リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第三章

39.黒煙

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 リアがゼルドリックと離れてから三日程が経った。

 レントから手渡されたタリスマンをしっかりと首に提げ、リアは雪の降る中、アンジェロと共にはずれの村へ向かった。アンジェロはリアに対して特に何も言わないが、レントからおおよそのことを聞いているのか、リアを何かと気遣った。彼女の泣き腫らした目と肉の落ちた身体を痛ましく見つめる。

 リアは三日間泣き続け、一切の食事を摂れなかった。リアはアンジェロに心配をかけないように、自分の思考を切り替えるために、アンジェロに対して努めて明るく接した。マルティンと会うのが楽しみだとリアが言えば、アンジェロは頷き、少しだけ口角を上げた。

 王都とはずれの村は遠く離れている。リアは旅路がどれほどの長さになるのか心配していたが、アンジェロがエルフにしか使えない転移門を起動させてくれた。そのお陰で、リアはすぐにはずれの村へ行くことができた。

 霜が降りた寒々しい農耕地。見慣れた村の冬景色。
 リアは胸に込み上げる懐かしさを感じ、目を潤ませた。

「リアー! アンジェロー! こっちだよこっち! 二人とも元気で良かった!」

 声を張り上げこちらに駆け寄ってくる姿。それは随分と会っていない弟、マルティンだった。たっぷりとした髭を揺らし、白い息を吐きながらマルティンは大きく手を振った。リアは久しぶりに見る弟の姿を見て、目を潤ませた。

「マル!」

 リアも走り、マルティンの元に駆け寄った。リアとマルティンはしっかりと抱擁を交わした。

「リア……! 良かった、いつまでも手紙の返信がないから心配してたんだよ! 君が無事に姿を見せてくれて、本当に良かった……」

 マルティンはリアの背中を摩った。リアは泣きながら何度も頷き、マルティンを強く抱き締めた。マルティンはリアの力強さにくぐもった声を上げ、何度も苦しいと言った。

「マルティン、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」

「アンジェロ! 君も元気そうだ。良かった! リアを無事に連れてきてくれてありがとう!」

 アンジェロがマルティンに声をかけると、マルティンはアンジェロともしっかりと抱擁を交わした。とても仲の良さそうな雰囲気に、リアは目を瞬かせた。

「マル、アンジェロ様とそんなに仲が良かったの?」

「うん、仲良くなったんだ。アンジェロとはたくさん文通をしているんだよ。君たちとたくさん話したいことがあるんだけど、二人ともまずは自警団の事務所に来て。きっと驚くよ!」

 マルティンは嬉しそうに、足早にふたりの先を歩いた。リアは悴んだ手を温めながら、積もる雪を踏みならし、事務所へと続く坂をアンジェロと共に上っていった。





「こ、これは……! 一体どうしたの!?」

 リアは驚きからぱちぱちと目を瞬かせた。ぼろぼろだった木造の事務所は、煉瓦れんが造りの立派な建物として生まれ変わっていた。屋根には煙突まで付いている。これだけ大きな建物ならば何十人も中に入れられるだろうと、リアは感嘆の息を吐いた。田舎村には立派すぎるような建物に、アンジェロが屋根を見上げてこれは中々のものだと呟いた。

「へへっ、驚いたでしょ? 村の人たち皆で協力して建てたんだよ。隣村の人も手伝ってくれてね。これをふたりに見せたくて仕方がなかったんだ」

 マルティンが事務所の扉を開けると大きな拍手と歓声が聞こえた。顔馴染みの住人たちが、リアを温かく出迎えてくれた。

「リアちゃん! よく帰ってきてくれたわね!」

「久しぶりだな、リア!」

「お前の評判は聞いとるぞ、王都で中々頑張ってるそうじゃないか」

 リアの元に住民たちが駆け寄ってきて、リアは頭やら背中やら手やらをたくさん撫でられた。懐かしく温かな歓迎に、涙を滲ませ笑顔で住民たちに礼を言った。

「リアの活躍を行商の人が教えてくれるんだよ。王都で素晴らしい作品を作り続けてるんだってね? 村の人達は大喜びさ! 皆リアに会いたくて、ここで待ってたんだ」

「まあ、本当に……? ありがとう、嬉しいわ」

 マルティンがリアの笑顔を見てほっとした顔を見せた。

「ずっとリアから手紙の返信が来なくて、とっても心配してたんだよ。何かあったの?」

「あ、それは……。手違いがあって、ずっと私の元に手紙が来なかったの。返事ができなくてごめんね」

 リアは顔を曇らせた。メルローから見せてもらった郵便記録。あの中にきっとマルティンからの手紙もあった筈なのだ。

(ゼルは、マルからの手紙も捨ててきたのよね。ずっと、私の知らないところで)

