ポーリュプスの籠絡

橙乃紅瑚

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8.Quagmire

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 果実と花々の噎せ返るような芳香が、薄暗い部屋の中を満たしている。
 人を魅了するような甘く華やかな南国の香り。自分が好んで使う石鹸と似たその香りが、今のラズリには鬱陶しくて堪らなかった。

 都市部で嗅いだ爽やかなレモンの香りが恋しい。鼻に纏わりつくようなとろりとしたこの香りを嗅いでいると、くらくらと酔ってしまいそうになる……。

「ラズリ……」

 男の掠れた声が耳元に落ちる。劣情と欲を刺激するような男の声にじわりと蜜が溢れ出るのを感じ、ラズリは羞恥に目を瞑った。

(……もう随分と外に出ていない。一日中抱かれて、寝て、その繰り返し……)

 今日も散々身体を嬲られた。絶頂の余韻が残る身体は疲れ切っていて、伸ばされる男の手を跳ね除けることすらできない。ラズリが大人しく頭を撫でられていると、ルブラは恍惚とした様子で息を吐いた。

「綺麗だラズリ、とっても綺麗だ……。この島の花はお前の髪によく映える。まるでラズリのために咲いてるみてえじゃねえか?」

 大輪の花を艶やかな黒髪に合わせ、男はうっとりと微笑んだ。

 寝台の上は花畑のようだった。
 赤、桃、紫、橙、青、黄。色鮮やかな花びらが白いシーツの上に散らばっている。

 滑らかな輝きを放つ真珠、よく磨かれた珊瑚、芳醇な果実、甘く濃密な香りを放つ花々、香木の枝、きらきらと光る貝。いつからか、ルブラは寝台の周囲を美しいもので彩るようになった。愛しい女を飾り、部屋の中に二人だけの楽園を作り上げるかのように。

「愛しいラズリ。俺の番、俺の妻……」

 執着に塗れた声が、薄暗い部屋の中でやけに響く。

「冠にしてお前の頭に乗せるのもいいよな。花の冠に、真珠の首飾り。俺たちの新たな始まりにぴったりのものを作ってやらないと! ああ、心配するなよ。式に必要なものは俺が全部用意してやるからさ。最初は手足を動かすのに苦労したが、今じゃお前よりずっと手先は器用だ」

 ルブラが口にした言葉の意味が解らず、ラズリは小声で何を、と問いかけた。

「俺さ、また海に潜って人間どもの記憶を得てきたんだ。ある骨が俺に教えてくれたぜ、人間ってのは夫婦になる時契りの儀式を挙げるそうじゃねえか? お前が夫婦じゃないって頑なに言い張る理由がどうしても分からなかったけど、やっとすっきりした。俺と式を挙げてねえのが不満なんだな?」

 ラズリは男の紡いだ言葉を否定しようとした。
 だが唇から出たのは掠れた息だけ。震えが混じるその音を聞き、彼女は情けなさに目を瞑った。

(……言葉が、出ない。ルブラの言葉を否定しなければならないのに、否定して怒らせるのが怖い……)

「あははっ、勉強不足で済まなかったなあラズリ! 二人きりになったら、その時は海辺で契りを結ぼう。お前にはとびきり美しい服を着せてやる! 何色がいいだろうな? 赤がいいかな、白がいいかな……。花嫁のために、世界で一番美しい服を手に入れてこないとな!」

「…………」

 妄想に取り憑かれた男を前に、ラズリはぞわぞわとした絶望を感じた。万事この調子だ。駐在所に閉じ込められてから幾度も説得を試みたが、ルブラは全く自分の話に耳を傾けようとはしない。自分を泣かせて、苦しめて、そして狂わせてでも己が望む言葉を口にさせようとする。

 強靭な精神を持つラズリも、ルブラとの退廃的な生活によってすっかり精神を削り取られてしまった。

 ルブラに反抗してまた酷い目に遭いたくない。機嫌を損ねるようなことを言ってしまえば、おかしくなりそうな快楽拷問に苦しめられる。
 ラズリは自分の無力さを噛み締めつつ、そっと口を噤んだ。

(……この男は何なのだろうか?)

