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序章 DEATH4
EP 5
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絶望の刻印
その日の稼ぎは、いつもより少しだけ良かった。籠に残った最後の野菜を売り切り、懐に収めた銅貨の重みを確かめながら、たつまろは家路を急いでいた。
(これでユウに、少しは甘い菓子でも買ってやれるか)
脳裏に浮かぶのは、舌足らずに「にいちゃん!」と笑う弟の顔。あの日、母を失ってから、あの笑顔を守ることだけが、たつまろの世界のすべてだった。乾いた土地、厳しい暮らし。それでも、ユウがいれば、それで良かった。
しかし、丘を一つ越えたところで、たつまろの足は凍りついた。
見慣れた我が家の方角から、黒い煙が禍々しく空へと昇っていたのだ。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。風に乗って運ばれてくる、木が爆ぜる音と、焦げ付く匂い。
「……まさか」
呟きは、悲鳴に変わった。
「ユウッ!」
籠を放り出し、死に物狂いで走る。近づくにつれて、絶望は確信へと変わっていく。燃えているのは、間違いなく自分たちの家だった。あの小さな、しかし温もりだけはあったはずの家が、赤い舌を伸ばす炎に無残に喰い尽くされようとしていた。
家の前には数人の男たちが立っており、下品な笑い声を上げていた。
「ハハハ! しけた家だが結構大金があったな。ガキ二人始末してこいと言われたが良い小遣いになったぜ」
その言葉に、たつまろの全身の血が逆流する。これは、ただの火事ではない。明確な悪意による襲撃だ。
そして、半壊した家の中から、聞き慣れた泣き声が聞こえてきた。
「うぅー……やめてー……」
「頭! 来やしたぜ!」
ごろつきの一人が、小さな身体を引きずり出してくる。それは間違いなく、弟のユウだった。
「ユウッ!」
「うぅっ、にいちゃーん!」
ユウが兄の姿を認め、泣き叫ぶ。その小さな身体には、すでにいくつかの痣が刻まれていた。
たつまろの思考から、冷静さというものが消え失せた。
「て、テメェら! ユウに何しやがる!」
怒りの咆哮と共に、たつまろの身体は獣のように躍り出た。ごろつきの一人が驚いて棍棒を振り上げるが、その動きはたつまろの目にはひどく緩慢に見えた。振り下ろされる腕を潜り抜け、がら空きの脇腹に体重を乗せた拳を叩き込む。
「グハッ!」
短い悲鳴を上げて男が倒れる。振り返りざま、別の男の顎を蹴り上げ、怯んだ隙に懐へ飛び込み、鳩尾へ強烈な肘を打ち込んだ。常識外れの戦闘能力。それは、ただひたすらに弟を守るためだけに研ぎ澄まされた、生存のための牙だった。
しかし、その勢いは、冷たい声一つで完全に止められた。
「ほぉ、ガキの癖に強いなぁお前……しかし、こうするとどうだ?」
ごろつき共の頭目らしき男が、ユウの細い首筋に、鈍く光る刃物を押し当てていた。
「!」
たつまろの動きが、まるで糸の切れた人形のようにぴたりと止まる。
「や、やめろ!」
最強の力が、最大の弱点の前で完全に無力化された瞬間だった。
その隙を、残ったごろつきが見逃すはずもなかった。
「へ、へっへ……よくもやったな、オラッ!」
背後から、鈍い衝撃がたつまろの頭を襲った。棍棒の一撃だった。視界がぐらりと揺れ、膝が折れる。
「ぐっ……」
「オラッ! オラッ!」
抵抗できない身体に、何度も、何度も、無慈悲な打撃が叩きつけられる。肉を打つ鈍い音と、骨がきしむ嫌な感覚。口の中に鉄の味が広がり、意識が遠のいていく。
「ぐ……ぐぅ……」
「よし、そこらで止めとけ」頭の声が、朦朧とする意識に響く。「殺るつもりだったが、その戦闘力を無くすのは惜しい。奴隷市に出せば高く売れるはずだ」