 ゼルドリックのことを思い出し心がまた痛くなる。俯いて顔を曇らせたリアを訝しげにマルティンは見た。マルティンがリアに再び声をかけようとした時、アンジェロがそろそろ視察を始めようかと切り出した。

「マルティン、君の姉は王都でも働き者でな。彼女は少し疲れている。まずはリローラン殿を休ませてやってくれ。視察が終わった後、君の家でゆっくりと話をしよう」

「……うん、分かったよ。それじゃリアはここで休んでいて。僕はアンジェロに帳簿を見せてくるから」

 アンジェロとマルティンは別の部屋に移った。リアはしっかりとした造りの椅子に腰掛け、きょろきょろと事務所の中を見回した。立派な暖炉が事務所を暖めている。村長や住民との会話を楽しみながら、リアは視察が終わるのを待った。

 はずれの村の住民との会話は懐かしく、そして楽しかった。それはゼルドリックとの関係に深く傷付いたリアを癒やした。どうも自分は王都でそれなりに孤独を感じていたらしい。長年暮らしてきた村に戻り、その孤独が埋められていくのをリアは自覚した。

(村に、戻りたいな)

 リアはそう思った。王都で暮らしていては、どうしてもゼルドリックとの暮らしを思い出して苦しくなってしまう。ゼルドリックの見事なばら屋敷を、工場を、大通りを、共によく行った菓子屋を、黄金の塔を、魔法の大樹を思い出してしまう。はずれの村にはそれらを想起させるものはない。いつか村に戻り、静かに暮らしていきたいとリアは願った。

 話をしていると、時が過ぎるのはあっという間だった。数時間後、視察を終えたアンジェロとマルティンがやって来て、リアにマルティンの家に来るよう促した。

「アンジェロの視察は楽で助かるよ、これでまた数ヶ月後って訳だ……。さてと、君たちのために大鍋でシチューを仕込んでおいたよ。パンとチーズもたっぷりと揃えておいた」

「ほう、最高だ。寒い日にはそれが一番だ。私は今日何が食えるのか楽しみで仕方がなかった。早く行こう、腹が減って仕方がない」

 アンジェロは目の色を変え、食いつき気味にリアとマルティンを急かした。
 リアとマルティンは笑って、腹を押さえるアンジェロと共に雪の降る中を歩いていった。


 ――――――――――


 マルティンの家はリアが建てた。リアのログハウス程大きくはないものの、それでも三人がゆったりと食卓を囲める程度に広い部屋がある。マルティンは薪を焚べ、作っておいたシチューを温めた。よく食べるアンジェロとリアのことを考えてか、大鍋になみなみと作られたシチューはとても三人分の量ではなかった。アンジェロは漂うシチューの匂いを楽しみつつ、吊り下げられた銃や大量の干し肉を興味深げに眺めた。

「ほう、これだけの干し肉を蓄えているとは。まるで宝の山だな。私ならすぐ食べ終わってしまいそうだ」

「ちょっと、これは僕の貴重な食糧なんだからね? アンジェロ、全部食べちゃ駄目だからね? 一応シチューだって二十人前くらいは用意してるんだよ? これ以上食べるって言わないよね……?」

「分からん。私の胃は中々満足しないからな。シチューに満足せず、この干し肉にも手を付けてしまったら済まない」

「え、怖いんだけど! 君はどれだけ食べるんだよ!」

 リアはくすくすと笑って二人の掛け合いを見た。マルティンには今まで歳の近い同性の友人が殆どいなかった。アンジェロがマルティンの友人になってくれたのは、リアにとってとても嬉しいことだった。

 机の上にシチューとパンとチーズ、それからアンジェロが持ってきた最高級品のワインや菓子が並べられる。一斉にいただきますと言って、三人は料理に手を付けた。アンジェロはマルティンの料理を絶賛し、どんどんとシチューを平らげていく。リアはアンジェロの食べっぷりに目を見開いて驚き、マルティンは嬉しそうに笑い声を上げた。村でのこと、王都でのこと。どんどんと会話を交わしながら、穏やかな三人の時間が過ぎていった。

