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第二十三話 嫉妬と距離
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第二十三話 嫉妬と距離
将軍の内衣をそっと肩までずらすと、赤く残る傷跡が露わになった。
まだ完全には癒えていないその痕が目に入ると、胸の奥がチクリと痛んだ。
(傷跡が残りませんように。肩の筋を痛めていませんように……)
心の中で静かに祈りながら、薬をゆっくりと塗る。
指先に神経を集中させる。慎重で、丁寧な手つきだった。
「痛くないですか?」
「ああ」
短く返事が返ってくると、夫人はわずかに安堵の表情を浮かべた。
薬を塗り終えると、淡々と内衣を着せ、薬を片付ける。
「今日は、私が焼きました」
そう言って、まだ夜が明けぬうちから焼いた心尽くしの菓子を差し出す。
お茶も淹れて、何も言わずに静かに次の指示を待つ。
その様子を見ていた王子は眉間にしわを寄せ、将軍にひそひそとささやいた。
「ねえねえ、どうしたの? 昨日はあんなに近かったのに、嫁っ子ちゃん、今日はあんなに離れて座ってるよ……」
「ああ……」
将軍は、変わらぬ表情で静かにお茶をすすっていた。
「ん~? んん~?」
訝しげに首をひねった王子は、腕を組みながら侍女たちの元へ向かった。
「ちょっと聞くけど、どうしてあんなに距離が空いちゃってるの?」
明蘭が小声で答える。
「夜、奥様は将軍さまの寝所に伺いましたが……その後、なかなかお戻りにならず。思い詰めたご様子で台所に……」
繍慧(シュウフェイ)が続ける。
「取り憑かれたように、朝までずっと菓子を焼いておられました。いろんな味で、黙々と……」
草盈(ツァオイン)もそっと言葉を添える。
「将軍さまにだけ、奥様の手作りを食べさせていなかったことをとがめられたようで……」
「え? そんなことを?」と王子は思わず口に出した。
だが将軍の顔に一瞬浮かんだ影を見て、それが“将軍にとっては”どれほど重大なことだったのかを悟る。
「……この二人は本当に、もどかしすぎる……!」
王子は思わずジタバタしたくなる気持ちをこらえ、ついに席を立った。
「……もう我慢ならん! 呼んでくる!」
廊下を駆け出し、その場をあとにする。
しばらくして、廊下の奥から朗らかで華やかな声が響いた。
「まあ! 噂の嫁っ子ちゃんって、あなたね!」
飾り気はないのに自然と華やぎを纏う女性が現れた。
「ずっと会いたかったのよ~!」
夫人の手を取るなり、将軍の隣にどかっと腰を下ろす。
「姉様~、強引なんだから~。ごめんね、嫁っ子ちゃん」
「姉様……?」
不思議そうに首を傾げる夫人に、王子が苦笑しながら説明した。
「この方、僕と母親が同じの姉君で、この朴念仁の幼馴染」
「そうよ~! 私は、この国の第一皇女!」
「えっ……」
驚いて目を見開いた夫人は、慌てて礼をする。
だが第一皇女は手をひらひらと振って笑った。
「やだやだ~、そんなの陛下の前だけでいいのよ~」
その明るさに、夫人の胸に張りつめていたものがふっと解けていくようだった。
そっと手巾を取り出し、目元を押さえる。
「まあ、その手巾! なんて見事な刺繍」
「使っていない方ですが……よろしければ」
「まあまあ、ありがとう。気が利くのね、嫁っ子ちゃん!」
第一皇女の気さくさと明るさが場の空気を一気に柔らかく変えていた。
そして将軍もまた、ほんのわずかに肩の力を抜いていた。
だが——
その心の奥深くに刺さった嫉妬の棘だけは、まだ抜けずに残っていた。
顔には出さず、胸の痛みにただ、じっと耐えていた。
(昨日は大人気なかったと……謝るべきか)
(こうして、菓子を焼いてきてくれたのだから……何か、お返しを……)
悩み、焦り、そして何より焦燥が、言葉の裏に渦巻く。
(やっと……やっと手が届きそうになったというのに……)
自分の大切にしまっていたものが、誰かに食い荒らされたような、そんな錯覚。
いや、そんなふうに思ってはいけない。彼女がまた、怯えて逃げてしまう。
(なぜ……他の者たちは、こんなにも簡単に、彼女の距離に入れるのだ)
(私と……何が違う?)
