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EP 11
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指揮官の日常(と非日常)
あの大和田と三国屋の「仁王裁き」から、数日が経過した。
北町奉行所は、奇妙な静けさに包まれていた。
いや、静けさではない。
これまで、若年奉行(25)を心のどこかで侮っていた同心や役人たちが、今は坂上真一(中身50)の姿を見るたび、ビクリと背筋を伸ばし、完璧なまでに業務をこなすようになったのだ。
「仁王奉行」。
「背中に阿吽を背負う、鬼の若様」。
その噂は、奉行所の規律を、恐怖によって完璧に正していた。
(……合理的だ。指揮官の威厳は、組織の機能を維持する上で、必須の要素だ)
だが、その「完璧な指揮官」である坂上は今、一人、執務室で、別の(そして、はるかに深刻な)脅威と戦っていた。
「…………」
ズキン、と。
こめかみの奥で、鈍い痛みが爆ぜる。
カフェイン欠乏症だ。
50年の人生において、これほど長く、強いて言うなら一等海佐の生活において、コーヒーとコーヒーキャンディを断った日はなかった。
あの、不味い「焦がし豆湯」では、代用にすらならない。
(……集中力が、低下している)
坂上は、目の前に山と積まれた「決裁書類」――江戸の日常で起こる、些末だが重要な問題の山――を睨みつけ、奥歯を噛みしめた。
「あの、お茶……入れました」
その時、執務室の入口で、蚊の鳴くような声がした。
早乙女蘭だった。
彼女は、あの一件以来、こうして毎日奉行所に顔を出しては、坂上の身の回りの世話を(勝手に)焼こうとしていた。
「……置いておけ」
坂上が、書類から目も離さずに答える。
「は、はい!」
蘭は、ビクッと肩を震わせ、湯呑を置く。
彼女は、坂上にどう接していいか、本気で分からなくなっていた。
(ど、どうしよう……)
彼女は、坂上(書類を見ている)の横顔を盗み見る。
(今は、あの「冷たい御奉行様」の顔だわ……。でも、あの下には、「仁王」が……)
「あ、あの……御奉行様」
「何だ」
「ひっ!」
氷のような声に、蘭は縮み上がる。
(だ、だめだ。御奉行様って呼ぶと、怖い)
(で、でも……あの夜、助けてくれたのは……)
蘭は、意を決して、声を潜め、呼び方を変えてみた。
「……し、真さん……?」
ピタリ、と。
坂上の、筆を走らせる手が止まった。
蘭は、自分の心臓が、高鳴るのを感じた。
(あっ……こっちの呼び方のほうが、良かった……?)
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、冷徹な奉行でも、遊び人の真さんでもなく。
ただ、純粋に、頭痛のさなかに部下から(意味のわからない)呼び掛けをされた、50歳の指揮官の「苛立ち」を湛えていた。
「……何だ。新たな『任務(ミッション)』か?」
「みっしょん!? い、いえ! あの、その……!」
(この顔もだめだ!)
蘭のぎこちない態度が、坂上のカフェイン欠乏の脳を、無意識に(さらに)苛立たせた。
「用件が無ければ、下がれ。業務の妨げだ」
「う……」
蘭が、涙目で退出しようとした、その時だった。
「御奉行様! 御奉行様! 一大事にござります!」
雪之丞が、廊下から転がり込むようにして入ってきた。
「北辰一刀流! あの『青田道場』の師範・青田源之殿が、血相変えて……!」
「何だと?」
坂上の眉が、ピクリと動いた。
「青田道場」。
この身体(25歳)が、北辰一刀流を学んだ場所だ。
50歳の坂上もまた、免許皆伝。奇妙な縁だ。
雪之丞が言葉を続ける間もなく、廊下から、道着姿の厳つい中年男が、怒りの形相で怒鳴り込んできた。
「坂上殿! いや、恐れ入りますが、北町御奉行!」
青田源之だ。
彼は、坂上の前に、どかと座り込んだ。
「単刀直入に申す! 拙者の愚息・赤太(12)が! どこで聞き込んできたのか……!」
源之は、悔しそうに顔を歪めた。
「……あの、『仁王裁き』の話を聞いて、『真さんは、ただの遊び人じゃなかった! あの背中こそ、真の剣だ!』などと、訳の分からぬことを!」
「……何が言いたい」
坂上が、こめかみを抑えながら、短く促す。
「愚息が! 『真さんの弟子になる!』と、竹刀二本だけ持って、道場を飛び出してしもうたのです!」
「……」
「行く先は、ここに決まっておる! 坂上殿! どうか、赤太を引き止め、厳しく叱って、道場に連れ戻しては……!」
坂上真一(中身50歳)は、目の前の書類の山と、頭痛の原因たるカフェイン欠乏と、そして、新たに降って湧いた「12歳の(自称)弟子」という、最も非なる問題を見比べ、深く、重い、ため息をついた。
「……また、非合理な問題(タスク)が、増えた」
その時。
彼ら(坂上、蘭、雪之丞、源之)の誰も、気づいてはいなかった。
執務室の天井裏。
一枚の板が、ほんのわずかにズレており、その隙間から、くりくりとした二つの少年の目が、中を覗き込んでいた。
(……へえ)
青田赤太(12)は、息を殺し、自分の父が叱られている(ように見える)光景と、かつて知っていた「遊び人の真さん」とは、まるで別人になった「指揮官の顔」の奉行を、最高に興味津々の目で、観察していた。
