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第二章 軍法
EP 19
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二人の「指揮官」
午前九時五十二分。
帝国ホテルのロビーは、特高警察の怒号、記者たちの閃光、そして陸海軍の警備兵が「上官を守れ!」と叫ぶ声が入り混じった、完全な「カオス(混沌)」に陥っていた。
坂上真一は、そのカオス(混沌)の中心で、大理石の床に冷たく押さえつけられていた。
彼の手から万年筆が転がり落ちる。
だが、彼の手は、すでに空だった。
「爆弾」は、目標(ターゲット)の手に渡った。
「作戦完了(ミッション・コンプリート)」だ。
「連行しろ! 官邸に連れて行け!」
特高の指揮官が叫ぶ。
数人の警官が、坂上を乱暴に引きずり起こし、パニックで道を開ける記者たちの間を突っ切って、玄関へと連行していく。
その、瞬間だった。
「――待てッ!」
川上鷹司中佐が、その特高たちの前に、立ちはだかった。
彼の顔は、怒りか屈辱か、もはや判別もつかないほどに歪んでいた。
「その男は、ただの思想犯ではない!
北支の軍規を乱した、陸軍の『反逆者』だ!
身柄は、憲兵隊に引き渡してもらう!」
川上は、この場で、坂上を「処理」するつもりだった。
「何を言うか!」
特高の指揮官も引かない。
「こいつは、内務省の管轄だ! どけ!」
「陸軍の威信に関わる!」
「警察の管轄だ!」
ロビーのど真ん中で、陸軍と警察(特高)が、一人の「飼い殺し」の記者を巡って、醜い縄張り争いを始めた。
(……非効率の極みだ)
坂上は、腕を捻り上げられたまま、冷たく呟いた。
「――みっともない」
その、静かな声は、川上の怒号よりも、特高の恫喝よりも、強く、その場を支配した。
全員が、ハッとして、声の主を見た。
山本五十六だった。
彼は、この「カオス(混沌)」の中で、ただ一人、冷静に佇んでいた。
その手には、場違いなほど古く、埃っぽい『蚕糸業統計報告書』が、確と握られていた。
「……山本閣下」
特高の指揮官が、一瞬、怯んだ。
「川上中佐」
山本は、宿敵である陸軍の男に、静かに語りかけた。
「貴官の『管理能力』の欠如が、内務省の諸君を、我々の『会議』の場にまで出張させた。
……そう、認識して、よろしいかな?」
「なっ……!」
川上は、顔を真赤にした。
山本は、この「騒ぎ」の全ての責任を、坂上を管理しきれなかった川上に、擦りつけたのだ。
「そして、特高の諸君」
山本は、警察官たちに向き直った。
「その男は、今、私に『接触』しようとした」
「……!」
「彼が『反逆者』であるならば、私(海軍次官)は、国家転覆の『対象』にされたことになる」
山本は、手の中の『蚕糸業統計報告書』を、軽く叩いた。
「この『証拠物件』は、海軍省が、責任を持って預かる」
「そ、それは、困ります!」
「川上中佐も、異存はあるまい」
山本は、川上に、拒否できない「視線」を送った。
「陸軍の『反逆者』が、海軍次官に渡そうとした『証拠』だ。
……陸軍だけで処理されては、我々の『面子』が立たん」
それは、完璧な「政治」の論理だった。
川上は、特高と記者たちの前で、自分の「獲物」と「証拠」を、同時に山本に強奪されたことを、悟った。
彼は、屈辱に、唇から血が出るほど、噛み締めた。
「……会議は、流会だ」
山本は、この「カオス(混沌)」に、結論を下した。
「側近、帰るぞ。……特高の諸君、その男の『処遇』については、後ほど、省を通して正式に照会する」
山本は、川上にも、連行されていく坂上にも、もはや一瞥もくれず、
ただ、手の中の「奇妙な本」だけを携え、
記者たちのフラッシュを浴びながら、悠然と、ホテルを去っていった。
柱の陰で、早乙女薫は、震えが止まらなかった。
坂上は、連れて行かれた。
だが、「爆弾」は、確実に、ターゲットの手に渡った。
午前九時五十二分。
帝国ホテルのロビーは、特高警察の怒号、記者たちの閃光、そして陸海軍の警備兵が「上官を守れ!」と叫ぶ声が入り混じった、完全な「カオス(混沌)」に陥っていた。
坂上真一は、そのカオス(混沌)の中心で、大理石の床に冷たく押さえつけられていた。
彼の手から万年筆が転がり落ちる。
だが、彼の手は、すでに空だった。
「爆弾」は、目標(ターゲット)の手に渡った。
「作戦完了(ミッション・コンプリート)」だ。
「連行しろ! 官邸に連れて行け!」
特高の指揮官が叫ぶ。
数人の警官が、坂上を乱暴に引きずり起こし、パニックで道を開ける記者たちの間を突っ切って、玄関へと連行していく。
その、瞬間だった。
「――待てッ!」
川上鷹司中佐が、その特高たちの前に、立ちはだかった。
彼の顔は、怒りか屈辱か、もはや判別もつかないほどに歪んでいた。
「その男は、ただの思想犯ではない!