「リア、本当に無事で良かった……。僕、手紙の返信が来なくてずっと心配してたんだ。何か良くないことにでも巻き込まれたんじゃないかって……。アンジェロから君が元気で過ごしてるって返信が来たけど、実際にリアの姿を見るまで安心できなかったんだ」

 アンジェロから受け取ったワインを飲んで、マルティンは気持ち良く酔っ払ったらしい。ふわふわとした声音でリアに言った。

「あ……。心配かけてごめんね」

「本当だよ。リアに何通も送ったんだよ? それなのに全然返信がないからさ。てっきりダークエルフのお役人さんに、僕の手紙を捨てられちゃってるのかと思った……」

「っ……」

 リアは思わずフォークを落としてしまった。からからと音を立てて床に落ちたフォークの音に、マルティンがはっとしてリアを見た。

「……どうしてそう思ったの?」

 リアは顔を青褪めさせてそう聞いた。過剰な姉の反応にマルティンは訝しげな顔をリアに向けた。

「どうして、って……。あのお役人さん、リアのことをす、……いや、それなりに気に入ってるものだと思ったから。リアに目をかけるあまり僕に嫉妬したのかなって。アンジェロから聞いたよ。一緒に暮らしてるんだろ? 上手くやってるって聞いたけど、本当に大丈夫だった?」

「あ、あのね……」

 リアは口を噤んだ。どう話すべきか、どこまで話したらよいか考えあぐねた。アンジェロが気まずそうに顔を逸らす。リアはぐっと食いしばった後、口を開いた。

「マル。聞いて……。上手くいかなかったの。今は一緒に暮らしていないの。色々あって、その……諦めようと、思って……」

 リアは声を震わせた。マルティンはそっとワインの入ったカップを机に置いて、椅子に深く座り直した。リアの言葉は要領を得ないものだというのに、聡いマルティンはリアが何を諦めようとしているのか、分かっているようだった。

「リア。君がさ、泣き腫らした目で、少し痩せた身体で帰ってきた時に思ったんだよ。ああ、あのお役人さんと何かあったんだって。多分手違いがあったっていうのは嘘で、本当はお役人さんがリアへの手紙を捨てちゃったんじゃない?」

 マルティンが尋ねると、リアはこくりと頷いた。

「どうして分かったの?」

「予想だよ。まさか、本当だとはね。彼は一方的な嫉妬で僕の髭を燃やそうとしたんだ、それくらいはやりかねないかもなって」

「髭……?」

「ああごめん、気にしないで。それで、諦めるって? リアはお役人さんのことが好きだったんじゃないか? お役人さんもリアのことを気に入ってただろうに。それなのに諦めるだなんて、一体どうしたのさ?」

「それは……」

 リアが俯き黙りこくると、アンジェロが口を開いた。

「マルティン。落ち着いて聞いてくれ。ゼルドリック様はリローラン殿のことを縛り付けようとした。自らの屋敷に監禁したのだ。私が介入して、今は別々に暮らしている」

「え? 監禁って、何、それ……」

 マルティンはリアを見た。リアの赤い瞳から次々と涙が流れた。マルティンは姉の泣く姿に驚き、身体を強張らせた。

「マル。アンジェロ様の言う通りなの。ブラッドスター様、その……ゼル、とね。仲良く暮らしてたんだけど、段々と彼は私を縛り付けるようになって。最後にはお屋敷から出してもらえなくなっちゃった……。それで……」

 リアはレントが視た未来について話そうとし、そして止めた。自分やマルティンやアンジェロ、その他にも多くの者が殺される悍ましい未来を、彼らの前で話すつもりはなかった。彼らを不安にさせて終わるだけだと、リアは込み上げてくるものを堪えながらぽつぽつと話した。

「それで、細かいことはまだ話せないんだけど……。周囲からゼルと一緒にいるのは止めておいた方がいいって言われて。……ゼルのことはもう、諦めようと思ってっ……」

 リアが目頭を押さえると、マルティンもアンジェロも痛ましい目でリアを見た。

「リア、君が泣くくらいだ。……辛い思いをしたんだね」

「うん、……うん」

「お役人さんと、話はしてみた?」

「しようとした。でも駄目だったの。上手くいかなかった。彼は私の話を聞いてくれなかったっ……」

 リアはぼろぼろと涙を流し、引き攣れた泣き声を上げた。見かねたマルティンがリアに布を差し出し、アンジェロに話しかけた。

「リアがこんな風になるなんて。アンジェロ、あのお役人さんは何を考えてるんだ? 彼だってリアのことが……」

「分からぬ。私もゼルドリック様の説得に当たった。リローラン殿を大事に思うのなら尊重しろと。だが彼は全くこちらの話を聞き入れようとしなかった。彼は今までの彼ではない。すっかりおかしくなってしまったようだ。リローラン殿に強く執着するあまり、中央政府の役人として考えられぬ行動に出るようになった。マルティン、彼は危険だ。だから私は家の力を使って、無理やりゼルドリック様とリローラン殿を引き離した」

