いように見える。

 ゼルドリックと一旦距離を置きたいと思っていたリアは、彼の問いにこくりと頷いた。

「分かった。あなたはゼルドリック様の前で何も言わなくていい。私に任せてくれ」

「あ……」

 リアはアンジェロに手を取られた。彼の身に着ける白い手袋から、ひんやりとした冷たさが伝わってくるようだった。ぱちりと電流が走ったのをリアは見たが、アンジェロはそれを意に介さなかった。

 その時、勢い良くゼルドリックが部屋に入ってきた。リアの手を取るアンジェロを、ゼルドリックは荒い息を吐きながら睨みつけた。

「はあ、はあっ……まさか、お前が俺に足止めの魔法を使うとは。俺は納得していない! リアの保護はまだ俺に一任されている! 命令書なしでは、いくらパルナパでもリアを勝手に連れて行くことは許されないはずだ!」

「いいえ。許されるのですよ、ゼルドリック様。時には権力がものを言う。私の母が退庁する前、どんな立場にあったかあなたはお忘れですか? パルナパ家である私はその権力を振りかざせば、上司であるあなたの首をいとも簡単に刎ねられる。無事でいたければそれ以上の我儘は言わないことです」

 アンジェロはわざと高慢さを滲ませた言い方でゼルドリックを牽制した。

「リローラン殿はこれからパルナパ家が保護いたします。……さあ、行こう」

 アンジェロはリアに薄く微笑み、すぐさま転移魔法を発動させた。

「待て! 行くな! リア!」

 叫ぶゼルドリックを残し、アンジェロとリアはその場から消え去った。


 ――――――――――


 リアが転移した先は、石壁に囲まれた薄暗く冷たい部屋だった。
 リアが思わず肩を震わせれば、アンジェロがストールを首に巻いてくれた。

「リローラン殿、慌ただしく連れてきて申し訳なかった。強張った身体を緩めてくれ。ここにはあなたを傷付けるものは何もない。ゼルドリック様もあなたに手を出せない」

 アンジェロは優しくリアの手を摩った。彼は、自分を助けに来てくれたのだ。
 ゼルドリックと共に生活を送る上で深くなっていく一方だった絶望が、緩やかに解けていく。包容力のある言葉に、リアは安心感から涙を零した。

「あ、ありがとうございます……。私、どうしたらいいか分からなくて、ゼルから、逃げられなくて、距離を置きたくてっ……」

 取り留めの無い言葉を漏らし泣くリアを、アンジェロはただ優しく見守り続けた。

「あなたひとりでは、あのゼルドリック様から逃げることは叶わなかっただろう。とても辛い思いをしたはずだ」

「うっ……すみ、ませっ……ひっく……」

「大丈夫だ。落ち着くまで存分に泣くといい」

 リアが泣きながら心を落ちつけていると、突然部屋の中心に風の渦が巻いて、そこから二人のエルフが現れた。それはレントと、ゼルドリックの同僚、オリヴァーだった。

「リアさん? ああ……リアさん……! 良かった、無事で! 会えて本当に良かった……!」

 レントは美しい灰色の瞳を潤ませ、ほっとした様子でリアに駆け寄ってきた。リアは懐かしいエルフの友人の顔に、ぶわっと涙を溢れさせた。

「レント……さ……。」

「リアさん……!」

「待ってくれ」

 リアの肩に触れようとしたレントを、アンジェロが急いで止めた。

「危ない。リローラン殿には魔法式が施されている。彼女に触れては火傷をするぞ」

「えっ……」

 レントは青褪めた顔で手を引っ込めた。アンジェロの言葉を聞いて、オリヴァーが大きく溜息を吐き怒りを露わにした。

「はああ……。あの男……! 本当にとんでもない奴だ! 誰かを殺めることがあったら一体どうするつもりだ!?」

「本当に。私もこの手袋がなかったらリローラン殿に触れることは出来なかった。ミーミス様に感謝しなければ」

 リアはアンジェロが身に着ける白い手袋を見た。この手袋があったから、彼は恐ろしい電流を意に介さなかったのだと察した。

「さて、私は次の仕事に取り掛からねば。リローラン殿。慌ただしくで済まないが、あなたに伝えなければならないことがたくさんある。この二人と話をしてくれ」

「あっ……」

「レント。リローラン殿を頼む」

 アンジェロはすぐその場から消え去った。そして、オリヴァーがリアに近づいてきた。
 その顔は苦くしかめられ、白く長い耳は垂れ下がっている。

「綿毛女。無事で何よりだ」

「あなたはゼルの……同僚の方でしたよね」

「ああ。貴様に名乗ったことは無かったか。私はオリヴァー=ブラッドスターだ。綿毛女。ゼルドリックの元から貴様を救い出すのが遅くなり大変申し訳なかった。謝罪する」

 オリヴァーはリアに深く頭を下げた。彼の若草色のおかっぱ頭がさらさらと揺れる。リアは彼が謝る理由が分からなかった。急いでそんなことはしなくていいと言ったが、オリヴァーは中々頭を上げなかった。そしてしばらく経った後に腕を捲くり、リアに手を伸ばした。

