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EP 7
しおりを挟む運命の会見(問題発生)
翌日。昭和10年8月7日、陸軍省。
会見室は、蒸し暑い空気と、淀んだタバコの煙で満たされていた。
早乙女薫は、部屋の隅に置かれたタイピスト席で、指を慣らしながら、この「精神論の製造工場」を冷ややかに見つめていた。
(……今日も始まる)
父を追いやった「時局」という名の非合理が、ここで「公式見解」として製造され、目の前の記者たちによって「事実」として全国にばら撒かれる。
彼女は、昨日から何度も確認している出席者リストに、再び目を落とした。
【帝都日報 経済部 坂上 真一】
(……本当に、来るのかしら)
工場で「魂はバグだ」と言い放った男。
昨日、編集局の業務を「魔改造」したと、彼女が持つ新聞社内部の(ささやかな)情報網が伝えてきた男。
記者たちが、ぞろぞろと入室してくる。
皆、同じような顔をしている。
退屈そうだ。だが、軍部の機嫌を損ねまいと、顔には適度な緊張を貼り付けている。
その時、一人の男が、ふらり、と入ってきた。
薫は、目を奪われた。
(……あの人)
他の記者とは、明らかに「空気」が違った。
Yシャツは昨日よりさらにシワが寄っている。だが、その姿勢は、だらしないどころか、一本の鋼鉄が通っているように見えた。
何より、目が違った。
スクープを探す、ギラギラした目ではない。
品定めをするような、冷徹な、まるで査察官か医者が患者を診るような「分析」の目だった。
坂上は、最前列には向かわなかった。
彼は、部屋全体を見渡せる、最後列の隅に、音もなく席を取った。
そして、腕を組んだ。
(この拠点が、感染源(ソース)か)
坂上は、この非効率なレイアウトの会見室を、イージス艦のCIC(戦闘指揮所)から敵の司令部を分析するように観察していた。
(照明、暗し。換気、劣悪。情報伝達、一方通行(ワンウェイ)。典型的な『非合理』の温床だ)
やがて、部屋の空気が張り詰めた。
「気をつけ!」
号令と共に、制服の軍人たちが入室する。
その中央には、昨日、浅川精工の宮坂が恐れていた男――陸軍参謀本部所属、川上鷹司(かわかみ たかじ)中佐がいた。
川上は、いかにも「精神論の権化」といった、傲岸(ごうがん)な顔つきで席に着いた。
薫は、この男の言葉を、もう何十回もタイプしてきた。
「諸君、ご苦労」
川上が、芝居がかったように咳払いをした。
「本日は、北支における、我が皇軍の赫々(かっかく)たる戦果について報告する」
記者たちの鉛筆が、一斉に走り出す。
薫も、タイプライターに指を置いた。
「……先の小競り合いにおいて、我が勇猛なる一個小隊は、物量に勝る敵兵一個中隊を、敢然と撃破した! これぞ、我が皇軍兵士の『不屈の精神力』が、軟弱な敵兵の『物量』を凌駕した証である!」
「おお……」と、前列の記者から、わざとらしい感嘆の声が漏れる。
坂上は、その報告を、無表情で聞いていた。
(……一個小隊で、一個中隊を?)
(あり得ない。戦術的に破綻している)
(もし事実なら、敵側がよほど無能か、あるいは……)
彼の脳が、瞬時にシミュレーションを開始する。
(敵の損失データは? こちらの損失データは? 弾薬の消費量は? 兵站は?)
だが、川上の口から出てくるのは、
「……一騎当千の働き」
「……聖戦の礎」
「……皇軍の魂」
といった、データゼロ、抽象度100の「精神論」のオンパレードだった。
ガリッ。
坂上が、ポケットの黒飴を噛み砕く音だけが、やけに大きく響いた。
不味いコーヒー。1円20銭のキャンディ。非効率な職場。非合理な工場。
そして今、目の前で行われている、この国の「中枢」による、壮大な「自己満足(マスターベーション)」。
坂上の蓄積された「非効率」へのストレスが、ついに臨界点に達しようとしていた。
川上は、満足げに報告を終えると、尊大に言い放った。
「……以上だ。何か、質問は?」
会見場は、シーンと静まり返った。
いつものことだ。ここで「精神力」に疑義を挟むような「非国民」はいない。
薫が、この無意味な会見の終わりを予感し、タイプする指を止めようとした、その時。
スッ。
最後列の隅で、一本の腕が、真っ直ぐに挙がった。
まるで、鋭利な刃物のように。
会見場の全員の視線が、その腕の主――帝都日報・坂上真一に集中した。
川上鷹司が、不機嫌そうに眉をひそめる。
早乙女薫は、息を呑んだ。
(……始まった)
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