 アンジェロの言葉に、マルティンはぐっと歯を食いしばった。

「……そんな。どうしてそんなことに。僕は、二人が上手くいくものだと思って」

 マルティンは涙を流し続けるリアを呆然と見た。こんなに泣く姉を見るのは初めてのことだった。

「……ゼルドリック様は酷く変わられてしまった。私を含め、見境なく周囲の男を攻撃するようになった。もう元には戻らない、そう私に思わせるほど変わられてしまった」

 アンジェロは溜息を飲み込み、そして無理やりワインを流し込んだ。

「リローラン殿の身の安全は中央政府が保障する。力のあるエルフが彼女を守っているから、ゼルドリック様もそうそう手を出せまい」

「アンジェロ。でも彼は、リアを閉じ込めた危険な男なんでしょ? そんな男を引き離したところでリアを簡単に諦める? ずっと追ってくる気がするよ。守りを掻い潜って、またリアを……」

 マルティンがそう言うと、アンジェロは眉を下げ首を縦に振った。

「ああ。君の不安は尤もだ。彼は力の強いエルフだ。長期の任務に出して引き離しているとはいえ、それが終わればリローラン殿を追ってくる可能性がある」

「じゃ、じゃあ……。リアは危険じゃないか」

「もうすぐ大魔導師のひとりが帰国する。大魔導師とはこの国で最も力の強いエルフのことだ。ゼルドリック様も相当力の強いエルフだが、大魔導師が持つ力には敵わない。リローラン殿に大魔導師の魔法をかければ、ゼルドリック様に追われる心配もなく暮らせるようになる」

 アンジェロはリアの首に提げられたタリスマンを指差した。

「マルティン。リローラン殿の首に提げられたそれは、大魔導師の魔力が込められた魔道具だ。リローラン殿がそれを首から提げている限り、ゼルドリック様はリローラン殿の存在を認識できない。今のところは安全だ」

 マルティンはもごもごと口髭を動かし、リアとアンジェロを交互に見ながら呻くような声を出した。彼は今聞いたことを受け入れられない様子だった。リアは涙を拭い、マルティンに無理やり笑いかけた。

「……マル。そんな顔をしないで。私ね、場所は言えないけど安全なところで守ってもらっているの。ゼルは私に接触できない。……近い内に、いつも通り暮らせるようになるはずよ。私は大丈夫だから」

「……リア」

「ごめんなさい、折角会えたのに暗い話をしてしまって……」

「そんなことはいい! リア、リア……。どうか、無事でいてくれ……」

 マルティンはリアの手を強く握り締めた。彼の腕は震えていて、リアはマルティンを落ち着かせるように握り返した。

 アンジェロが壁に掛けられた時計を見ると、もうすっかり夜だった。マルティンは今から帰るのは危険だから、ここに泊まっていくようにとアンジェロとリアに申し出た。

「マルティンの言葉に甘えさせてもらおう。リローラン殿、王都に戻るのは明日だ」

「分かりました。……マル、よろしくね」

「うん。僕はまだリアと話もしたいんだ。だからゆっくりしていってよ」

 落ち着きを取り戻したマルティンは、用意を手早く整えながらリアに言った。そして、リアとマルティンは夜通し話をした。別室にいるアンジェロを邪魔しないように、小声で話し続ける。

 リアはゼルドリックについてひたすら話した。質問したいことはたくさんあっただろうに、マルティンは常に聞き役に徹した。リアの話を、マルティンは相槌を打ち、ただ聞き続けた。陽が昇る頃には、リアの心は少し軽くなっていた。

「マル、話を聞いてくれてありがとう。まだ苦しいけど……。それでも、自分の感情を少しだけ整理できた気がする。私はここ最近、ずっと心の中がぐちゃぐちゃだったから……」

「良かった。僕はリアの話ならいくらでも聞くさ。またこうして話が出来るまで。絶対に無事でいてくれ」

 マルティンはしっかりとリアを抱き締めた。彼の目には光るものがあって、リアはマルティンの背に腕を回した。扉をノックした後、アンジェロがそっと顔を覗かせた。問題がなければそろそろ出ようかという彼に、リアは頷いた。