あの大和田と三国屋の「仁王裁き」から、数日が経過した。
北町奉行所は、奇妙な静けさに包まれていた。
いや、静けさではない。
これまで、若年奉行(25)を心のどこかで侮っていた同心や役人たちが、今は坂上真一(中身50)の姿を見るたび、ビクリと背筋を伸ばし、完璧なまでに業務をこなすようになったのだ。
「仁王奉行」。
「背中に阿吽を背負う、鬼の若様」。
その噂は、奉行所の規律を、恐怖によって完璧に正していた。
(……合理的だ。指揮官の威厳は、組織の機能を維持する上で、必須の要素だ)
だが、その「完璧な指揮官」である坂上は今、一人、執務室で、別の(そして、はるかに深刻な)脅威と戦っていた。
「…………」
ズキン、と。
こめかみの奥で、鈍い痛みが爆ぜる。
カフェイン欠乏症だ。
50年の人生において、これほど長く、強いて言うなら一等海佐の生活において、コーヒーとコーヒーキャンディを断った日はなかった。
あの、不味い「焦がし豆湯」では、代用にすらならない。
(……集中力が、低下している)
坂上は、目の前に山と積まれた「決裁書類」――江戸の日常で起こる、些末だが重要な問題の山――を睨みつけ、奥歯を噛みしめた。
「あの、お茶……入れました」
その時、執務室の入口で、蚊の鳴くような声がした。
早乙女蘭だった。
彼女は、あの一件以来、こうして毎日奉行所に顔を出しては、坂上の身の回りの世話を(勝手に)焼こうとしていた。
「……置いておけ」
坂上が、書類から目も離さずに答える。
「は、はい!」
蘭は、ビクッと肩を震わせ、湯呑を置く。
彼女は、坂上にどう接していいか、本気で分からなくなっていた。
(ど、どうしよう……)
彼女は、坂上(書類を見ている)の横顔を盗み見る。
(今は、あの「冷たい御奉行様」の顔だわ……。でも、あの下には、「仁王」が……)
「あ、あの……御奉行様」
「何だ」
「ひっ!」
氷のような声に、蘭は縮み上がる。
(だ、だめだ。御奉行様って呼ぶと、怖い)
(で、でも……あの夜、助けてくれたのは……)
蘭は、意を決して、声を潜め、呼び方を変えてみた。
「……し、真さん……?」
ピタリ、と。
坂上の、筆を走らせる手が止まった。
蘭は、自分の心臓が、高鳴るのを感じた。
(あっ……こっちの呼び方のほうが、良かった……?)
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、冷徹な奉行でも、遊び人の真さんでもなく。
ただ、純粋に、頭痛のさなかに部下から(意味のわからない)呼び掛けをされた、50歳の指揮官の「苛立ち」を湛えていた。
「……何だ。新たな『任務(ミッション)』か?」
「みっしょん!? い、いえ! あの、その……!」
(この顔もだめだ!)
蘭のぎこちない態度が、坂上のカフェイン欠乏の脳を、無意識に(さらに)苛立たせた。
「用件が無ければ、下がれ。業務の妨げだ」
「う……」
蘭が、涙目で退出しようとした、その時だった。
「御奉行様! 御奉行様! 一大事にござります!」
雪之丞が、廊下から転がり込むようにして入ってきた。
「北辰一刀流! あの『青田道場』の師範・青田源之殿が、血相変えて……!」
「何だと?」
坂上の眉が、ピクリと動いた。
「青田道場」。
この身体(25歳)が、北辰一刀流を学んだ場所だ。
50歳の坂上もまた、免許皆伝。奇妙な縁だ。
雪之丞が言葉を続ける間もなく、廊下から、道着姿の厳つい中年男が、怒りの形相で怒鳴り込んできた。
「坂上殿! いや、恐れ入りますが、北町御奉行!」
青田源之だ。
彼は、坂上の前に、どかと座り込んだ。
「単刀直入に申す! 拙者の愚息・赤太(12)が! どこで聞き込んできたのか……!」
源之は、悔しそうに顔を歪めた。
「……あの、『仁王裁き』の話を聞いて、『真さんは、ただの遊び人じゃなかった! あの背中こそ、真の剣だ!』などと、訳の分からぬことを!」
「……何が言いたい」
坂上が、こめかみを抑えながら、短く促す。
「愚息が! 『真さんの弟子になる!』と、竹刀二本だけ持って、道場を飛び出してしもうたのです!」
「……」
「行く先は、ここに決まっておる! 坂上殿! どうか、赤太を引き止め、厳しく叱って、道場に連れ戻しては……!」
坂上真一(中身50歳)は、目の前の書類の山と、頭痛の原因たるカフェイン欠乏と、そして、新たに降って湧いた「12歳の(自称)弟子」という、最も非なる問題を見比べ、深く、重い、ため息をついた。
「……また、非合理な問題(タスク)が、増えた」
その時。
彼ら(坂上、蘭、雪之丞、源之)の誰も、気づいてはいなかった。
執務室の天井裏。
一枚の板が、ほんのわずかにズレており、その隙間から、くりくりとした二つの少年の目が、中を覗き込んでいた。
(……へえ)
青田赤太(12)は、息を殺し、自分の父が叱られている(ように見える)光景と、かつて知っていた「遊び人の真さん」とは、まるで別人になった「指揮官の顔」の奉行を、最高に興味津々の目で、観察していた。
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