「綿毛女。落ち着いて聞いてくれ。薄々気が付いているかもしれんが、ゼルドリックは貴様にいくつもの悍ましい魔法を掛けている。そのうちの一つは、貴様に触れようとした男に対して無差別に強い電流を流すものだ」

「……え?」

 リアは自分に触れようとしたアンジェロが指に火傷を負った時のことを思い出した。
 もしやと思ったが、あの攻撃的な魔法はやはりゼルドリックが掛けたものだったのだ。

 何のために? 
 自分を縛り付けるために? 
 そのためだけに、あんな恐ろしい魔法を……?

 リアは彼の狂気にぞっと背筋が冷えた。

「その魔法がかけられたままではおちおち話も出来ぬ。私は今から、貴様にかけられた魔法をひとつひとつ解除していく。そこにある寝台に寝転がってじっとしていろ。時間はかかるだろうが、必ず魔法を解くことを約束しよう」

 オリヴァーは顔を青褪めさせたリアにそう言った。彼のその声は真摯に溢れていて、リアはオリヴァーをすぐに信用した。彼は自分を守ってくれようとしていると、直感的にそう判断した。

「……分かりました。ブラッドスター様、よろしくお願いします」

「ふむ、ブラッドスターとな? エルフにはその姓が多い、特別に私の名を呼ぶことを許そう。さて、楽にしておけ。魔法の解除には相当時間がかかりそうだからな」


 オリヴァーはそれから、リアに掛けられた魔法の解除に入った。リアには彼が何をしているのか全く分からなかったが、汗をぼたぼたと垂らしながら必死な顔で魔法を解こうとするオリヴァーを前に、彼の負担にならないようにひたすらじっとして耐えた。

 魔法の解除は何時間も続けられた。魔法を解さぬリアが感じるほどに、ゼルドリックの魔法は攻撃的だった。

 その魔法はオリヴァーの腕を深く傷付け、何度も血を吹き出させた。そして唐突にリアの周囲の空気が燃え上がり、彼に火を燃え移らせることもあった。リアはオリヴァーが傷付く度に悲鳴を上げ魔法の解除をすぐ止めるように言ったが、彼はリアの言うことを聞こうとしなかった。

 若草色のおかっぱ頭が苦しそうに揺れる度、レントが気遣わしげにオリヴァーに声をかける。傷に治療を施しながら、レントはふらふらと立っているオリヴァーを支え続けた。

 そしてとうとう、オリヴァーの手によってリアに掛けられた魔法は全て取り除かれた。魔法の解除に成功したことを確認した後、オリヴァーは大きな笑い声を上げて、そしてその場に勢い良く頭からくずおれてしまった。





「オリヴァー様。大丈夫ですか?」

 レントがオリヴァーに声をかけたところ、彼は苦しそうに呻き声を上げた。
 オリヴァーは簡素な寝台の上に寝かされていた。リアが彼の額の汗を優しく拭い、レントが傷付いた腕の治療をする。オリヴァーは二人がかりで面倒を見られながら、掠れた声で悪態をついた。

「ぐ、ううっ……。全く、全く酷い魔力だった……! 肌の上を蛆が這い回るような、腐乱した手に何度も掴まれるような……。全くもって気色が悪い魔力だった……。解除にこんな苦労をしたのはこれが初めてだぞ! こんな何十もの魔法式をエルフでもない女に施すなど、ゼルドリックの奴は何を考えているのだ……? あやつは正気じゃない! うぐっ……」

「オリヴァー様……。あなたはゼルドリック様の魔力を吸って、酷い魔力酔いを起こしているようです。お身体に障りますから、どうかあまり口を開かないで下さい」

「レント! これが口を開かずにいられるかっ……! 忌々しくて仕方がない! あやつめ、姑息なことに発火と切断の魔法式まで重ね掛けしていた! 私の美しい髪は焦げ、滑らかな肌には傷が付いてしまったぞ! もしも解除に失敗したら、私の頭が吹き飛ばされていた! ゼルドリックの奴め、絶対に許さぬからな……うぐうっ……」