「……二人とも元気で」

 マルティンは干し肉がたっぷりと入った袋をふたりに手渡した。アンジェロはそれを懐に大事そうにしまい、マルティンに何度も礼を言った。

「アンジェロ、リアをお願い。君も忙しいだろうけど、どうかリアを……」

「分かっている。リローラン殿の様子は逐一君に伝えるようにする」

「……ありがとう」

 マルティンは寂しく笑い家の扉を開けた。厳しい冷気が頬を刺す。三人はぶるぶると身体を震わせた。

「うう、今日も冷えるね……。湖まで見送っていくよ」

 マルティンが白い息を吐いてそう切り出した時、突然甲高い笛のような音が響き渡った。





「……え?」

 マルティンは辺りを見渡した。どこから聞こえるのか分からないが、その笛のような音は段々と大きく、段々と近づいてくる。聞いたことのないような異様な音に、三人は表情を強張らせた。

 マルティンは上を見上げ、その音の正体を掴んだ。

 一つ、二つ、十、そして何百もの黒い「何か」があっという間に寄り集まり、家の上空を舞っている。
 それはまるで黒い煙のようにひとつの渦を巻いた。

 甲高い笛の様な音はなお大きく響く。リアは思わず耳を塞いだ。

「……鳥?」

 マルティンはぼそりと呟いた。本能的な不気味さに、彼は身体を強張らせ震えた声を出した。

「な、何だあれ……。あんな変な動きの鳥……初めて見たよ」

 アンジェロも空を見上げる。吹き上がる黒煙のような、不気味な鳥の渦。

(……? まさか、あれは……まさか……ゼルドリック様は確か、はずれの村に魔力の鷹を放ったと言った。あれはその鷹ではないか? あの旋回する何百羽もの鳥は、もしかして……リローラン殿を見つけ出そうとしている?)

 アンジェロはその鳥の正体に気付いた時、ぞっと背筋が冷えるのを感じた。鷹は甲高い鳴き声を出し、ばさばさとした羽音を出しながら素早く飛び回っている。

(馬鹿な。ゼルドリック様は長期の任務に出ているのだぞ。いくら彼とはいえ、これほどの鷹を遠隔操作できる筈がない!)

 だが、そう言い切れるだろうかとアンジェロは思った。

 自分は彼の狂気を目の当たりにした。そして彼は天才と称されるほどに力の強いエルフで、自分は彼の力の深層を知らない。魔力操作に秀でたゼルドリックなら、これくらいのことはやってのける気もする。

 アンジェロは背筋を震わせた。

「マルティン、詳しいことは今度話す。見送りはしなくていい。急いで家の中に入ってくれ」

「え、でも……」

「君の命が危ない。頼む」

 アンジェロが堅い声できっぱりと言うと、マルティンはひとつ頷いて扉を閉めた。

「アンジェロ様、これは一体……」

「リローラン殿、あれを見るな。大丈夫。落ち着いて、私についてきてくれ」

 顔を向けぬままリアに囁き、アンジェロは足早に歩き出した。
 リアは急いで彼の後を付いていく。リアが雪に足を取られて転びそうになっても、アンジェロは決して振り返らなかった。

(リローラン殿と私には遮蔽魔術の効果が及んでいる。ゼルドリック様は我々の存在を認識できない。だから、こうして落ち着いて歩けばいい)

 アンジェロは不気味な鷹の鳴き声を聞きながら、大きな不安を無表情な顔の内に隠した。前を向き、ひたすら進み続ける。

(万が一、ここにリローラン殿がいると分かってしまったら、ゼルドリック様はすぐさまやって来るだろう。そしてリローラン殿の近くにいた私も、マルティンも命を奪われてしまうかもしれない。あの方は嫉妬に狂っている。危険な魔法式を彼女に施した男だ。馬鹿らしい考えだとは言えない。彼ならやりかねない)

 アンジェロは鷹を見ないようにしながらも、上空からじっとりとした気味の悪い視線が自分に注がれていることを感じ取っていた。ゼルドリックは鷹越しに、この村全体を注視しているはずだ。

 リアの姿が見えなくとも、リアがいないか見定めようとしている。
 決してリアの存在を気付かれてはならない。

(ゼルドリック様にこれ以上罪を重ねさせる訳にはいかない。リローラン殿を無事に王都へ連れて行かなければ)