「へ、へい。で? 弟の方はどうするんで?」
「あー、ここで始末……っ!」
その言葉に、虫の息だったはずのたつまろが、血と泥に汚れた顔を上げた。その瞳には、人間が浮かべてはならない、地獄の底のような光が宿っていた。
「ユウを、殺したら……オ マ エ ヲ……コ ロ ス」
それは、声というより怨念の塊だった。歴戦のごろつきが、思わず「ひっ」と喉を鳴らす。
「だ、黙れ!」
反射的に、ごろつきの一人がたつまろの顔を蹴りつけた。
「ぐっ……いいか……ユウを殺したら……カ ナ ラ ズ オ マ エ ヲ……オ マ エ……ヲ……コロ、ス」
その言葉を最後に、たつまろの意識は完全に闇に沈んだ。
頭目の男は、背筋を走る冷たい汗を拭った。
「……なんてガキだ。啖呵だけで、俺を震えさせるとは」
彼はニヤリと口の端を歪める。
「まーいい。まとめて奴隷商に売り飛ばすか。ハハハハハハ!」
炎が全てを舐め尽くした跡に、下品な笑い声だけが虚しく響いていた。
~数日後・大神殿~
「え!? たつまろが……死んだ!?」
ユイの悲鳴が、静まり返った謁見の間に木霊した。大神官は、表情一つ変えずに淡々と告げる。
「そうじゃ。先日に野盗に襲われ、家もろとも燃やされたそうじゃ。哀れなことよ」
「! そん、なこと……信じられない!」
ユイの足元から、世界が崩れていくような感覚に襲われた。あの無愛想な顔。不器用な優しさ。「心配すんな」と言ってくれた、力強い声。それが、もうこの世にない。
大神官は、そんなユイの絶望を慈しむかのように言葉を続けた。
「事実は事実。世界はこうも荒れ果てておるのだ。巫女よ、余計な私情は忘れ、そなたの使命を果たすことに専念するのじゃ」
その言葉が、絶望の淵にいたユイの心に、歪んだ光を灯した。
(たつまろが死んだのは、世界が乱れているから……? 僕が……僕が巫女の使命を果たせば、この世界は浄化されて……そうすれば、たつまろの魂も救われる……?)
もはや、正常な思考ではなかった。失われた温もりを取り戻す術が、それしか思いつかなかったのだ。
「! ……巫女……巫女の使命を果たせば、世界は……たつまろが助けられる!」
顔を上げたユイの瞳には、狂気じみた決意が宿っていた。彼女は大神官の前に進み出て、はっきりと告げた。
「大神官! 今すぐに、明知神来(めいちじんらい)の儀式を行います!」
「何? ……そうか、そうか。ようやく巫女としての務めを……」
満足げに頷く大神官の顔など、もはやユイの目には映っていなかった。
(たつまろ……待っていて。僕があなたを助けるには、もうこれしかないの)
たつまろの死という偽りの絶望が、ユイを、世界を救うための生贄へと、自ら歩ませようとしていた。
その日の稼ぎは、いつもより少しだけ良かった。籠に残った最後の野菜を売り切り、懐に収めた銅貨の重みを確かめながら、たつまろは家路を急いでいた。
(これでユウに、少しは甘い菓子でも買ってやれるか)
脳裏に浮かぶのは、舌足らずに「にいちゃん!」と笑う弟の顔。あの日、母を失ってから、あの笑顔を守ることだけが、たつまろの世界のすべてだった。乾いた土地、厳しい暮らし。それでも、ユウがいれば、それで良かった。
しかし、丘を一つ越えたところで、たつまろの足は凍りついた。
見慣れた我が家の方角から、黒い煙が禍々しく空へと昇っていたのだ。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。風に乗って運ばれてくる、木が爆ぜる音と、焦げ付く匂い。
「……まさか」
呟きは、悲鳴に変わった。
「ユウッ!」
