『一佐の裁き(いっさのさばき) 〜イージス艦長(50)、江戸北町奉行(25)に成り代わる〜』

月神世一

文字の大きさ
31 / 70

EP 31

しおりを挟む
『井戸端の噂と、弟分の熱意』
「――でねえ、蘭ちゃんや」
神田(かんだ)の裏長屋、その共同井戸の周り。
岡っ引き・早乙女蘭(さおとめ らん)の「情報網(ネットワーク)」が、今日も活発に稼働していた。
「あそこの角の、八百屋の『おカネ』さんとこの坊やがさ。風邪(かぜ)こじらせて、寝込んじまってねえ」
「あらまあ。この時期はしょうがねえね」
「それがさ。どうも、ただの風邪じゃねえらしくて……」
蘭は、差し入れの(安物の)煎餅(せんべい)をバリバリと齧(かじ)りながら、世間話に相槌(あいづち)を打つフリをして、その会話に神経を集中させていた。
「……なんでも、あの日本橋(にほんばし)の、立派な薬屋の『越後屋(えちごや)』で買った薬を飲ませたら、かえって熱が上がっちまった、って話さ」
「ええ!? あの『越後屋』様の?」
(……越後屋……)
蘭は、その名を記憶に刻んだ。
確かに、このところ「子供の風邪が治らない」という話を、別の長屋でも二、三、耳にしていた。
「まあ、薬が合わなかっただけかもしれねえけどねえ」
「そうだ、そうだ」
井戸端会議は、すぐに別の話題(姑の悪口)へと移っていく。
(……ただの噂、かねえ……)
蘭は、煎餅の最後の一枚を口に放り込むと、「じゃあ、また来るよ!」と、元気よく長屋を後にした。
胸の奥で、岡っ引きとしての「勘」が、小さく、チリッと音を立てていた。
その日の午後。
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の道場では、汗臭い怒声が響いていた。
「――そこだ! 隙あり!」
「うおっ!」
竹刀を弾き飛ばされ、尻餅(しりもち)をついたのは、この道場の師範(しはん)の息子、青田赤太(あおた あかた)(14)だった。
「……ぜえ、ぜえ……」
「赤太! 集中せんか!」
師範である父の、雷のような叱責(しっせき)が飛ぶ。
「貴様は、あのお方(かた)――坂上様のような、免許皆伝(めんきょかいでん)の剣士になるのではなかったのか!」
「……う、うるせえ! 分かってるよ!」
赤太は、坂上真一(奉行)が、この道場に(父の懇願で)立ち寄り、木刀の一振りで門下生全員を黙らせて以来、彼を「神」のように崇(あが)めていた。
(……クソッ。真さん(坂上)なら、今の一撃、見切ってた……!)
赤太が、悔しそうに立ち上がろうとした、その時。
「――師範! 大変です!」
道場の門下生の一人が、顔面蒼白(そうはく)で道場に転がり込んできた。
「どうした、騒々しい!」
「……タ、タケ坊が……! タケ坊が、倒れました!」
「なに!?」
赤太も、ギョッとして振り向いた。タケ坊は、赤太の一番の親友であり、ライバルだった。
「……さっきまで、一緒に素振りしてたのに……。急に熱出して……」
「馬鹿者! 医者は!」
「呼びました! ……それと、おっ母(かあ)さんが、タケ坊に、これを飲ませたって……」
門下生が、震える手で差し出したのは、立派な包み紙だった。
そこには、墨(すみ)も鮮やかに、こう書かれていた。
『幕府御用達(ごようたし) 越後屋 特製風邪薬』
「……『越後屋』……!」
赤太の脳裏に、数日前に聞いた、あの井戸端の「噂」が、稲妻のように蘇(よみがえ)った。
夕暮れ。
蘭が、いつものように『菊の屋』(今は、菊乃の遠縁の老婆が切り盛りしている)の跡地で団子を頬張っていると、
道の向こうから、凄(すさ)まじい形相の赤太が、竹刀(しない)を握りしめて走ってきた。
「蘭姉(ね)え!!」
「うおっ!? なんだい赤太、団子の匂いでも嗅(か)ぎつけたか?」
「それどころじゃねえ!」
赤太は、息も絶え絶えに、タケ坊が倒れたこと、そして、その原因が『越後屋』の薬かもしれないことを、一気にまくし立てた。
「……なんだって?」
蘭の顔から、笑顔が消えた。
井戸端の「噂」が、目の前の「現実」になった瞬間だった。
赤太は、悔しさと怒りで、竹刀の柄(つか)をギリギリと握りしめる。
「……俺、許せねえ!」
「お、おい、赤太?」
「タケ坊は、俺と、真さん(坂上)みたいに、江戸の悪を斬るって、約束したんだ!」
「そのタケ坊が、こんな……こんな薬で……!」
「俺が、今から『越後屋』に乗り込んで、問いただしてやる!」
「――待て、馬鹿!」
竹刀を担ぎ、今にも走り出そうとする赤太の襟首(えりくび)を、蘭が後ろから、ガシッと掴(つか)み上げた。
「ぐえっ!」
「……てめえは、ガキか!」
「ガキだ!」
「アタシもそう思うよ!」
蘭は、赤太を睨(にら)みつけた。その目は、もう団子を食べていた町娘のものではなかった。
「……いいか、赤太。そいつが『本物』の悪党なら、竹刀一本でどうにかなる相手じゃねえ」
「で、でも!」
蘭は、懐(ふところ)から、自前の鉄の小尺(こしゃく:岡っ引きの道具)を取り出し、ジャキ、と音を立てた。
彼女の「誇り」に、火が点(つ)いていた。
「……これは、アタシの『仕事(しごと)』だ」
「……お前みたいなガキの出番じゃねえ。……引っ込んでな」
そう言い放つ蘭の横顔は、赤太が憧れる「真さん(坂上)」のように、少しだけ、厳しく、格好良く見えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

幻影の艦隊

竹本田重朗
歴史・時代
「ワレ幻影艦隊ナリ。コレヨリ貴軍ヒイテハ大日本帝国ヲタスケン」 ミッドウェー海戦より史実の道を踏み外す。第一機動艦隊が空襲を受けるところで謎の艦隊が出現した。彼らは発光信号を送ってくると直ちに行動を開始する。それは日本が歩むだろう破滅と没落の道を栄光へ修正する神の見えざる手だ。必要な時に現れては助けてくれるが戦いが終わるとフッと消えていく。幻たちは陸軍から内地まで至る所に浸透して修正を開始した。 ※何度おなじ話を書くんだと思われますがご容赦ください ※案の定、色々とツッコミどころ多いですが御愛嬌

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...