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第二章 軍法
EP 26
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「共犯者」の移籍
陸軍省、経理課長室。
早乙女薫は、自分のデスクの私物を、小さな風呂敷にまとめていた。
周囲の視線が、針のように突き刺さる。
「スパイ容疑で特高にマークされた女」「川上中佐の逆鱗に触れた女」。
同僚たちの目は、汚物を見るような軽蔑と、関わりたくないという恐怖が混ざり合っていた。
(……私は、どうなるの?)
副官が去ってから数時間。
彼女は「待機」を命じられたまま、生きた心地がしなかった。
尋問は中止されたが、それは「赦免」を意味しない。
もっと恐ろしい場所――例えば、人知れず処分されるような施設への移送を待っているだけかもしれない。
「早乙女君」
課長が、震える声で呼んだ。
「……お迎えだ」
薫は、覚悟を決めて顔を上げた。
入り口に立っていたのは、憲兵でも、特高でもなかった。
紺色の、スマートな制服。
海軍の法務官だった。
「早乙女薫君ですね」
法務官は、陸軍の淀んだ空気とは無縁の、事務的かつ紳士的な口調で言った。
「本日付けで、君の身分は『陸軍省嘱託』から、『海軍省軍属』へと移管されました」
「……え?」
薫は、自分の耳を疑った。
「か、海軍……ですか?」
「はい。山本五十六次官の直々の発令です」
法務官は、一枚の辞令書を提示した。
そこには、確かに彼女の名前と、新しい所属が記されていた。
【海軍省 次官室付き 技術顧問補佐】
「……技術顧問、補佐?」
聞いたことのない役職だ。
「急いでください。車が待っています」
薫は、夢を見ているような気分で、陸軍省の廊下を歩いた。
すれ違う陸軍将校たちが、彼女を連れ出す海軍士官を、憎々しげに睨みつけている。
だが、誰も手出しはしなかった。
これは、組織と組織の「政治的決着」がついた結果なのだ。
正面玄関を出ると、黒塗りの海軍の公用車が待っていた。
法務官がドアを開ける。
薫は、恐る恐る後部座席に乗り込んだ。
そこには、先客がいた。
薄汚れた作業着ではなく、少しサイズが合わない地味なスーツを着て、不機嫌そうに腕組みをしている男。
「……遅い」
男は、薫を見るなり、開口一番に言った。
「移送手続きに45分。非効率なタイムラグだ」
「……!」
薫の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……坂上、さん……!」
「泣くな。水分と塩分の無駄な排出だ」
坂上真一は、生きていた。
あの帝国ホテルのカオスから、特高の独房を経て、今ここに、平然と座っていた。
「……生きて、らしたんですね」
「当たり前だ。俺が計算外の死に方をするわけがない」
坂上は、窓の外へ視線を逸らした。
「……君の『工作』のおかげでな」
それは、彼なりの、最大限の感謝の言葉だった。
薫は、涙を拭い、居住まいを正した。
「……どこへ行くのですか?」
「新天地だ」
坂上は、冷ややかに笑った。
「海軍が用意した、俺たちの新しい『戦場』だ」
第47話:掃き溜めの研究室
車が到着したのは、海軍省の煌びやかな庁舎……ではなかった。
海軍省から車で十分ほど離れた、築地の一角。
潮の匂いと、魚河岸の喧騒が混じる場所にある、赤レンガ造りの古びた倉庫だった。
「……ここですか?」
薫が、呆然と見上げる。
窓ガラスは割れ、ツタが絡まり、入り口の看板は錆びついて読めない。
「海軍技術研究所、分室……通称『掃き溜め』だ」
案内した海軍将校が、バツが悪そうに言った。
「次官からは『場所は何でもいいから、即座に用意しろ』と言われまして。空いていたのは、ここしか……」
「上等だ」
坂上は、スタスタと中へ入っていった。
中は、外見以上に酷かった。
埃の積もった床。雨漏りのシミがある天井。
そして、部屋の中央には、海軍の各所から集められたと思われる「ガラクタ」が、山のように積まれていた。
真空管の残骸。
切れた銅線。
使い古されたオシロスコープ。