 ルブラの蕩けた顔を見上げながら、ラズリはぼんやりと思考を巡らせた。

 料理は上手い。魚や食材に対する豊富な知識はあるし、手先だって確かに器用だ。彼が持つ技術は、きっと長年取り組み続けてきた成果によって磨かれたものなのだろう。

 だが、この男とは会話が噛み合わない時がある。

 自分しか知らないことを、さも相手も知っているかのように話す。
 尊大傾向が強く、他人を酷く見下している。思い込みが激しく妄想と現実の区別がついていないように見える。

(本当に奇妙な男だ。外見年齢と精神年齢がまるで釣り合っていない)

 常識知らずの行動に出る。気分や感情がめまぐるしく変わる。相手の顔色や様子を窺うことなく、自分の感情の赴くまま振る舞う。

 見捨てられることを何よりも怖れ、目を付けた相手以外の者に対し凄まじい敵意を向ける。
 思い通りにならないと癇癪を起こすその様は大人の男らしくなく、「幼稚」とも言える。

 不自然だ。ルブラからは欠落を強く感じる時がある。そしてその欠落を取り繕うような必死さも。

(度々、人間ではない何かが人の真似事をしていると感じる時がある)

 ――俺は何でも知っている。何でも知っているし、いずれは何でも手にすることができる。

(もしも、この男が人間ではないとして……)

 ――もう少しで我は世界を手にする。水と狂気に彩られし華やかなる世界。お前には我が隣で新世界を愉しむ権利をやろう。

(例えば、村人たちが復活を待ち望んでいた邪神だとすれば……)

 そうだ。この男は最初から怪しかった。

 蛸の目を思わせる特徴的な瞳孔。闇に引きずり込まれるような視線。頭の中に響くぐもった声。冒涜的な雰囲気を帯びた刺青。己が神であるという言動。村人たちを従えているかのような態度。

 人間でないと仮定するならば、様々なことがしっくりくる。

(私は、とんでもない存在に目をつけられてしまったのではないか?)


「おい、そんなに俺を見つめてどうしたんだ? 何か考え事でもしてんのかよ?」

 ルブラが顔を覗き込んでくる。
 ラズリは静かに首を横に振り、ゆっくりと目を閉じた。

(…………やめよう。この狂った男の正体について考えたところで、なおこの状況が辛くなるだけだから)

 ラズリは諦めかけていた。

 いくら待っても助けが来る気配はない。マーシュと最後に会ったのがいつなのか分からなくなるほど、自分は日付の感覚を失ってしまった。残された島民はあと数人だけなのに、誰もここから救い出そうとはしてくれない。

 見ると狂うようなルブラの目が、毎日食べさせられる奇妙な肉が、再び見るようになった蛸の幻視が、苛烈な凌辱が、島民たちの明るい別れの挨拶が、全てが自分を追い詰めてくる。

 この男が人でないとして、それが何だというのか?

 もう耐えたくない。我慢したくない。
 自分の精神はこの男にすっかり折られてしまった。

 ならばいっそ何もかも忘れて、ルブラに愛されていれば幸せなのではないだろうか。

「ラズリ……。お前に教えてやる。島に残ってる奴らはあと四人だけだ。そして奴らは全員俺の忠実なる下僕。島にお前を助けてくれる奴なんかいねえぞ」

 荒々しくも整った顔が近づいてくる。ルブラはラズリの唇をねっとりと舐め回した後、酷薄さの滲む笑みを浮かべた。

「きひひっ、いい顔するじゃねえか。頑固なお前もとうとう折れてきたな! 寂しいか? 俺が怖いか? なあ、もっと苦しめよ。俺が感じてきた苦しみはこんなもんじゃねえぞ!」

「……るぶ、ら……」

「お前の頼みの綱なんか、もうとっくに切れてんだよ。忌々しいあの男も決してこの島には辿り着けねえ。なぜなら海にいる俺の下僕どもが、あいつを海底へと引きずり込んじまうからなあ! ……あと四人。やっと四人だ。待たせちまって悪いなラズリ、下僕の中には変貌が遅い奴もいるんだ……。海は俺の領域。古株の奴らがみーんな沈んじまえば、俺はかつての力を取り戻せる!」

 助けは来ない。

「二人きりになったら式を挙げよう。そしてお前をこの島ごと永遠に隠してしまおう。お前はもう親の元にも、あの男の元にも帰れねえ。ずっとこの島で暮らすんだ! あははははっ……! お前が望むものは何でも手に入れてやる。だからお前は俺に魂を寄越せ! 幸せだなあ、ラズリ。俺たちはいつまでも一緒にいるんだ!」