 一歩一歩が重い。ばくばくと跳ねる己の心音が、耳の奥で響く。アンジェロは必死の思いで湖畔まで歩いた。そして気を張りながら湖畔を超え、リアを気遣いながら転移門のある街まで向かう。王都に着いたアンジェロは、どっと自らの身体に疲労が込み上げるのを感じた。


 ――――――――――


 遮蔽魔術が施された石造りの部屋。その中に無事転移したアンジェロは深く息を吐いた。そしてレントにリアの身を任せ、ぐったりと椅子に座り込んだ。

「無事に乗り切ったか」

 肌寒い部屋の中に居るにもかかわらず、アンジェロはだらだらと汗を流した。レントはらしくない同期の姿に戸惑いを覚え、訝しげにアンジェロに尋ねた。

「アンジェロ。何があったんだ? 君がそんな風になるなんて」

「アンジェロ様……?」

 リアも戸惑いながらアンジェロを見た。アンジェロは深呼吸をして胸を落ちつけた後、目元に手を当てながら話し始めた。

「レント。村でゼルドリック様のしもべとおぼしきものを見かけた。彼はリローラン殿の居場所を突き止めようと動いている」

 レントはざっと顔を青褪めさせた。リアもゼルドリックの名を聞き強い不安から胸を押さえた。

「彼は長期の任務に出ている。いくらゼルドリック様でもそんなことは……」

「できる。彼ならできる。魔力操作に一等秀でているのだ、物理的距離は関係ないと思ったほうがいい。守りを決して緩めないでくれ。より一層の警戒が必要だ」

「……分かった」

 アンジェロは汗を拭い、リアの首元に提げられたタリスマンを見つめた。いつも無表情な顔に、今は怯えや焦りのような色が浮かんでいる。

「リローラン殿。村で見かけたあれはゼルドリック様の魔法によるものだ。彼はあなたを追っている」

「……!」

 リアはどくりと胸が鳴るのを感じた。

「大魔導師が到着するまで、絶対にこの場所を知られる訳にはいかない。決してそのタリスマンを手放さないでくれ、常に首から提げているのだ。良いな?」

「……はい」

 リアはぎゅ、とタリスマンを握り締め頷いた。顔を強張らせ震えるリアに、レントは休むよう促し別室へと案内した。そして残ったアンジェロの背を優しく摩る。水を手渡せば、アンジェロはごくごくとそれを飲んだ。

「アンジェロ。よく頑張ったな」

「ああ、死ぬかと思った。彼女の存在に気付かれては一巻の終わりだ。しもべは何百もいた。それだけの数をゼルドリック様は遠隔操作したのだ。私達では彼に対抗できない。ゼルドリック様は怖ろしい」

 アンジェロの声は平坦であったが、顔には怯えの色がしっかりと浮かんでいた。

 レントは唇を強く噛んだ。
 アンジェロの言う通り、自分達の力ではゼルドリックに対抗できない。果たして彼からリアを本当に守りきれるのだろうか。この場所が見つかってしまっては終わりだ。あの未来は本当に避けられるのだろうか……。
 レントの心に、大きな焦りが生じていく。

「リアさんもだが、僕は君が無事に戻ってきて良かったと思う」

 レントがアンジェロの肩を軽く叩くと、アンジェロは口角を少しだけ上げた。

「ああ。自分が無事だと実感したら何だか腹が減ってきたな」

「君らしい」

 強い不安を誤魔化すようにレントとアンジェロは顔を見合わせた。お互いの心には暗雲が立ち込めている。

「アンジェロ、君も休んでくれ。視察で随分と気を張っただろうから」

 レントはそう言い残し、部屋を後にした。アンジェロはしばらく、椅子の背にぐったりともたれ呆けた後、胸元から干し肉の袋を取り出しそれを見つめた。

 ――アンジェロ、リアをお願い。

 マルティンの不安そうな顔を思い出す。彼はリアを不安にさせまいと耐えていたが、声は震え、泣いてしまいそうだった。友にあんな顔をさせたくない。彼の姉を守らなければいけない。

(だが、本当にゼルドリック様から守れるのだろうか。彼は、狂気を剥き出したように見える。あの黒い鷹たち。彼は怒り狂っている。自分も、マルティンも、レントも、皆殺されてもおかしくない。……ゼルドリック様、どうか、これ以上罪を重ねないで下さい)

 アンジェロはまた水を飲んだ。喉が渇いて仕方がなかった。
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