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EP 16
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出島の黒い豆
北町奉行所、執務室。
坂上真一(中身50)は、近江屋から叩きつけられた文――「同心一人、預かった」――を、無表情のまま睨みつけていた。
(……最悪の事態だ)
指揮官として、これ以上ない失態。
部下(たとえ、あの自堕落な雪之丞であっても)が、敵の捕虜となる。
それは、坂上の50年の軍歴において、決してあってはならない「敗北」を意味していた。
「御奉行!」
そこへ、蘭が血相を変えて飛び込んできた。彼女もまた、雪之丞が捕らえられたという報せを聞きつけたのだ。
「雪さんが……! 御奉行、どうするんですか! あいつらの要求(『長屋の地権書』)を、まさか、飲むんじゃ……!」
坂上は、答えない。
彼の頭脳は、今や、二つの「人質」を前に、フル回転していた。
一、物理的に捕らえられた、部下・雪之丞。
二、経済的に脅かされている、庇護すべき民間人・職人長屋。
近江屋は、どちらも天秤にかけてきた。
(……情報が不足している。敵の「真の目的」と「戦力」が不明瞭なまま、取引には応じられない)
坂上は、焦る蘭に、氷のように冷たい視線を向けた。
「蘭」
「は、はい!」
「雪之丞の件は、一時ペンディングとする」
「……は!?」
蘭は、耳を疑った。
「ぺ、ぺんで……!? なに言ってるんですか! 雪さんが殺されちゃうかもしれないのに!」
「だからだ」
坂上の声には、一切の感情が乗っていない。
「敵の要求が『地権書』である以上、雪之丞の命は、今すぐには奪われん。……それよりも、貴様には別の、最優先任務を付与する」
「……任務……」
蘭は、その言葉の重さに、反論を呑み込んだ。
「おミヨという娘から、『長崎屋』という店の名を聞いた。出島と繋がり、南蛮渡来の品を扱う店だ」
「長崎屋……?」
「そこと、近江屋との『関係』を、徹底的に洗い出せ。今すぐにだ。行け」
「で、でも!」
「行け」
蘭は、その絶対零度の指揮官の目に、「はい!」と答えるしかなかった。
(……なんなのよ、あの人! 雪さんより大事なことって、いったい……!)
彼女は、混乱と怒りを抱えたまま、捜査へと駆け出した。
一刻後。
坂上真一は、「真さん」ではなく、北町御奉行としての正装に身を包み、「長崎屋」の暖簾をくぐっていた。
ギヤマンの器、珍しい織物、嗅いだことのない香料の匂い。
そこは、江戸にいながらにして、異国の空気が漂う空間だった。
「こ、これはこれは、北町の御奉行様が、直々にとは……!」
主人の長崎屋 喜兵衛が、畳に額をこすりつけて、坂上を迎え入れた。
坂上は、挨拶もそこそこに、単刀直入に本題に入った。
ズキン、と痛む頭が、彼から(50歳からの)余裕を奪っていた。
「近江屋について、聞きたい」
喜兵衛の肩が、わずかに震えた。
「……近江屋様は、私どもにとりまして、大変……『有り難い』お客様に、ございます」
「そうか」
坂上は、店の奥に積まれた、異国の文様の入った木箱を(値踏みするように)見た。
「……貴殿の店では、出島を通じ、南蛮の『薬』も扱っていると聞く」
「は、はあ……」
「黒く、焦げた『豆』だ。興奮作用のある、薬だそうだな」
喜兵衛は、目を見開いた。
「……! 御奉行様、『コッヒイ』を、ご存知で!?」
「(……コッヒイ。間違いない)」
「はい! まさしく! オランダ様の申すには、頭をスッキリさせ、元気の出る『妙薬』とのことで。薬用として、ごく少量ずつ、入れておりましたが……」
坂上の喉が、ゴクリと鳴った(気がした)。
「……その『在庫』を、奉行所で預かる。公務での調査に、必要だ。全て、出せ」
「そ、それが……!」
喜兵衛の顔が、一気に青ざめた。
「……御奉行様、誠に申し訳ございませぬ! それは……不可能にございます!」
「――不可能だと?」
坂上の目が、スッと細められた。
喜兵衛は、震えながら白状した。
「は、はい……! 先日、出島から最後の船で届きました『コッヒイ豆』……その、全ての在庫を……」
「……全ての在庫を?」
「……『近江屋』様が、昨日、『根こそぎ買い占めて』いかれまして……!」
「…………」
坂上真一は、無言になった。
カチリ、と。
彼の頭の中で、全てのピースが、ハマった。
地上げ屋。違法賭博。
そして、今――「俺のコーヒー」の独占。
喜兵衛は、必死に弁明を続けた。
「近江屋の旦那は、近頃、コッヒイやギヤマンなど、珍しい南蛮の品を、根こそぎ買い漁っておられまして……」
「……何のためだ」
「は、はあ……。『お城』の……その、『大変お偉い方々』への、『繋ぎ』になさると……」
(……! 第一部の黒幕か!)
(近江屋は、単なる地上げ屋ではない。幕府中枢の「悪」への、物資供給ラインだ)
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
喜兵衛は、若き奉行から発せられる、身も凍るような、静かな「圧力(プレッシャー)」に、声も出せずに平伏した。
(……部下を、捕らえ)
(……民間人を、脅し)
(……そして、俺のコーヒーを、横取りした)
坂上の(50歳からの)中で、何かが、静かに、ブツリと、キレた。
「――近江屋」
彼は、店を出る間際、喜兵衛に背を向けたまま、呟いた。
その声は、怒りというより、もはや「宣告」だった。
「……万死に、値する」
任務は、もはや「江戸の正義」のためだけではない。
「戦略物資(=コーヒー)」の、奪還作戦へと、切り替わった。
北町奉行所、執務室。
坂上真一(中身50)は、近江屋から叩きつけられた文――「同心一人、預かった」――を、無表情のまま睨みつけていた。
(……最悪の事態だ)
指揮官として、これ以上ない失態。
部下(たとえ、あの自堕落な雪之丞であっても)が、敵の捕虜となる。
それは、坂上の50年の軍歴において、決してあってはならない「敗北」を意味していた。
「御奉行!」
そこへ、蘭が血相を変えて飛び込んできた。彼女もまた、雪之丞が捕らえられたという報せを聞きつけたのだ。
「雪さんが……! 御奉行、どうするんですか! あいつらの要求(『長屋の地権書』)を、まさか、飲むんじゃ……!」
坂上は、答えない。
彼の頭脳は、今や、二つの「人質」を前に、フル回転していた。
一、物理的に捕らえられた、部下・雪之丞。
二、経済的に脅かされている、庇護すべき民間人・職人長屋。
近江屋は、どちらも天秤にかけてきた。
(……情報が不足している。敵の「真の目的」と「戦力」が不明瞭なまま、取引には応じられない)
坂上は、焦る蘭に、氷のように冷たい視線を向けた。
「蘭」
「は、はい!」
「雪之丞の件は、一時ペンディングとする」
「……は!?」
蘭は、耳を疑った。
「ぺ、ぺんで……!? なに言ってるんですか! 雪さんが殺されちゃうかもしれないのに!」
「だからだ」
坂上の声には、一切の感情が乗っていない。
「敵の要求が『地権書』である以上、雪之丞の命は、今すぐには奪われん。……それよりも、貴様には別の、最優先任務を付与する」
「……任務……」
蘭は、その言葉の重さに、反論を呑み込んだ。
「おミヨという娘から、『長崎屋』という店の名を聞いた。出島と繋がり、南蛮渡来の品を扱う店だ」
「長崎屋……?」
「そこと、近江屋との『関係』を、徹底的に洗い出せ。今すぐにだ。行け」
「で、でも!」
「行け」
蘭は、その絶対零度の指揮官の目に、「はい!」と答えるしかなかった。
(……なんなのよ、あの人! 雪さんより大事なことって、いったい……!)
彼女は、混乱と怒りを抱えたまま、捜査へと駆け出した。
一刻後。
坂上真一は、「真さん」ではなく、北町御奉行としての正装に身を包み、「長崎屋」の暖簾をくぐっていた。
ギヤマンの器、珍しい織物、嗅いだことのない香料の匂い。
そこは、江戸にいながらにして、異国の空気が漂う空間だった。
「こ、これはこれは、北町の御奉行様が、直々にとは……!」
主人の長崎屋 喜兵衛が、畳に額をこすりつけて、坂上を迎え入れた。
坂上は、挨拶もそこそこに、単刀直入に本題に入った。
ズキン、と痛む頭が、彼から(50歳からの)余裕を奪っていた。
「近江屋について、聞きたい」
喜兵衛の肩が、わずかに震えた。
「……近江屋様は、私どもにとりまして、大変……『有り難い』お客様に、ございます」
「そうか」
坂上は、店の奥に積まれた、異国の文様の入った木箱を(値踏みするように)見た。
「……貴殿の店では、出島を通じ、南蛮の『薬』も扱っていると聞く」
「は、はあ……」
「黒く、焦げた『豆』だ。興奮作用のある、薬だそうだな」
喜兵衛は、目を見開いた。
「……! 御奉行様、『コッヒイ』を、ご存知で!?」
「(……コッヒイ。間違いない)」
「はい! まさしく! オランダ様の申すには、頭をスッキリさせ、元気の出る『妙薬』とのことで。薬用として、ごく少量ずつ、入れておりましたが……」
坂上の喉が、ゴクリと鳴った(気がした)。
「……その『在庫』を、奉行所で預かる。公務での調査に、必要だ。全て、出せ」
「そ、それが……!」
喜兵衛の顔が、一気に青ざめた。
「……御奉行様、誠に申し訳ございませぬ! それは……不可能にございます!」
「――不可能だと?」
坂上の目が、スッと細められた。
喜兵衛は、震えながら白状した。
「は、はい……! 先日、出島から最後の船で届きました『コッヒイ豆』……その、全ての在庫を……」
「……全ての在庫を?」
「……『近江屋』様が、昨日、『根こそぎ買い占めて』いかれまして……!」
「…………」
坂上真一は、無言になった。
カチリ、と。
彼の頭の中で、全てのピースが、ハマった。
地上げ屋。違法賭博。
そして、今――「俺のコーヒー」の独占。
喜兵衛は、必死に弁明を続けた。
「近江屋の旦那は、近頃、コッヒイやギヤマンなど、珍しい南蛮の品を、根こそぎ買い漁っておられまして……」
「……何のためだ」
「は、はあ……。『お城』の……その、『大変お偉い方々』への、『繋ぎ』になさると……」
(……! 第一部の黒幕か!)
(近江屋は、単なる地上げ屋ではない。幕府中枢の「悪」への、物資供給ラインだ)
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
喜兵衛は、若き奉行から発せられる、身も凍るような、静かな「圧力(プレッシャー)」に、声も出せずに平伏した。
(……部下を、捕らえ)
(……民間人を、脅し)
(……そして、俺のコーヒーを、横取りした)
坂上の(50歳からの)中で、何かが、静かに、ブツリと、キレた。
「――近江屋」
彼は、店を出る間際、喜兵衛に背を向けたまま、呟いた。
その声は、怒りというより、もはや「宣告」だった。
「……万死に、値する」
任務は、もはや「江戸の正義」のためだけではない。
「戦略物資(=コーヒー)」の、奪還作戦へと、切り替わった。
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