実験に失敗して廃棄されたと思われる、謎の金属塊。
「……ひどい」
薫が絶句する。
「これが、海軍の『技術顧問』の職場ですか?」
「山本五十六との契約通りだ」
坂上は、そのガラクタの山を、宝の山でも見るような目で眺めた。
「『廃棄される予定の、非効率なリソースを全てよこせ』。俺はそう要求した」
彼は、山の中から一本の、奇妙な形をしたアンテナのような金属棒を引っ張り出した。
「……あった」
「それは?」
「八木・宇田アンテナの試作品だ。数年前に作られ、『役に立たん』と捨てられたものだ」
坂上は、その錆びたアンテナを愛おしそうに撫でた。
「薫君。掃除だ」
坂上は、スーツの上着を脱ぎ捨てた。
「まずは、この部屋を『CIC(戦闘指揮所)』として機能するように再構築する。
環境整備は、作業効率の基本だ」
「……はい!」
薫もまた、ワンピースの袖をまくり上げた。
陸軍省の清潔だが冷たいオフィスより、この埃だらけの倉庫の方が、遥かに「息ができる」場所だった。
二人は、黙々と掃除を始めた。
坂上が重い機材を運び、薫が床を掃き、窓を拭く。
「そこ、配置が非効率だ。机は中央にまとめろ」
「はいはい。……坂上さんこそ、そのスーツ、汚れますよ」
「構わん。どうせ拾ったものだ」
夕方になる頃には、倉庫は見違えるように整頓されていた。
中央には、ガラクタを組み合わせて作った巨大な作業台。
壁には、坂上がチョークで書き殴った、複雑な回路図と数式。
そして、部屋の隅には、薫が調達してきた七輪と、湯を沸かすヤカン。
「……よし」
坂上は、泥水のようなコーヒー(やはり海軍でも、コーヒーの味は改善されていなかった)を一口啜り、満足げに頷いた。
「ここからだ」
彼は、作業台の上の「八木アンテナ」を指差した。
「この『ゴミ』を使って、世界最強の『目』を作る」
その時、倉庫の錆びた扉が、ギィと音を立てて開いた。
「……ここかね? 物好きな『買い手』がついたというのは」
入ってきたのは、白衣を着た、二人の男だった。
一人は、ボサボサ髪の初老の男。もう一人は、神経質そうな眼鏡の男。
彼らの手には、風呂敷に包まれた、分厚い設計図と文献が抱えられていた。
坂上は、彼らを見て、ニヤリと笑った。
「待っていたぞ」
陸軍省、経理課長室。
早乙女薫は、自分のデスクの私物を、小さな風呂敷にまとめていた。
周囲の視線が、針のように突き刺さる。
「スパイ容疑で特高にマークされた女」「川上中佐の逆鱗に触れた女」。
同僚たちの目は、汚物を見るような軽蔑と、関わりたくないという恐怖が混ざり合っていた。
(……私は、どうなるの?)
副官が去ってから数時間。
彼女は「待機」を命じられたまま、生きた心地がしなかった。
尋問は中止されたが、それは「赦免」を意味しない。
もっと恐ろしい場所――例えば、人知れず処分されるような施設への移送を待っているだけかもしれない。
「早乙女君」
課長が、震える声で呼んだ。
「……お迎えだ」
薫は、覚悟を決めて顔を上げた。
入り口に立っていたのは、憲兵でも、特高でもなかった。
紺色の、スマートな制服。
海軍の法務官だった。
「早乙女薫君ですね」
法務官は、陸軍の淀んだ空気とは無縁の、事務的かつ紳士的な口調で言った。
「本日付けで、君の身分は『陸軍省嘱託』から、『海軍省軍属』へと移管されました」
「……え?」
薫は、自分の耳を疑った。
「か、海軍……ですか?」
「はい。山本五十六次官の直々の発令です」
法務官は、一枚の辞令書を提示した。
そこには、確かに彼女の名前と、新しい所属が記されていた。
【海軍省 次官室付き 技術顧問補佐】
「……技術顧問、補佐?」
聞いたことのない役職だ。
「急いでください。車が待っています」
薫は、夢を見ているような気分で、陸軍省の廊下を歩いた。
すれ違う陸軍将校たちが、彼女を連れ出す海軍士官を、憎々しげに睨みつけている。
だが、誰も手出しはしなかった。
これは、組織と組織の「政治的決着」がついた結果なのだ。
正面玄関を出ると、黒塗りの海軍の公用車が待っていた。
法務官がドアを開ける。
薫は、恐る恐る後部座席に乗り込んだ。
そこには、先客がいた。
