『一佐の裁き(いっさのさばき) 〜イージス艦長(50)、江戸北町奉行(25)に成り代わる〜』

月神世一

文字の大きさ
20 / 70

EP 20

しおりを挟む
指揮官の珈琲
仁王裁きから、一夜明けた。
裁きは迅速だった。
近江屋は、不法な地上げ行為、賭博開帳、放火未遂、そして「奉行所同心への不法監禁および脅迫」という、山のような罪状により、全財産没収の上、遠島と決まった。
職人長屋には、坂上奉行の名で(押収した近江屋の金から)ささやかな見舞金が配られ、徳三たちは、久しぶりに(仁王様に足を向けて寝られないと)安堵の酒を酌み交わしていた。
その頃、北辰一刀流・青田道場。
「――だから、俺は行く!」
青田赤太(12)が、父・源之の前で、昨日の激闘で泥だらけになった竹刀を握りしめ、宣言していた。
いや、道場をまた出て行くという意味ではない。
「父ちゃんの『型』は、強い。それは分かった」
源之が、息子が初めて稽古を認めたことに目を見開く。
「でも、真さんの、あの技も、強かった!」
赤太は、坂上に教わった「関節を極める動き」の真似をしてみせた。
「俺、決めたんだ」
少年の目は、もう悪ガキのものではなかった。
「父ちゃんの『型』と、真さんの『あれ』を、合わせる!」
「……!」
「俺は、どっちも使える、最強の剣を、見つけるんだ!」
赤太は、そう言い放つと、今度は自分から、道場の板の間へ向かい、一人、素振りを始めた。
残された源之は、あっけに取られながらも、あの「遊び人の真さん」が、息子に何かとんでもない「火」を付けていったことを、戸惑いながらも感じていた。
同じ時刻。
北町奉行所、執務室。
坂上真一は、落ち着かなかった。
(……まだか)
彼の目の前は、山積みの書類で埋まっている。
だが、彼の意識は、ただ一点。
昨日、『最重要証拠物件』として押収させた、あの「長崎屋の木箱」にのみ、集中していた。
(……検分の許可は、俺が出す)
(……部下が、勝手に捨てたりは、していないか)
(……近江屋が、あの木箱に穴でも開けていたら……!)
ズキン、と、こめかみが痛む。
それは、もうコーヒーにありつけるという「期待」からくる頭痛だった。
そこへ、ようやく。
「御奉行様! お持ちいたしました!」
蘭が、よろよろと、あの「木箱」を抱えて、執務室に入ってきた。
その後ろには、なぜか顔がツヤツヤしている雪之丞が、控えている。
「これですよね? あの、『証拠物件』って」
蘭が、ドン、と木箱を坂上の机の前に置いた。
「(……来た)」
坂上は、ゴクリと喉を鳴らすのを、必死でこらえた。
蘭は、木箱の隙間からこぼれた、黒い「豆」を一粒、指でつまみ上げた。
「しかし、本当に変な『豆』ですねえ。焦げてるし、石みたいに硬いし」
彼女は、それを鼻に近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
「……うえっ。苦そう! これが、近江屋の罪状と、いったい何の関係が……」
「――触るな」
「ひゃっ!?」
坂上の、地獄の底から響くような、低い声が飛んだ。
蘭と雪之丞が、ビクッと凍りつく。
坂上は、その木箱を、まるで我が子でも取り戻したかのように、両手で抱きかかえた。
彼は、軍人として、最大の演技で、部下たちに告げた。
「……これは、南蛮渡来の、遅効性の『毒物』かもしれん」
「「毒!?」」
二人の顔が、青ざめる。
「(……そして、俺の、『薬』だ)」
坂上は、心の中で付け加えた。
「これより、俺が直々に、この『毒』の検分作業に入る」
坂上は、二人を絶対零度の目で見睨みつけた。
「この作業は、極めて危険を伴う。万が一、毒の『香り』でも漏れれば、貴様らの命も危うい」
「そ、そんな!」
「御奉行! お待ちください! 下っ端にやらせれば……!」
「――下がれ」
坂上は、問答無用で言い放った。
「俺が検分を終えるまで、誰一人、この執務室に近づくな。入ることも、声をかけることも、一切、禁ずる」
「これは、『奉行命令』だ。……解ったな?」
「……は、ははぁーっ!」
蘭と雪之丞は、自ら危険に身を晒そうとする上司の迫力に、ただただ平伏し、慌てて執務室を退出した。
バタン。
襖が閉まる。
「…………」
ついに。
ついに、執務室で、一人きりになった。
坂上真一は、数秒、動かなかった。
そして、彼は、ゆっくりと、あの木箱の錠を器用に壊した。
蓋を、開ける。
フワリ、と。
時を超えてきた、あの、懐かしい、焦げた、豊潤な「豆」の香りが、坂上の鼻腔を、満たした。
「……ああ……」
声が、漏れた。
それは、奉行の声でも、指揮官の声でもない。
ただ、酷使し続けた男が、砂漠でオアシスを見つけた時のような、深い、深い、安堵の声だった。
彼は、震える手で、豆を掴むと、薬研(すり鉢とすりこ木)で、ゴリゴリと音を立てて豆を挽き始めた。
火鉢の湯を沸かす。
蘭が置いていった、真新しい布巾を湯呑の上にセットする。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……。
(……遅い。ミルが要る)
(……沸騰させすぎだ。湯の温度は90度が最適だ)
(……布の匂いが、豆に移る……)
文句は、山ほどあった。
だが、そんなことは、どうでもよかった。
粉になった豆に、湯を、注ぐ。
じゅわ……。
あの「香り」が、執務室の中に、爆発するように、満ち満ちていった。
黒い、宝石のような液体が、湯呑の底に、一滴、また一滴と、溜まっていく。
「…………」
坂上は、その湯呑を、まるで神の聖杯でも扱うかのように、両手で持ち上げた。
香りを、吸い込む。
(……21世紀の、横須賀の、あの執務室の匂いだ)
彼は、目を閉じ、その黒い液体を、一口、口に含んだ。
苦い。酸っぱい。雑味が多い。
(……最高に、マズい)
(……そして、最高に、美味い)
「…………はぁーーーーー……」
坂上真一は。
若い奉行の顔で。
この世界に来て、初めての深い、深い、心の底からの、満足のため息を、ついた。
(……生き返る)
執務室の外では。
「……な、なんか、もの凄く、変ないい匂いがしませんか?」
「(しーっ! 毒の香りだ! 蘭、吸うんじゃねえ!)」
蘭と雪之丞が、襖の向こうの「仁王様」の時間に、ただただ怯えているのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

幻影の艦隊

竹本田重朗
歴史・時代
「ワレ幻影艦隊ナリ。コレヨリ貴軍ヒイテハ大日本帝国ヲタスケン」 ミッドウェー海戦より史実の道を踏み外す。第一機動艦隊が空襲を受けるところで謎の艦隊が出現した。彼らは発光信号を送ってくると直ちに行動を開始する。それは日本が歩むだろう破滅と没落の道を栄光へ修正する神の見えざる手だ。必要な時に現れては助けてくれるが戦いが終わるとフッと消えていく。幻たちは陸軍から内地まで至る所に浸透して修正を開始した。 ※何度おなじ話を書くんだと思われますがご容赦ください ※案の定、色々とツッコミどころ多いですが御愛嬌

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...