「……?……! ちょっと、墨霖寅!」
「はっ……すまない。何だったか」
第一皇女が怪訝な顔で覗き込み、額に手を当てる。
「熱でもあるのかしら?」
「熱など、ない」
当てられた手を払いもせず、静かに返す将軍。
その姿を見た夫人の胸に、チクリと小さな痛みが走った。
(……なんだろう、この気持ち)
「仲がいいのね?」
ぽつりと、夫人は素直な気持ちを漏らす。
「え? 誤解しないで~?」
第一皇女はケラケラと笑いながら、将軍の肩をどんと叩いた。
「子どもの頃、一緒に育ったのよ。私が夜中に泣くこいつを慰めて、一緒に寝てあげてたんだから~!」
「その話はするな」と慌てる将軍。
そんなやり取りを見て、夫人はふっと微笑む。
「私も晨を子供の頃、よく抱いて寝ました。あの子、あの頃から本当に可愛くて……」
うっとりと思い出すように語るその姿に、将軍はつい小さく息を吐く。
(また晨か……)
「霖寅だって可愛かったのよ~。女同士でおしゃべりしましょ!」
第一皇女はぐいぐいと夫人を引っ張り、自分の私室へと連れて行く。
戸惑いながらも押されるままに進む夫人。
背後に残る将軍に、第一皇女が片目をパチンとウィンクしてみせた。
将軍は、思わず右手を少しだけ上げたが——
それをぐっと握りしめて、下ろした。
「姉様に任せておけば、大丈夫だよ」
と、王子が茶化すように笑う。
「それで駄目なら、俺がもらっちゃおうかな~?」
「夢を見るな」
「はいはい」
おどけて両手を上げて見せる王子の目に、一抹の寂しさが宿っていたことに、将軍は気づいていた。
将軍の内衣をそっと肩までずらすと、赤く残る傷跡が露わになった。
まだ完全には癒えていないその痕が目に入ると、胸の奥がチクリと痛んだ。
(傷跡が残りませんように。肩の筋を痛めていませんように……)
心の中で静かに祈りながら、薬をゆっくりと塗る。
指先に神経を集中させる。慎重で、丁寧な手つきだった。
「痛くないですか?」
「ああ」
短く返事が返ってくると、夫人はわずかに安堵の表情を浮かべた。
薬を塗り終えると、淡々と内衣を着せ、薬を片付ける。
「今日は、私が焼きました」
そう言って、まだ夜が明けぬうちから焼いた心尽くしの菓子を差し出す。
お茶も淹れて、何も言わずに静かに次の指示を待つ。
その様子を見ていた王子は眉間にしわを寄せ、将軍にひそひそとささやいた。
「ねえねえ、どうしたの? 昨日はあんなに近かったのに、嫁っ子ちゃん、今日はあんなに離れて座ってるよ……」
「ああ……」
将軍は、変わらぬ表情で静かにお茶をすすっていた。
「ん~? んん~?」
訝しげに首をひねった王子は、腕を組みながら侍女たちの元へ向かった。
「ちょっと聞くけど、どうしてあんなに距離が空いちゃってるの?」
明蘭が小声で答える。
「夜、奥様は将軍さまの寝所に伺いましたが……その後、なかなかお戻りにならず。思い詰めたご様子で台所に……」
繍慧(シュウフェイ)が続ける。
「取り憑かれたように、朝までずっと菓子を焼いておられました。いろんな味で、黙々と……」
草盈(ツァオイン)もそっと言葉を添える。
「将軍さまにだけ、奥様の手作りを食べさせていなかったことをとがめられたようで……」
「え? そんなことを?」と王子は思わず口に出した。
だが将軍の顔に一瞬浮かんだ影を見て、それが“将軍にとっては”どれほど重大なことだったのかを悟る。
「……この二人は本当に、もどかしすぎる……!」
王子は思わずジタバタしたくなる気持ちをこらえ、ついに席を立った。
