『一佐の裁き(いっさのさばき) 〜イージス艦長(50)、江戸北町奉行(25)に成り代わる〜』

月神世一

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EP 8

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お白洲(ファースト・コンタクト)

夜の闇を、蘭は必死に駆けていた。

懐の台帳が、父の命の重さとなって、彼女の呼吸を浅くする。

「待て、小娘!」

背後から、あの浪人の殺気が迫る。

足音が近づいてくる。速い。追いつかれる!

だが、その浪人の進路に、横から影が差した。

坂上(真さん)だ。

彼は、浪人に斬りかかるでもなく、すれ違いざま、路地に置かれていた天秤棒を足で蹴り上げた。

「なっ!?」

浪人は、不意の障害に足をもつれさせ、わずかに体勢を崩す。

「行け! 奉行所だ!」

真さんの声が飛ぶ。

折しも、江戸の町に、けたたましい半鐘の音が鳴り響いた。

三国屋の方角から、火の手が上がっていたのだ。

(……あの忍び……喜助か!)

坂上は、義賊の「後始末」を即座に利用した。

「火事だ! 火事だ!」

町は、パニックに陥る。

そこへ、火消し「め組」の一団が、纏を先頭に駆けてくる。

「邪魔だ!」

浪人が、火消しを押しのけて蘭を追おうとする。

「――待て!」

坂上が、火消したちの前に立ちはだかり、浪人を指差した。

「あの男だ! 火事場泥棒だ!」

「なんだと、てめぇ!」

江戸の華である火消したちは、火事場での不埒な輩を何より憎む。

「野郎! 許さねえ!」

「とっ捕まえろ!」

十数人の屈強な火消したちが、得物の鳶口を構え、浪人に襲いかかる。

「ちっ……!」

いくら凄腕でも、この数はさばけない。浪人は、蘭と坂上を睨みつけると、舌打ち一つ残し、闇へと姿を消した。

坂上は、息を切らす蘭から台帳をひったくると、確かめた。

「……行け。今すぐ家に帰り、今日のことは忘れろ」

「え? でも、台帳は……」

「俺が届ける」

坂上(真さん)は、それだけ言うと、火事の喧騒の中へと消えていった。

翌日、北町奉行所・お白洲

朝から、お白洲は異様な緊張感に包まれていた。

白砂の上に引っ据えられたのは、米問屋「三国屋」の主人・惣兵衛。

そして、その隣には、本来このような場所にいるはずのない男――旗本二千石、大和田 備中守――までもが、不機嫌そうに座らされていた。

夜中、「真さん」から「奉行」へと戻った坂上が、その台帳を「証拠」として、即刻二人を捕縛させたのだ。

御簾が上がる。

段の上には、冷ややかな表情の若き奉行・坂上真一(25)が座している。

「――では、詮議を始める」

同心・秋元雪之丞が、震える手で、昨夜の台帳を前に進める。

「三国屋! 大和田殿! 貴殿らが、米俵に『阿片』を隠し、密輸・密売していた証拠の台帳が、これにござる!」

三国屋が、待ってましたとばかりに叫んだ。

「偽りにござります! それは、偽物!……い、いや、違う! 昨夜、『真さん』と名乗るならず者と岡っ引きの小娘が、店に押し入り、脅し取っていったものにござる!」

続いて、大和田が、若き奉行を嘲笑うかのように、ゆったりと口を開いた。

「……坂上奉行殿。お若いとはいえ、法を司る身。『盗まれた』品が、証拠として成り立たぬこと、ご存知ないか?」

「なっ……!」

雪之丞が息を呑む。

「盗品を押し立てて、この私を白洲に据えるとは。若年奉行の勇み足か、あるいは何かの手違いか。……笑い話にもなりませぬな」

その時だった。

「――嘘をおっしゃい!」

お白洲の脇から、早乙女蘭が飛び出してきた。

「そいつらです! そいつらが、阿片で江戸の町を腐らせ、私の父ちゃんを殺したんです!」

蘭は、大和田を指さして叫んだ。

「御奉行様! どうか、どうか、こいつらに天罰を!」

場が、凍りつく。

証人でもない岡っ引きが、お白洲に乱入し、旗本を指さす。前代未聞の事態だ。

大和田と三国屋の口の端に、嘲笑が浮かぶ。

(……若い奉行に、この場は収められまい)

(部下の不祥事で、この詮議そのものが流れる)

皆の視線が、坂上奉行に集まる。彼が、どうするのか、と。

坂上の氷のような瞳が、蘭を射抜いた。

「――黙れ」

「え……?」

地を這うような、冷たい声だった。

「岡っ引き。貴様の役目は、事実(ファクト)を提示することであり、感情を喚き散らすことではない」

「お、御奉行さま……?」

「この場を乱した罪、重いぞ。……下がれ」

蘭は、血の気が引いていくのを感じた。

(……嘘だ。この人も、あの夜の『真さん』も、グルだったの? 私を、父ちゃんを、見捨てるの……?)

坂上は、蘭から視線を外し、お白洲全体に響くように言った。

「……大和田殿の申される通り。現状、台帳の入手経緯には、疑義が残る」

「なっ……」

雪之丞が悲鳴を上げる。

蘭は、その場にへたり込みそうになった。

(……やっぱり、この奉行は、ダメだ……!)

「よって、本件の『証拠』は、不十分と判断せざるを得ない」

勝った。

大和田と三国屋が、目と目で笑い合う。

大和田が、追い打ちをかける。

「ふふ。いや、御分かりいただけて、何よりだ。若いが、賢明な御奉行様だ」

お白洲は、絶望に包まれた。悪が、裁かれない。

その、静寂の中。

段の上の坂上が、まるで退屈したかのように、天井を見上げながら、ぽつりと、呟いた。

「……それにしても、残念だ」

「は?」

「……いや、なに。昨夜は、三国屋の賭場が、ずいぶんと騒がしかったようで」

大和田と三国屋の表情が、初めて、ぴくりと硬まった。

坂上は、二人には視線も合わせず、続ける。

「大和田殿」

「……な、なんでしょうか」

「貴殿は、昨夜……。三国屋の、あの『賭場』に、おられたな?」

「!」

大和田の顔から、すっと血の気が引いた。

だが、彼は、必死で、余裕の仮面を張り付けた。

「……ば、馬鹿な! この私が、そのような下賤な場所に、足を踏み入れるとでも?」

大和田は、奉行を睨みつけ、声高に言い放った。

「――坂上奉行殿。いったい、この江戸の誰が! 私を見たと、申すので?」

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