 ラズリは今日も泣いた。
 破滅が、すぐそこまで近づいている……。


 ――――――――――


「ああっ、るぶっ、ら!? なっ、なにこれ! ぬめって、ぐねぐねしてるぅぅっ! はあぅっ、ひ、ひやっ!」

「はあっ、はあ……ラズリ、お前のなかはっ、本当に具合がいいな……! 一晩中抱いても飽きねえ。どんなに抱いたって、お前が愛おしくて仕方ないからすぐに勃っちまう……! ラズリ、愛してる。愛してる、愛してる……」

 膣に何かを挿れられている。人間の男根ではない、もっと悍ましい
 目隠しをされているせいでその異物を確かめることはできないが、自由自在にうねるその動きは幻視の中の蛸足とよく似ているとラズリは思った。

「あっ、いい! あっ、あはぁっ……あっ、あぅっ……しゅっ、すごいぃぃっ……あはあっ、ああぁぁんんっ!」

 脇やへそをぬるぬるした触腕で撫で回される。
 足の指から乳首、敏感な陰核を吸盤でちゅうちゅうと吸われる。
 細長い触手の先端で子宮口を優しく捏ね回されると、被虐の快楽がぞくぞくと背筋を走る。

 何も受け入れたことのなかった後孔さえ、自由自在に蠢くそれに凌辱されてしまった。

「んやぁぁあっ! あっ、あっああぁっ……ひあっ!? あっあっ……あ、すわないで! ひぅぅっ! すうのはだめえぇぇ……!」

 もうどこにも穢されていない場所はない。
 自分の身体の全ては、この男のものとなってしまったのだ。

 二穴を男性器のような触手でみっちりと埋められ、ずるずると激しく擦られる。ラズリはルブラの責めに翻弄され蕩けるような甘い声を上げた。

「るぶらっ、もっとずりずりしてっ、ああっ、あっ! あはあっ! きもちいいよおっ! あっあっ……あ、はあっん……。るっ、るぶら、るぶらぁっ……。もっと、もっとお! もっとわたしを――」

 愛して。

「はあっ、あっ……あああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 頬が緩む。歓喜の涙が目から溢れる。ラズリは被虐の快楽に身を任せ、強烈な絶頂を味わった。

 うつろを満たすように、最奥に蠢く何かを放たれる。精液を出された時の感覚とは少し違うけれど、きっとには子種がたっぷりと詰まっている。この男の一部を貰えたのだと思うと嬉しくて堪らない……。

「……ふふ、かーわい。またお前の微笑みが見れて嬉しいよ。お前は笑ってるのが一番だ。また俺を受け入れてくれるようになったな、ラズリ……」

 ルブラの嬉しそうな声を聞くと胸が跳ねる。
 ラズリは軟らかく蠢く何かに腕を回し、甘えるように自分の頬を擦り付けた。

 ルブラが放つ悍ましい霊気はまた一段と強くなった。それは、力の強い者をまた己の軍勢に加えたことの証左だった。彼は霊気と肉体でラズリを芯まで犯し尽くし、その魂を穢した。水神の霊気に浸されきったラズリは、正常な思考をとうに失ってしまっていた。

(私、今まで頑張ったよね? もう充分よね? 誰も助けに来てくれないし、ルブラのことを夫として受け入れても仕方ないわよね……)

 まだ助けは来ない。

 残った島民はあと三人だけ。ここまで来れば望みはほぼ潰えたと言っていい。
 マーシュ隊長も、きっと島に来てくれない……。

「愛してる、ラズリ、愛してる……」

 助けを待ち望むからここまで苦しくなる。
 もう心からこの男に溺れてしまおう……。

(彼は私を愛してくれている。この目を含めて、全て愛してくれている……)

 ラズリは深海のように暗い目で、己を犯す軟らかいものに足を絡めた。


 ――――――――――


「ん、ちゅっ、はあん……るぶ、らぁ……ね、きもちいい?」

 寝台に腰掛けたルブラの男根をねっとりと舐め上げ、ラズリは蠱惑的な笑みを浮かべた。

 そそり勃つ肉竿に優しく両手を添え、やや塩辛い鈴口にキスを落とす。亀頭の段差をぺろぺろと舐め上げ、太く走る血管に沿うように舌を這わせれば堅い腹筋がひくりと震える。その様子が愛おしくて、もっとこの男に奉仕したくなる……。