「……もう我慢ならん! 呼んでくる!」
廊下を駆け出し、その場をあとにする。
しばらくして、廊下の奥から朗らかで華やかな声が響いた。
「まあ! 噂の嫁っ子ちゃんって、あなたね!」
飾り気はないのに自然と華やぎを纏う女性が現れた。
「ずっと会いたかったのよ~!」
夫人の手を取るなり、将軍の隣にどかっと腰を下ろす。
「姉様~、強引なんだから~。ごめんね、嫁っ子ちゃん」
「姉様……?」
不思議そうに首を傾げる夫人に、王子が苦笑しながら説明した。
「この方、僕と母親が同じの姉君で、この朴念仁の幼馴染」
「そうよ~! 私は、この国の第一皇女!」
「えっ……」
驚いて目を見開いた夫人は、慌てて礼をする。
だが第一皇女は手をひらひらと振って笑った。
「やだやだ~、そんなの陛下の前だけでいいのよ~」
その明るさに、夫人の胸に張りつめていたものがふっと解けていくようだった。
そっと手巾を取り出し、目元を押さえる。
「まあ、その手巾! なんて見事な刺繍」
「使っていない方ですが……よろしければ」
「まあまあ、ありがとう。気が利くのね、嫁っ子ちゃん!」
第一皇女の気さくさと明るさが場の空気を一気に柔らかく変えていた。
そして将軍もまた、ほんのわずかに肩の力を抜いていた。
だが——
その心の奥深くに刺さった嫉妬の棘だけは、まだ抜けずに残っていた。
顔には出さず、胸の痛みにただ、じっと耐えていた。
(昨日は大人気なかったと……謝るべきか)
(こうして、菓子を焼いてきてくれたのだから……何か、お返しを……)
悩み、焦り、そして何より焦燥が、言葉の裏に渦巻く。
(やっと……やっと手が届きそうになったというのに……)
自分の大切にしまっていたものが、誰かに食い荒らされたような、そんな錯覚。
いや、そんなふうに思ってはいけない。彼女がまた、怯えて逃げてしまう。
(なぜ……他の者たちは、こんなにも簡単に、彼女の距離に入れるのだ)
(私と……何が違う?)
「……?……! ちょっと、墨霖寅!」
「はっ……すまない。何だったか」
第一皇女が怪訝な顔で覗き込み、額に手を当てる。
「熱でもあるのかしら?」
「熱など、ない」
当てられた手を払いもせず、静かに返す将軍。
その姿を見た夫人の胸に、チクリと小さな痛みが走った。
(……なんだろう、この気持ち)
「仲がいいのね?」
ぽつりと、夫人は素直な気持ちを漏らす。
「え? 誤解しないで~?」
第一皇女はケラケラと笑いながら、将軍の肩をどんと叩いた。
「子どもの頃、一緒に育ったのよ。私が夜中に泣くこいつを慰めて、一緒に寝てあげてたんだから~!」
「その話はするな」と慌てる将軍。
そんなやり取りを見て、夫人はふっと微笑む。
「私も晨を子供の頃、よく抱いて寝ました。あの子、あの頃から本当に可愛くて……」
うっとりと思い出すように語るその姿に、将軍はつい小さく息を吐く。
(また晨か……)
「霖寅だって可愛かったのよ~。女同士でおしゃべりしましょ!」
第一皇女はぐいぐいと夫人を引っ張り、自分の私室へと連れて行く。
戸惑いながらも押されるままに進む夫人。
背後に残る将軍に、第一皇女が片目をパチンとウィンクしてみせた。
将軍は、思わず右手を少しだけ上げたが——
それをぐっと握りしめて、下ろした。
「姉様に任せておけば、大丈夫だよ」
と、王子が茶化すように笑う。
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