9 / 70
EP 9
しおりを挟む
仁王
「――いったい、この江戸の誰が! 私を見た、と申すので?」
旗本・大和田備中守の、勝ち誇った声がお白洲に響き渡る。
蘭は、唇を噛みしめ、溢れ出そうな涙を必死にこらえた。
(……もう、だめだ)
雪之丞も、顔面蒼白でうつむいている。
悪が、法を嘲笑う。
その、絶望に満ちた静寂の中。
段の上の坂上奉行が、まるで他人事のように、静かに、静かに口を開いた。
「……ほう」
その声は、あまりにも平坦だった。
「では、大和田殿。貴殿は、昨夜、三国屋の賭場で大立ち回りを演じた、『真さん』という男のことも、ご存じない、と?」
大和田は、一瞬、きょとんとした。
そして、隣の三国屋と顔を見合わせ、こらえきれないというように、肩を震わせて笑い出した。
「は、はは……! 真さん? ああ、あの小汚い遊び人か!」
三国屋も、追従する。
「いかさま賭博で場を荒らし回る、ただのチンピラにござります!」
大和田は、涙目で坂上を見る。
「御奉行! まさかとは思いますが、そのような『下賤な遊び人』の戯言を、証拠にしようと?」
そして、決めつけた。
「知らんな! 断じて知らぬ!」
「そのような輩と、この旗本・大和田を、一緒にするな!」
――言った。
悪党は、自らの口で、最後の答えを、言ってのけた。
お白洲の空気が、変わった。
蘭は、気づいた。
先ほどまで、段の上で氷のように座っていた坂上奉行が。
(……え?)
ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、立ち上がろうとしていた。
「…………」
その場にいる全員の視線が、坂上の一挙手一投足に注がれる。
音が、消えた。
坂上奉行(25)は、静かに立ち上がると、大和田と三国屋を、まるで虫けらでも見るような、冷たい、50歳の目で、見下ろした。
そして。
彼は、自らの右肩に、ゆっくりと手をかけた。
奉行が纏う、格式高い羽織が、はらり、と滑り落ちる。
「ご、御奉行……!?」
雪之丞が、信じられないものを見たかのように、目を見開く。
坂上は、続けて、その下の着物の襟を、無造作に掴んだ。
そして、一気に、それを、背中まで、はだけさせた。
ザッ……!
お白洲にいた全員が、息を呑んだ。
若き奉行の、白く滑らかな、しかし、確と鍛え上げられたその背中。
その、一面に。
天衣を翻し、金剛杵を振り上げた、阿形と吽形、二躯の「仁王像」が、極彩色の墨で、鮮やかに、猛々しく、刻み込まれていた。
「あ…………あ……」
蘭は、声にならない声を上げた。
(……嘘だ。あの夜の、『真さん』の……背中……!?)
(じゃあ、御奉行様が……『真さん』……!?)
雪之丞も、あまりの衝撃に、尻餅をついていた。
「ば、馬鹿な……『真さん』の彫り物は、本物だったのかよ……!?」
大和田と三国屋の顔から、血の気と、余裕と、嘲笑が、完全に消え去った。
「……そ、その……背中は……」
「まさか……昨夜の……?」
二人の悪党が、自分たちの破滅を悟り、ガクガクと震え始める。
その頭上から、坂上真一の、地の底から響くような、冷たい「裁き」の声が、降り注いだ。
「――昨夜、貴様らが『下賤な遊び人』と呼び、見て見ぬフリをした男」
「この仁王の背中に、見覚えがねぇとは、言わせねぇぞ!」
「「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」」
大和田備中守と、三国屋惣兵衛。
二人の悪党は、同時に腰を抜き、その場に失禁しながら、白目を剥いた。
蘭も、雪之丞も、そして、その場にいた全ての役人たちも。
若き奉行の、あまりにも衝撃的な「二つの顔」を前に、凍りついたまま、一言も発することができなかった。
「――いったい、この江戸の誰が! 私を見た、と申すので?」
旗本・大和田備中守の、勝ち誇った声がお白洲に響き渡る。
蘭は、唇を噛みしめ、溢れ出そうな涙を必死にこらえた。
(……もう、だめだ)
雪之丞も、顔面蒼白でうつむいている。
悪が、法を嘲笑う。
その、絶望に満ちた静寂の中。
段の上の坂上奉行が、まるで他人事のように、静かに、静かに口を開いた。
「……ほう」
その声は、あまりにも平坦だった。
「では、大和田殿。貴殿は、昨夜、三国屋の賭場で大立ち回りを演じた、『真さん』という男のことも、ご存じない、と?」
大和田は、一瞬、きょとんとした。
そして、隣の三国屋と顔を見合わせ、こらえきれないというように、肩を震わせて笑い出した。
「は、はは……! 真さん? ああ、あの小汚い遊び人か!」
三国屋も、追従する。
「いかさま賭博で場を荒らし回る、ただのチンピラにござります!」
大和田は、涙目で坂上を見る。
「御奉行! まさかとは思いますが、そのような『下賤な遊び人』の戯言を、証拠にしようと?」
そして、決めつけた。
「知らんな! 断じて知らぬ!」
「そのような輩と、この旗本・大和田を、一緒にするな!」
――言った。
悪党は、自らの口で、最後の答えを、言ってのけた。
お白洲の空気が、変わった。
蘭は、気づいた。
先ほどまで、段の上で氷のように座っていた坂上奉行が。
(……え?)
ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、立ち上がろうとしていた。
「…………」
その場にいる全員の視線が、坂上の一挙手一投足に注がれる。
音が、消えた。
坂上奉行(25)は、静かに立ち上がると、大和田と三国屋を、まるで虫けらでも見るような、冷たい、50歳の目で、見下ろした。
そして。
彼は、自らの右肩に、ゆっくりと手をかけた。
奉行が纏う、格式高い羽織が、はらり、と滑り落ちる。
「ご、御奉行……!?」
雪之丞が、信じられないものを見たかのように、目を見開く。
坂上は、続けて、その下の着物の襟を、無造作に掴んだ。
そして、一気に、それを、背中まで、はだけさせた。
ザッ……!
お白洲にいた全員が、息を呑んだ。
若き奉行の、白く滑らかな、しかし、確と鍛え上げられたその背中。
その、一面に。
天衣を翻し、金剛杵を振り上げた、阿形と吽形、二躯の「仁王像」が、極彩色の墨で、鮮やかに、猛々しく、刻み込まれていた。
「あ…………あ……」
蘭は、声にならない声を上げた。
(……嘘だ。あの夜の、『真さん』の……背中……!?)
(じゃあ、御奉行様が……『真さん』……!?)
雪之丞も、あまりの衝撃に、尻餅をついていた。
「ば、馬鹿な……『真さん』の彫り物は、本物だったのかよ……!?」
大和田と三国屋の顔から、血の気と、余裕と、嘲笑が、完全に消え去った。
「……そ、その……背中は……」
「まさか……昨夜の……?」
二人の悪党が、自分たちの破滅を悟り、ガクガクと震え始める。
その頭上から、坂上真一の、地の底から響くような、冷たい「裁き」の声が、降り注いだ。
「――昨夜、貴様らが『下賤な遊び人』と呼び、見て見ぬフリをした男」
「この仁王の背中に、見覚えがねぇとは、言わせねぇぞ!」
「「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」」
大和田備中守と、三国屋惣兵衛。
二人の悪党は、同時に腰を抜き、その場に失禁しながら、白目を剥いた。
蘭も、雪之丞も、そして、その場にいた全ての役人たちも。
若き奉行の、あまりにも衝撃的な「二つの顔」を前に、凍りついたまま、一言も発することができなかった。
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
幻影の艦隊
竹本田重朗
歴史・時代
「ワレ幻影艦隊ナリ。コレヨリ貴軍ヒイテハ大日本帝国ヲタスケン」
ミッドウェー海戦より史実の道を踏み外す。第一機動艦隊が空襲を受けるところで謎の艦隊が出現した。彼らは発光信号を送ってくると直ちに行動を開始する。それは日本が歩むだろう破滅と没落の道を栄光へ修正する神の見えざる手だ。必要な時に現れては助けてくれるが戦いが終わるとフッと消えていく。幻たちは陸軍から内地まで至る所に浸透して修正を開始した。
※何度おなじ話を書くんだと思われますがご容赦ください
※案の定、色々とツッコミどころ多いですが御愛嬌
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる