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EP 49
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『お白洲、仁王の詰み(チェックメイト)』
北町奉行所、お白洲。
秋の乾いた風が吹き抜ける中、砂利の上に引き据えられたのは、深川の阿片工場で捕縛された浪人(水野家家臣)と、賭場の元締め・辰五郎たちだった。
上段の間には、奉行・坂上真一。
そして、その傍らには、異例のことだが、「家臣の不始末を見届ける」という名目で、謹慎中の身でありながら水野忠邦が特別に座を占めていた。
水野の目は、捕縛された家臣に「余計なことを言えば、分かっているな」という無言の圧力をかけ続けていた。
「……面(おもて)を上げよ」
坂上の静かな声が響く。
「……深川の土蔵にて、禁制の阿片『極楽丸』を製造し、田沼家の刻印を用いて偽装工作を行った罪。……申し開きはあるか」
浪人が、決死の形相で顔を上げた。
水野との事前の打ち合わせ通り、彼は叫んだ。
「……我らの一存ではございませぬ! 全ては、田沼意次様の……裏からの指示で!」
お白洲がざわめく。
水野が、扇子で口元を隠し、微かに口角を上げた。
(……良いぞ。あくまで田沼のせいにし、泥仕合に持ち込めば、私の傷は浅くなる)
「……ほう」
坂上は、眉一つ動かさなかった。
「……田沼殿の指示、と申すか」
「さ、左様! 我らは田沼様に利用されただけ……!」
「――そうか」
坂上は、手元の書類に視線を落としたまま、淡々と告げた。
「……時に、其の方(そのほう)。本郷(ほんごう)にある其の方の屋敷には、病弱な妻と、幼い娘がおったな」
「……ッ!?」
浪人の顔色が、一瞬で蒼白になった。
水野の目が、鋭く細められる。
「……安心しろ。人質に取ったわけではない」
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
「……昨夜、我が配下の者(喜助)を使い、二人を安全な場所へ移した」
「な……」
「……『口封じ』を恐れてな。……主家を守るためなら、妻子諸共(もろとも)消そうとする……そんな『冷酷な影』から守るためにな」
「……!」
浪人の視線が、泳いだ。
彼は知っていた。主君・水野忠邦の「正義」のためなら、末端の犠牲など厭わない非情さを。もし自分が捕まれば、家族ごと消される可能性があったことを。
それを、目の前の「鬼奉行」が、救ったというのか。
坂上は、浪人の目を真っ直ぐに見据えた。
「……取引はしない。罪は罪として裁く」
「……だが、嘘をつき通して死ねば、お前の家族は『大罪人の身内』として、一生後ろ指を指されるぞ」
「……真実を語り、武士として腹を切れば……せめて家族の『誇り』は守れる」
「……選べ。誰のための『忠義』か」
浪人は、震え出した。
そして、その目から涙が溢れた。
彼は、水野の方を見ることはなかった。ただ、地面に額を擦り付けた。
「……申し訳……ございませぬ……!」
「……田沼様の名を騙(かた)ったのは……某(それがし)の独断! 功を焦ってのことにございます……!」
彼は、水野の名は出さなかった。それが、武士としての最後の線引きだった。
だが、「田沼の指示」という嘘は撤回した。
これで、水野が描いた「田沼黒幕説」というシナリオは、完全に崩壊した。
「……チッ」
水野が、扇子を強く握りしめる音が、静寂に響いた。
「……あい分かった」
坂上は、頷いた。
「……誰が指示したかは、もはや問わぬ」
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、お白洲の空気が変わった。
温度が、下がったような錯覚。
「……貴様らが犯した罪。それは、政争の道具として、何の罪もない江戸の民に『毒』を撒いたことだ」
「……その罪は、誰の命令であろうと、決して許されるものではない」
バサリ。
坂上は、奉行の衣を脱ぎ捨てた。
秋の日差しの中に、怒りの形相を湛えた『仁王』が、鮮烈に浮かび上がる。
「ひっ……!」
浪人たちが、その威圧感に息を呑む。
「――ようく見ろ!」
坂上の怒号が、お白洲を揺るがした。
「この"仁王の目"(まなこ)は、全てお見通しだ!」
「貴様らの所業(しょぎょう)も!」
「貴様らが撒いた毒の苦しみも!」
そして、仁王(坂上)は、ギロリと、横に座る水野忠邦を睨みつけた。
「――そして、貴様らの背後に立つ、『黒い影』もろともな!!」
「……ッ!!」
水野は、その眼光に射抜かれ、思わず腰を浮かせた。
(……こ、この男……!)
(……私を、見ているのか……!)
(……全てを知った上で、私を『詰み』に追い込んだというのか……!)