北支の軍規を乱した、陸軍の『反逆者』だ!
身柄は、憲兵隊に引き渡してもらう!」
川上は、この場で、坂上を「処理」するつもりだった。
「何を言うか!」
特高の指揮官も引かない。
「こいつは、内務省の管轄だ! どけ!」
「陸軍の威信に関わる!」
「警察の管轄だ!」
ロビーのど真ん中で、陸軍と警察(特高)が、一人の「飼い殺し」の記者を巡って、醜い縄張り争いを始めた。
(……非効率の極みだ)
坂上は、腕を捻り上げられたまま、冷たく呟いた。
「――みっともない」
その、静かな声は、川上の怒号よりも、特高の恫喝よりも、強く、その場を支配した。
全員が、ハッとして、声の主を見た。
山本五十六だった。
彼は、この「カオス(混沌)」の中で、ただ一人、冷静に佇んでいた。
その手には、場違いなほど古く、埃っぽい『蚕糸業統計報告書』が、確と握られていた。
「……山本閣下」
特高の指揮官が、一瞬、怯んだ。
「川上中佐」
山本は、宿敵である陸軍の男に、静かに語りかけた。
「貴官の『管理能力』の欠如が、内務省の諸君を、我々の『会議』の場にまで出張させた。
……そう、認識して、よろしいかな?」
「なっ……!」
川上は、顔を真赤にした。
山本は、この「騒ぎ」の全ての責任を、坂上を管理しきれなかった川上に、擦りつけたのだ。
「そして、特高の諸君」
山本は、警察官たちに向き直った。
「その男は、今、私に『接触』しようとした」
「……!」
「彼が『反逆者』であるならば、私(海軍次官)は、国家転覆の『対象』にされたことになる」
山本は、手の中の『蚕糸業統計報告書』を、軽く叩いた。
「この『証拠物件』は、海軍省が、責任を持って預かる」
「そ、それは、困ります!」
「川上中佐も、異存はあるまい」
山本は、川上に、拒否できない「視線」を送った。
「陸軍の『反逆者』が、海軍次官に渡そうとした『証拠』だ。
……陸軍だけで処理されては、我々の『面子』が立たん」
それは、完璧な「政治」の論理だった。
川上は、特高と記者たちの前で、自分の「獲物」と「証拠」を、同時に山本に強奪されたことを、悟った。
彼は、屈辱に、唇から血が出るほど、噛み締めた。
「……会議は、流会だ」
山本は、この「カオス(混沌)」に、結論を下した。
「側近、帰るぞ。……特高の諸君、その男の『処遇』については、後ほど、省を通して正式に照会する」
山本は、川上にも、連行されていく坂上にも、もはや一瞥もくれず、
ただ、手の中の「奇妙な本」だけを携え、
記者たちのフラッシュを浴びながら、悠然と、ホテルを去っていった。
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