「ちゅ、れえろっ……はう、るぶらぁ……。ふふ、すっごくかたいわよ……。わたしの舌で随分と感じてくれてるみたいね?」

「ん、んぐっ……らず、り……はあっ、はあ……! お、まえ……やるじゃねえか……! こんなにっ、俺を追い詰めるなんてっ……!」

 ルブラの顔は紅潮している。
 快楽を堪えつつも心から嬉しそうに笑う彼に、ラズリは強い喜びを感じた。 

 真っ赤な顔をして、まるで茹でた蛸みたいだ。だがこの男はそれほどに自分の愛撫で感じてくれている。嬉しい、ずっとその顔を見ていたい。もっと私の舌で気持ちよくなってほしい……。

 ラズリは大きな陰茎を深く咥え込んだ。男の劣情を煽るように口をすぼめ、わざと水音を響かせる。腔内に広がる生臭さと塩辛さに、粘りつくような嗜虐欲を覚える……。

「ん、ふぐっ……、んむっ、んんっ……んうっ」

「ん、お、ぉ……駄目だ、らず、り……。はあっ、ぁ……も、もうっ……!」

「んっ、んんっ、むうっ……んっんぐっ……! ぷはっ……」

 ラズリの顔に大量の精が放たれる。彼女はそれを指で掬い取り、潮の匂いがするそれを一滴残らず舐め取った。

(ふふっ……。相変わらず変な味。でもルブラのものだと思うと悪くない)

 可愛い男。自分の夫。愛しい。大好き。
 ラズリが筋肉質な腿に口付けると、背中を軟らかいものでずるりと撫で上げられた。

(……?)

 ルブラの両手は目の前にある。では、今自分の背を摩っているものは何だろうか……? 
 ラズリは違和感を抱いたが、労るようなその手付きが嬉しくて気にしないことにした。

「はあ、はあっ、はあ……。すげえよかった……。ら、ずり……可愛いラズリ。今度は俺がお前を可愛がる番だ。もう準備は出来てるんだろ? 横になってくれ」

 寝台の上に横たわり、自ら大きく足を開く。
 伸し掛かる男をしっかりと抱きしめ、ラズリはルブラの唇に進んで食らいついた。

「気持ちよくしてね、ルブラ……」

 いつまでも助けは来ない。

 残る村人はあと二人だけ。島民が全員海へと旅立てば、自分は神の力で永遠にこの島に縛り付けられてしまう。そうなれば二度と両親とも、兄と慕うマーシュとも会えない。

 だが水神の狂気に蝕まれきったラズリにとって、もうそれはどうでもいいことだった。


 ――――――――――


「ラズリ、とうとうここまで来た! あと一人だぜ! あいつが沈めば俺たちだけになる! ここまで待たせて本当にごめんな? 俺たちはこの島で二人きりだ……。ああ、ふたり、ふたり、きり……。なんて甘い響きなんだっ……!」

「あああっ、んあっ! あっあっ……ああ、あっ、はぁっ……うれしいっ……。うれしいわっ、るぶらぁ……!」

 今日も男と狂ったように絡み合う。汗ばむ肌をぴったりとくっつけ合い、お互いの体液で生き延びるかのように積極的に滴る雫を交換する。

 吸い付く。舐め取る。啜る。舌を刺激する塩の味に、ラズリの欲がなお昂ぶっていく。寝台の上は様々な体液に濡れそぼっていて、そこから漂う濃密な匂いは、果実と花々の香をかき消すほどだった。

 ルブラの背後から蛸足が伸びる。彼の下半身は、いつの間にか大蛸のものへと変わっていた。自らの内に埋められている肉も太い触腕へと繋がっている。いやらしくぬめるそれに身体を縛られ、あちこちを撫で回され、吸盤の痕をつけられていく。ラズリは喘ぎながら、自分と繋がっている男の顔をじっと見つめた。

「……ラズリ」

 優しく微笑まれる。
 蛸を思わせる金の目が、女への愛情に細められた。

(あなたは、蛸だったの? 私を苛んだあの蛸は、ルブラだったの……?)

