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EP 30
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『夜鷹そばと、竹の水筒』
相模屋が裁かれてから、数日が過ぎた。
江戸の空は、全てを洗い流したかのように、高く、青く澄み渡っていた。
秋晴れの日。日本橋のたもとは、ささやかな祝言(しゅうげん)の行列を見送る人々で、賑(にぎ)わっていた。
「……きれいだねえ」
「ああ、あの『菊の屋』の娘さんだろ? 御家人のところに嫁ぐんだってさ」
白無垢(しろむく)姿の菊乃が、紋付袴(もんつきはかま)の真壁源三郎に、そっと寄り添っている。
あの日、土間で泣き崩れていた彼女の顔には、もう何の影(かげ)もなかった。
過去の恐怖から解放され、守るべき夫を得た、「日向(ひなた)」の女の笑顔だった。
その行列を、少し離れた橋の柱の陰で、一人の男が、ただじっと見つめていた。
秋元雪之丞だった。
同心の格好ではなく、いつものヨレた着流し姿で。
(……菊乃さん)
雪之丞は、ヤケ酒をあおるでもなく、煙管(キセル)をふかすでもなく、ただ静かに、その光景を目に焼き付けていた。
(……あんたには、そっちがよく似合ってる)
(……俺みてえな半端者(はんぱもん)じゃなく、あの真っ直ぐな侍が、あんたには似合いだ)
行列が角を曲がり、菊乃の白無垢姿が見えなくなる。
「…………」
(……達者でな)
雪之丞は、誰にも聞こえない声でそう呟くと、人々に紛れ、静かに踵(きびす)を返した。
彼の、長く、熱い「仕事」が終わった。
その夜。
『宵闇(よいやみ)そば』の暖簾(のれん)をくぐると、隅の席で、雪之丞が、すでに出来上がっていた。
一人、ヤケ酒をあおっている。
「……へっ。みっともねえぜ、雪の旦那」
カウンターの向こうで、店主の喜助が、皮肉たっぷりに蕎麦(そば)を湯切りしている。
「惚れた女が、別の男に嫁いだ酒は、苦いかい?」
「……うるせえ」
雪之丞が、ぐでん、と顔を上げる。
「……苦いのは、テメエの蕎麦つゆだ……。酒持ってこい、喜助……」
「はいはい。ツケは溜まってんぜ」
カラリ。
その時、無遠慮に、また店の戸が開いた。
こんな夜更けに、面倒な客か、と喜助が顔をしかめる。
入ってきたのは、「真さん」こと、坂上真一だった。
「……お」
喜助が、珍しく目を丸くした。
「今日は『仁王様』のご来店かい。あんたも、こいつのヤケ酒に付き合いに?」
雪之丞も、赤い目で、ろれつの回らない口調で上司を見上げた。
「……げ。ご、御奉行……さま……」
坂上は、何も言わなかった。
ただ、どっかりと、雪之丞の真向かいの席に腰を下ろした。
「……あ?」
雪之丞が、訝(いぶか)しげな顔をする。
「……御奉行様。ヤケ酒の部下を、笑いに来たんですかい……? あいにく、今日はもう、サボりませんぜ……」
「……」
坂上は、雪之丞の戯言(たわごと)を無視すると、喜助に向かって、無言で指を二本立てた。
「……酒」
「へい」
喜助が、面白そうに熱燗(あつかん)の徳利(とっくり)と、猪口(ちょこ)を二つ持ってくる。
坂上は、まず、懐(ふところ)から、いつもの『竹製保温機能付き水筒』を取り出し、ドン、と机の真ん中に置いた。
(……やっぱり、そっち(コーヒー)飲むんじゃねえか)
雪之丞が、そう思った、次の瞬間。
坂上は、その水筒には一切触れず、
喜助が出してきた「熱燗」の徳利を無言で掴むと、雪之丞の空の猪口に、なみなみと酒を注いだ。
そして、自分の猪口にも酒を注ぐと、それを、雪之丞の前に、差し出した。
「……雪之丞」
「……?」
雪之丞が、キョトンと、その猪口と坂上の顔を見比べる。
坂上は、いつもの冷たい指揮官の顔のまま、
ただ、一言だけ、静かに告げた。
「――任務完了(ミッション・コンプリート)、ご苦労だった」
「…………」
雪之丞は、一瞬、時が止まったように、坂上を見つめた。
(……この、クソ真面目な上司は)
(……わざわざ、俺に『お疲れ様』って、言いに来たのかよ)
次の瞬間、雪之丞の口元から、フッ、と力が抜けた。
あの「ダメ男」の笑顔が、少しだけ、戻っていた。
「……へへ」
「……あんたの、その黒くて苦い酒(コーヒー)より」
雪之丞は、自分の猪口を手に取ると、坂上の猪口に、それを合わせた。
「――そっちの熱い酒(サケ)の方が、今夜は、よっぽど美味そうですや」
カチン。
秋の夜の蕎麦屋に、二人の男の猪口がぶつかる、小さく、乾いた音が響いた。
相模屋が裁かれてから、数日が過ぎた。
江戸の空は、全てを洗い流したかのように、高く、青く澄み渡っていた。
秋晴れの日。日本橋のたもとは、ささやかな祝言(しゅうげん)の行列を見送る人々で、賑(にぎ)わっていた。
「……きれいだねえ」
「ああ、あの『菊の屋』の娘さんだろ? 御家人のところに嫁ぐんだってさ」
白無垢(しろむく)姿の菊乃が、紋付袴(もんつきはかま)の真壁源三郎に、そっと寄り添っている。
あの日、土間で泣き崩れていた彼女の顔には、もう何の影(かげ)もなかった。
過去の恐怖から解放され、守るべき夫を得た、「日向(ひなた)」の女の笑顔だった。
その行列を、少し離れた橋の柱の陰で、一人の男が、ただじっと見つめていた。
秋元雪之丞だった。
同心の格好ではなく、いつものヨレた着流し姿で。
(……菊乃さん)
雪之丞は、ヤケ酒をあおるでもなく、煙管(キセル)をふかすでもなく、ただ静かに、その光景を目に焼き付けていた。
(……あんたには、そっちがよく似合ってる)
(……俺みてえな半端者(はんぱもん)じゃなく、あの真っ直ぐな侍が、あんたには似合いだ)
行列が角を曲がり、菊乃の白無垢姿が見えなくなる。
「…………」
(……達者でな)
雪之丞は、誰にも聞こえない声でそう呟くと、人々に紛れ、静かに踵(きびす)を返した。
彼の、長く、熱い「仕事」が終わった。
その夜。
『宵闇(よいやみ)そば』の暖簾(のれん)をくぐると、隅の席で、雪之丞が、すでに出来上がっていた。
一人、ヤケ酒をあおっている。
「……へっ。みっともねえぜ、雪の旦那」
カウンターの向こうで、店主の喜助が、皮肉たっぷりに蕎麦(そば)を湯切りしている。
「惚れた女が、別の男に嫁いだ酒は、苦いかい?」
「……うるせえ」
雪之丞が、ぐでん、と顔を上げる。
「……苦いのは、テメエの蕎麦つゆだ……。酒持ってこい、喜助……」
「はいはい。ツケは溜まってんぜ」
カラリ。
その時、無遠慮に、また店の戸が開いた。
こんな夜更けに、面倒な客か、と喜助が顔をしかめる。
入ってきたのは、「真さん」こと、坂上真一だった。
「……お」
喜助が、珍しく目を丸くした。
「今日は『仁王様』のご来店かい。あんたも、こいつのヤケ酒に付き合いに?」
雪之丞も、赤い目で、ろれつの回らない口調で上司を見上げた。
「……げ。ご、御奉行……さま……」
坂上は、何も言わなかった。
ただ、どっかりと、雪之丞の真向かいの席に腰を下ろした。
「……あ?」
雪之丞が、訝(いぶか)しげな顔をする。
「……御奉行様。ヤケ酒の部下を、笑いに来たんですかい……? あいにく、今日はもう、サボりませんぜ……」
「……」
坂上は、雪之丞の戯言(たわごと)を無視すると、喜助に向かって、無言で指を二本立てた。
「……酒」
「へい」
喜助が、面白そうに熱燗(あつかん)の徳利(とっくり)と、猪口(ちょこ)を二つ持ってくる。
坂上は、まず、懐(ふところ)から、いつもの『竹製保温機能付き水筒』を取り出し、ドン、と机の真ん中に置いた。
(……やっぱり、そっち(コーヒー)飲むんじゃねえか)
雪之丞が、そう思った、次の瞬間。
坂上は、その水筒には一切触れず、
喜助が出してきた「熱燗」の徳利を無言で掴むと、雪之丞の空の猪口に、なみなみと酒を注いだ。
そして、自分の猪口にも酒を注ぐと、それを、雪之丞の前に、差し出した。
「……雪之丞」
「……?」
雪之丞が、キョトンと、その猪口と坂上の顔を見比べる。
坂上は、いつもの冷たい指揮官の顔のまま、
ただ、一言だけ、静かに告げた。
「――任務完了(ミッション・コンプリート)、ご苦労だった」
「…………」
雪之丞は、一瞬、時が止まったように、坂上を見つめた。
(……この、クソ真面目な上司は)
(……わざわざ、俺に『お疲れ様』って、言いに来たのかよ)
次の瞬間、雪之丞の口元から、フッ、と力が抜けた。
あの「ダメ男」の笑顔が、少しだけ、戻っていた。
「……へへ」
「……あんたの、その黒くて苦い酒(コーヒー)より」
雪之丞は、自分の猪口を手に取ると、坂上の猪口に、それを合わせた。
「――そっちの熱い酒(サケ)の方が、今夜は、よっぽど美味そうですや」
カチン。
秋の夜の蕎麦屋に、二人の男の猪口がぶつかる、小さく、乾いた音が響いた。
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