水野の背中に、冷たい汗が伝う。
彼は悟った。この男は、単なる奉行ではない。
自分の「正義」すらも見透かし、ねじ伏せる、本物の「怪物」だと。
坂上は、水野から視線を外し、罪人たちに宣告した。
「――市中引き回しの上、打首(うちくび)獄門(ごくもん)に処す!」
「――あの世で、毒に苦しんだ民たちに、詫び続けろ!!」
「……は、ははーっ!!」
浪人は、憑き物が落ちたような顔で、深く頭を垂れた。
「……失礼する」
水野は、逃げるように席を立った。
その足取りは、いつもの傲慢さを失い、微かに乱れていた。
坂上は、その背中を見送ることなく、再び奉行の衣を羽織った。
盤上の勝負はついた。
だが、江戸という盤面には、まだ多くの火種が燻(くすぶ)っている。
(……だが、今は)
坂上は、青空を見上げた。
(……これで、一区切りだ)
北町奉行所、お白洲。
秋の乾いた風が吹き抜ける中、砂利の上に引き据えられたのは、深川の阿片工場で捕縛された浪人(水野家家臣)と、賭場の元締め・辰五郎たちだった。
上段の間には、奉行・坂上真一。
そして、その傍らには、異例のことだが、「家臣の不始末を見届ける」という名目で、謹慎中の身でありながら水野忠邦が特別に座を占めていた。
水野の目は、捕縛された家臣に「余計なことを言えば、分かっているな」という無言の圧力をかけ続けていた。
「……面(おもて)を上げよ」
坂上の静かな声が響く。
「……深川の土蔵にて、禁制の阿片『極楽丸』を製造し、田沼家の刻印を用いて偽装工作を行った罪。……申し開きはあるか」
浪人が、決死の形相で顔を上げた。
水野との事前の打ち合わせ通り、彼は叫んだ。
「……我らの一存ではございませぬ! 全ては、田沼意次様の……裏からの指示で!」
お白洲がざわめく。
水野が、扇子で口元を隠し、微かに口角を上げた。
(……良いぞ。あくまで田沼のせいにし、泥仕合に持ち込めば、私の傷は浅くなる)
「……ほう」
坂上は、眉一つ動かさなかった。
「……田沼殿の指示、と申すか」
「さ、左様! 我らは田沼様に利用されただけ……!」
「――そうか」
坂上は、手元の書類に視線を落としたまま、淡々と告げた。
「……時に、其の方(そのほう)。本郷(ほんごう)にある其の方の屋敷には、病弱な妻と、幼い娘がおったな」
「……ッ!?」
浪人の顔色が、一瞬で蒼白になった。
水野の目が、鋭く細められる。
「……安心しろ。人質に取ったわけではない」
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
「……昨夜、我が配下の者(喜助)を使い、二人を安全な場所へ移した」
「な……」
「……『口封じ』を恐れてな。……主家を守るためなら、妻子諸共(もろとも)消そうとする……そんな『冷酷な影』から守るためにな」
「……!」
浪人の視線が、泳いだ。
彼は知っていた。主君・水野忠邦の「正義」のためなら、末端の犠牲など厭わない非情さを。もし自分が捕まれば、家族ごと消される可能性があったことを。
それを、目の前の「鬼奉行」が、救ったというのか。
坂上は、浪人の目を真っ直ぐに見据えた。
「……取引はしない。罪は罪として裁く」
「……だが、嘘をつき通して死ねば、お前の家族は『大罪人の身内』として、一生後ろ指を指されるぞ」
「……真実を語り、武士として腹を切れば……せめて家族の『誇り』は守れる」
「……選べ。誰のための『忠義』か」
浪人は、震え出した。
そして、その目から涙が溢れた。
彼は、水野の方を見ることはなかった。ただ、地面に額を擦り付けた。
「……申し訳……ございませぬ……!」
「……田沼様の名を騙(かた)ったのは……某(それがし)の独断! 功を焦ってのことにございます……!」
彼は、水野の名は出さなかった。それが、武士としての最後の線引きだった。
だが、「田沼の指示」という嘘は撤回した。
これで、水野が描いた「田沼黒幕説」というシナリオは、完全に崩壊した。
「……チッ」
水野が、扇子を強く握りしめる音が、静寂に響いた。
「……あい分かった」
坂上は、頷いた。
「……誰が指示したかは、もはや問わぬ」
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、お白洲の空気が変わった。
温度が、下がったような錯覚。
「……貴様らが犯した罪。それは、政争の道具として、何の罪もない江戸の民に『毒』を撒いたことだ」
「……その罪は、誰の命令であろうと、決して許されるものではない」
バサリ。
坂上は、奉行の衣を脱ぎ捨てた。
秋の日差しの中に、怒りの形相を湛えた『仁王』が、鮮烈に浮かび上がる。
「ひっ……!」
浪人たちが、その威圧感に息を呑む。
「――ようく見ろ!」
坂上の怒号が、お白洲を揺るがした。
「この"仁王の目"(まなこ)は、全てお見通しだ!」
「貴様らの所業(しょぎょう)も!」
「貴様らが撒いた毒の苦しみも!」
そして、仁王(坂上)は、ギロリと、横に座る水野忠邦を睨みつけた。
「――そして、貴様らの背後に立つ、『黒い影』もろともな!!」
「……ッ!!」
水野は、その眼光に射抜かれ、思わず腰を浮かせた。
(……こ、この男……!)
(……私を、見ているのか……!)
(……全てを知った上で、私を『詰み』に追い込んだというのか……!)
水野の背中に、冷たい汗が伝う。
彼は悟った。この男は、単なる奉行ではない。
自分の「正義」すらも見透かし、ねじ伏せる、本物の「怪物」だと。
坂上は、水野から視線を外し、罪人たちに宣告した。
「――市中引き回しの上、打首(うちくび)獄門(ごくもん)に処す!」
「――あの世で、毒に苦しんだ民たちに、詫び続けろ!!」
「……は、ははーっ!!」
浪人は、憑き物が落ちたような顔で、深く頭を垂れた。
「……失礼する」
水野は、逃げるように席を立った。
その足取りは、いつもの傲慢さを失い、微かに乱れていた。
坂上は、その背中を見送ることなく、再び奉行の衣を羽織った。
盤上の勝負はついた。
だが、江戸という盤面には、まだ多くの火種が燻(くすぶ)っている。
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