 これは現実なのか、それともおかしくなった自分の頭が見せた幻視なのか。この靄がかかったような頭では正しく判断することができない……。

(心のどこかで思っていたの。蛸とあなたの愛撫がよく似ているって。あの蛸は、あなたなんじゃないかって……)

 恐怖は一切ない。むしろ蛸の正体を知れたことが嬉しい。自分をこんなに気持ちよくしてくれる蛸の足がひたすら愛おしい。ラズリは触腕に指を絡ませ、恍惚に目を閉じた。

(蛸でも神でも何でもいい。人じゃなくたって構わない。どんな姿でも、私はあなたを愛している)

 ぬめる何本もの蛸足が、腕や足にぐるぐると絡みつく。ラズリは情熱的な口付けをルブラと交わしながら、艶やかな笑みを浮かべた。

「ラズリ、式の時には青いドレスを着てもらいたいんだ。空と海の色。お前にはやっぱり青が一番似合う。真珠の首飾りをつけて、花冠も乗せて……。きっとその時のお前は、世界中の何よりも綺麗に見えるんだろうな。ラズリ、いつか挙げる式が楽しみだな……。ずっとずっと大切にする。好きだ、好きだ……」

 愛の言葉が降り落ちる。色気のある声で紡がれたそれらは、ラズリの心を切なく震わせた。

 哀しい、寂しい、苦しい、切ない。

(愛するルブラが傍にいるのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう……?)

 ずっと何かに悩んでいたはずだ。でもそれが思い出せない。

「なあっ、お前も俺のことが好きだろ? だってこんな風に甘えてくれるんだ。言ってくれよ、好きだって。俺はお前の心も欲しいんだ……。好きだ、ラズリ……好きなんだっ……」

 男の声は震えている。
 女の愛を請う哀れな声に誘われ、ラズリは太い首をしっかりと抱き寄せた。

「……大好き。ルブラ、私もあなたのことを愛してるわ」

 ラズリは何の躊躇いもなく、ルブラの耳元で愛の言葉を囁いた。堰き止めていたその想いはいとも簡単に唇から滑り落ち、彼女は何度も何度も望まれた言葉を紡いだ。

「……っ、ほ、んとうに?」

 ルブラは弾かれたようにラズリを見つめた。金の目が大きく見開かれる。彼はラズリの頬をぺたぺたと触りながら、呆然と聞き返した。

「すき、すき……? 好き? それって、お前が俺のことを……番として認めてくれたってことか……?」

 ルブラはラズリが口にした言葉を何回か反芻した後、大きな身体をぶるぶると震わせた。

「ああっ、あ、ああああああああああっ………!! ついに……。遂に遂に遂に! 遂にお前が好きだと言ってくれた! 俺はこの時を待ち望んでいた、俺はやっと救われたんだっ! ずっとお前の心が欲しかった……。どんなに追い詰めても、囲い込んでも手に入らないお前の心が欲しかった! それが今、やっと手に入ったんだ! ラズリ、ラズリ……!」

 歓喜の声がラズリの耳を震わせる。ルブラは愛しい女を強く抱き寄せた。

「苦しかった、寂しかった! お前に拒絶される度、心まで焼けて灰になってしまいそうだった! どうしたらお前が俺を受け入れてくれるのかずっと分からなかった……。肉を食わせても、何度抱いても、目に狂気を込めてもお前は正気を取り戻す。こうして監禁して犯し続ける以外に、俺はお前を得る方法が分からなかった……」

「でもきっと、これで正解だったんだよな? 追い詰めて、苦しめて、お前の思考を奪った末に……やっとお前は愛をくれたんだもんな? お前が泣くのを見るのは苦しかったけど、ここまで苦しめたからこそ好きだって言ってくれだんだよな……。ああ、長かった。諦めずにお前を愛し続けて本当に良かった!」

 頬を紅潮させ、金の目を潤ませるルブラはどこまでも幸福そうで。ラズリは彼の顔を見て無性に泣きたくなった。

(何か、間違ってる気がする。でも、もう何も考えられない……)

 ラズリは心の軋みを誤魔化しながら、ひたすらルブラに愛を囁いた。彼への想いを口にすれば、繋がり合う快楽がどんどんと増幅していくような気がした。

「ラズリ、やっと俺の腕の中に堕ちてくれた。もう閉じ込めておく必要はない。明日は一緒に海を眺めよう、久しぶりに真珠も手に入れてきてやる! そしてすぐに結婚式を挙げよう! たった一人残った奴のことなんてもうどうでもいい、お前さえ手に入ればそれでいいんだ! ……胸が温かい。これが幸福……。こんなに幸せを感じたことは今までになかった!」