 魔力酔いが相当辛いらしく、オリヴァーは悪態をつきながらも脇腹を押さえうずくまった。リアは彼の苦しむ顔に酷く心を痛ませた。彼の顔に滴る汗を拭いながら、そっと若草色の髪を尖った耳に掛けた。

「オリヴァー様、申し訳ありません……。私のせいで、あなたを傷付けてしまいました」

 ぽつりと降ってきたリアの声に、オリヴァーは苦しみながらも頭を振った。

「別に貴様のせいではない、だからそんな陰気くさい顔をするな。貴様に染み付いたゼルドリックの魔力を消すのは、この私が適任のゆえに……。感謝しろよ綿毛女。貴様の身体は、私のお陰で随分と良くなった筈だ……」

 荒い息を吐きながら、途切れ途切れにオリヴァーはリアを慰めた。

 彼の言う通りだった。身体を苛み続けていた不自然な熱が治まっている。リアは不思議で仕方なかった。

「はあっ……。レント、済まないが私は疲れた……。後を頼めるか……」

「はい。勿論ですオリヴァー様。あなたの魔法解除の技巧、あまりにも見事なものでした。どうかゆっくりその身体を休めて下さい」

 レントが優しく彼に称賛を贈ると、オリヴァーはにんまりと笑った後、寝台の上で高らかに笑った。

「はははっ! そうだろう? そうだろう? 素晴らしかっただろう? 私も私自身の技巧に惚れ惚れしてしまった! 私は素晴らしいのだ、もっと褒めたまえ! んぐぅっ」

 自分の技巧を褒められることが嬉しかったらしく、オリヴァーは上機嫌になったが、すぐにまた脇腹を押さえてうずくまった。

「はあ……。オリヴァー様。大きな笑い声を上げないで下さい。腹が痛みます」

「そうだな。駄目だ、流石の私も辛い。レント、私はもう寝るからな……」

 オリヴァーはそう言ったきり目を閉じた。すぐに寝息を立て始めたオリヴァーにそっと毛布をかけて、レントがリアに向き直った。

「リアさん。……ご無事で、本当に良かった」

「レントさん……!」

 リアはレントから抱擁を受けた。リアもまた友人の顔を見て、安堵の涙を流した。

「レントさん……。でも、どうしてここに?」

「あなたを救うために」

 レントは灰色の瞳を潤ませた。

「ゼルドリック様から、リアさんが体調を崩してしばらく休むと聞いた時に、とても嫌な予感がしました。僕がアンジェロに頼み事をしたのです。リアさんはゼルドリック様の手によって屋敷に閉じ込められている可能性があるから、パルナパ家の権力を使ってゼルドリック様とリアさんを離してくれないかと。……パルナパ家は権力のある一族ですから、ゼルドリック様でも逆らえません。我々では彼に敵わない。姑息な手を使ってでも、あなたを救い出す必要があった」

 レントはストール越しに、リアの首筋に咲く幾つもの赤い鬱血痕を痛ましい目で見た。そしてまた、リアを優しく抱き締めた。

「やはりあの未来は避けられないのだと、そして急激にその未来は近づいているのだと、あなたを目の前にして、改めてそう思いました。そんなに痕を付けられて辛かったでしょうに」

「……どういうことですか? 未来って……?」

「リアさん。あなたは僕の友人だ。善きハーフドワーフだ。あなたが傷付くところを見ていられない。あなたを救いたいのです。落ち着いて、僕の話を聞いていただけますか」

 レントの灰色の目がゆらゆらと揺れている。リアは今にも泣いてしまいそうな友人の顔を見て、そっと抱き締め返した。優しい彼のことだ、きっと自分にとって酷く良くないことを話そうとしているのだとリアは察した。

「分かりました」

「……リアさん、僕の話は長くなります。あなたにとって、酷く辛い話も出てくるでしょう。それでもどうか、落ち着いて聞いて下さい。僕も、オリヴァー様も、リアさんを守ろうとしているのです。それだけは信じてほしい」

 リアが頷くと、レントは魔法でランプを灯した。
 冷え切った石壁の部屋の中が段々と暖かくなっていく。ランプに照らされ、レントの灰の瞳がゆらゆらと揺れるのをリアはただ見ていた。
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