薄汚れた作業着ではなく、少しサイズが合わない地味なスーツを着て、不機嫌そうに腕組みをしている男。
「……遅い」
男は、薫を見るなり、開口一番に言った。
「移送手続きに45分。非効率なタイムラグだ」
「……!」
薫の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……坂上、さん……!」
「泣くな。水分と塩分の無駄な排出だ」
坂上真一は、生きていた。
あの帝国ホテルのカオスから、特高の独房を経て、今ここに、平然と座っていた。
「……生きて、らしたんですね」
「当たり前だ。俺が計算外の死に方をするわけがない」
坂上は、窓の外へ視線を逸らした。
「……君の『工作』のおかげでな」
それは、彼なりの、最大限の感謝の言葉だった。
薫は、涙を拭い、居住まいを正した。
「……どこへ行くのですか?」
「新天地だ」
坂上は、冷ややかに笑った。
「海軍が用意した、俺たちの新しい『戦場』だ」
第47話:掃き溜めの研究室
車が到着したのは、海軍省の煌びやかな庁舎……ではなかった。
海軍省から車で十分ほど離れた、築地の一角。
潮の匂いと、魚河岸の喧騒が混じる場所にある、赤レンガ造りの古びた倉庫だった。
「……ここですか?」
薫が、呆然と見上げる。
窓ガラスは割れ、ツタが絡まり、入り口の看板は錆びついて読めない。
「海軍技術研究所、分室……通称『掃き溜め』だ」
案内した海軍将校が、バツが悪そうに言った。
「次官からは『場所は何でもいいから、即座に用意しろ』と言われまして。空いていたのは、ここしか……」
「上等だ」
坂上は、スタスタと中へ入っていった。
中は、外見以上に酷かった。
埃の積もった床。雨漏りのシミがある天井。
そして、部屋の中央には、海軍の各所から集められたと思われる「ガラクタ」が、山のように積まれていた。
真空管の残骸。
切れた銅線。
使い古されたオシロスコープ。
実験に失敗して廃棄されたと思われる、謎の金属塊。
「……ひどい」
薫が絶句する。
「これが、海軍の『技術顧問』の職場ですか?」
「山本五十六との契約通りだ」
坂上は、そのガラクタの山を、宝の山でも見るような目で眺めた。
「『廃棄される予定の、非効率なリソースを全てよこせ』。俺はそう要求した」
彼は、山の中から一本の、奇妙な形をしたアンテナのような金属棒を引っ張り出した。
「……あった」
「それは?」
「八木・宇田アンテナの試作品だ。数年前に作られ、『役に立たん』と捨てられたものだ」
坂上は、その錆びたアンテナを愛おしそうに撫でた。
「薫君。掃除だ」
坂上は、スーツの上着を脱ぎ捨てた。
「まずは、この部屋を『CIC(戦闘指揮所)』として機能するように再構築する。
環境整備は、作業効率の基本だ」
「……はい!」
薫もまた、ワンピースの袖をまくり上げた。
陸軍省の清潔だが冷たいオフィスより、この埃だらけの倉庫の方が、遥かに「息ができる」場所だった。
二人は、黙々と掃除を始めた。
坂上が重い機材を運び、薫が床を掃き、窓を拭く。
「そこ、配置が非効率だ。机は中央にまとめろ」
「はいはい。……坂上さんこそ、そのスーツ、汚れますよ」
「構わん。どうせ拾ったものだ」
夕方になる頃には、倉庫は見違えるように整頓されていた。
中央には、ガラクタを組み合わせて作った巨大な作業台。
壁には、坂上がチョークで書き殴った、複雑な回路図と数式。
そして、部屋の隅には、薫が調達してきた七輪と、湯を沸かすヤカン。
「……よし」
坂上は、泥水のようなコーヒー(やはり海軍でも、コーヒーの味は改善されていなかった)を一口啜り、満足げに頷いた。
「ここからだ」
彼は、作業台の上の「八木アンテナ」を指差した。
「この『ゴミ』を使って、世界最強の『目』を作る」
その時、倉庫の錆びた扉が、ギィと音を立てて開いた。
「……ここかね? 物好きな『買い手』がついたというのは」
入ってきたのは、白衣を着た、二人の男だった。
一人は、ボサボサ髪の初老の男。もう一人は、神経質そうな眼鏡の男。
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