 とうとう、助けは来なかった。

 なぜ助けを待ち望んでいたのかも分からなくなってしまった。
 何もかもどうでもいい。自分はこの男の隣で生きていけさえすればそれでいい。きっとそれ以上の喜びはない……。

「お前は番だ。たったひとりの俺の妻だ……。愛し愛されながら、この聖地で共に暮らしていく。俺の願いが……世界を手に入れるということよりも遥かに大事な願いが、とうとう叶うんだ……!」

 ラズリは泣きながら笑った。
 なぜこんなにも涙が溢れるのか、分からなかった。


 ――――――――――


 月明かりの美しい夜、ラズリは寝台の上でひとり休んでいた。

「はあ……。結婚式前夜だというのに、どうして新郎さんは私の隣にいないのかしら?」

 ルブラは度々駐在所を空けた。「お前の傍にいると肌が焼けてしまうから定期的に海に行かなければならない」と彼は言っていたが、ラズリにはその言葉の意味が分からなかった。
 ただ愛しい夫が一刻も早く帰ってくるようにと思いながら、彼女はぼんやりと窓を見つめた。

「早く戻ってきてよ、ルブラ。私はあなたの腕の中じゃないと寝付けないって知ってるでしょう?」

 煌々と輝く満月と、瞬く星を見上げラズリは微笑んだ。ルブラが手に入れてくる真珠の輝きはあの星々の光に似ている。夫への愛おしさが胸に込み上げてきて、ラズリは勢い良く枕に顔を埋めた。


 その時、寝台の下でかちゃりと金属音が響いた。


(……何だろう?)

 ラズリはその音がやけに気になり、そっと寝台の下を覗き込んだ。すると暗闇の中で何かがきらきらと光っているのが見え、苦労しながらも何とかそれを引きずり出そうとした。

 指先に硬いものが当たる。ひやりとした冷たさを持つそれに、ラズリの胸がどくどくと跳ねる。
 きっとこれを手にしたら再び危険に晒されることになる。だが、手を伸ばすことをやめられない……。

 本能的な誘惑に導かれ、ラズリはしっかりとそれを握り込んだ。

「これは?」

 ラズリが取り出したものは、儀礼用の短剣だった。

 華美な装飾が施されたその短剣はまるで切れ味がない。埃被ったそれを綺麗にしつつ、ラズリはなぜこんなものが寝台の下に転がっていたのかと首を傾げた。

 窓から射し込む月明かりがその短剣を照らす。薄明かりにきらりと輝いた短剣は、突如眩い光を放ち始めた。

「なっ、何!? まぶしっ――」

 その光は、天のような澄んだ青色をしていた。
 空に溶け込み、風のように動き、捉えることのできぬ清らかな霊気がラズリの肉体に満ち溢れる。ルブラの手によって損なわれた冷静さと理性が、再び彼女の中に蘇っていく。

 ――必ず迎えに来る、どうか無事でいてくれ……!

 青空を思わせる神々しい光の中、ラズリはこの短剣を託した者の顔を思い出した。

「ぁ……あ……。たい、ちょう?」

 ラズリは荒い息を吐きながらその場に頽れた。ルブラの狂気によって隠されていた記憶が露わになっていく。

「はあっ、はあ……た、隊長、マーシュ隊長……! わたし、ずっとあなたの助けを待ち続けていたの! なのに、いつの間にかあなたのことも、この剣のことも思い出せなくなって……!」

(ああ、きっと……。またあの肉を食べてしまったからだ! あの頭の中が霞むような肉を……!)

 監禁中、自分はルブラに毎日を食べさせられた。
 あの肉はどこか蛸に食感が似ている。そしてルブラが口にした「俺の肉」という言葉。ラズリは変貌した彼の下半身と、自分を散々犯してきたうねる触腕を思い出し、思わず口元を押さえた。

「んぐっ……! ぐ……。だめだ、私が何を食べたかなんて、そんなのは後でじっくり考えればいいっ!」

 ラズリは吐き気を堪えながらも、マーシュに託された短剣をしっかりと握りしめた。ずっと飲んでいなかった避妊薬を素早く流し込む。もう手遅れかもしれないが、念の為に男の精を殺しておきたかった。

(永遠にこの島から出られないですって? 冗談じゃない。島に縛り付けられる前に、あの男から何としても逃げなければ!)

 数回深呼吸をし、ラズリはそっと駐在所を抜け出した。
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