籠を放り出し、死に物狂いで走る。近づくにつれて、絶望は確信へと変わっていく。燃えているのは、間違いなく自分たちの家だった。あの小さな、しかし温もりだけはあったはずの家が、赤い舌を伸ばす炎に無残に喰い尽くされようとしていた。
家の前には数人の男たちが立っており、下品な笑い声を上げていた。
「ハハハ! しけた家だが結構大金があったな。ガキ二人始末してこいと言われたが良い小遣いになったぜ」
その言葉に、たつまろの全身の血が逆流する。これは、ただの火事ではない。明確な悪意による襲撃だ。
そして、半壊した家の中から、聞き慣れた泣き声が聞こえてきた。
「うぅー……やめてー……」
「頭! 来やしたぜ!」
ごろつきの一人が、小さな身体を引きずり出してくる。それは間違いなく、弟のユウだった。
「ユウッ!」
「うぅっ、にいちゃーん!」
ユウが兄の姿を認め、泣き叫ぶ。その小さな身体には、すでにいくつかの痣が刻まれていた。
たつまろの思考から、冷静さというものが消え失せた。
「て、テメェら! ユウに何しやがる!」
怒りの咆哮と共に、たつまろの身体は獣のように躍り出た。ごろつきの一人が驚いて棍棒を振り上げるが、その動きはたつまろの目にはひどく緩慢に見えた。振り下ろされる腕を潜り抜け、がら空きの脇腹に体重を乗せた拳を叩き込む。
「グハッ!」
短い悲鳴を上げて男が倒れる。振り返りざま、別の男の顎を蹴り上げ、怯んだ隙に懐へ飛び込み、鳩尾へ強烈な肘を打ち込んだ。常識外れの戦闘能力。それは、ただひたすらに弟を守るためだけに研ぎ澄まされた、生存のための牙だった。
しかし、その勢いは、冷たい声一つで完全に止められた。
「ほぉ、ガキの癖に強いなぁお前……しかし、こうするとどうだ?」
ごろつき共の頭目らしき男が、ユウの細い首筋に、鈍く光る刃物を押し当てていた。
「!」
たつまろの動きが、まるで糸の切れた人形のようにぴたりと止まる。
「や、やめろ!」
最強の力が、最大の弱点の前で完全に無力化された瞬間だった。
その隙を、残ったごろつきが見逃すはずもなかった。
「へ、へっへ……よくもやったな、オラッ!」
背後から、鈍い衝撃がたつまろの頭を襲った。棍棒の一撃だった。視界がぐらりと揺れ、膝が折れる。
「ぐっ……」
「オラッ! オラッ!」
抵抗できない身体に、何度も、何度も、無慈悲な打撃が叩きつけられる。肉を打つ鈍い音と、骨がきしむ嫌な感覚。口の中に鉄の味が広がり、意識が遠のいていく。
「ぐ……ぐぅ……」
「よし、そこらで止めとけ」頭の声が、朦朧とする意識に響く。「殺るつもりだったが、その戦闘力を無くすのは惜しい。奴隷市に出せば高く売れるはずだ」
「へ、へい。で? 弟の方はどうするんで?」
「あー、ここで始末……っ!」
その言葉に、虫の息だったはずのたつまろが、血と泥に汚れた顔を上げた。その瞳には、人間が浮かべてはならない、地獄の底のような光が宿っていた。
「ユウを、殺したら……オ マ エ ヲ……コ ロ ス」
それは、声というより怨念の塊だった。歴戦のごろつきが、思わず「ひっ」と喉を鳴らす。
「だ、黙れ!」
反射的に、ごろつきの一人がたつまろの顔を蹴りつけた。
「ぐっ……いいか……ユウを殺したら……カ ナ ラ ズ オ マ エ ヲ……オ マ エ……ヲ……コロ、ス」
その言葉を最後に、たつまろの意識は完全に闇に沈んだ。
頭目の男は、背筋を走る冷たい汗を拭った。
「……なんてガキだ。啖呵だけで、俺を震えさせるとは」
彼はニヤリと口の端を歪める。
「まーいい。まとめて奴隷商に売り飛ばすか。ハハハハハハ!」
炎が全てを舐め尽くした跡に、下品な笑い声だけが虚しく響いていた。
~数日後・大神殿~
「え!? たつまろが……死んだ!?」
ユイの悲鳴が、静まり返った謁見の間に木霊した。大神官は、表情一つ変えずに淡々と告げる。
「そうじゃ。先日に野盗に襲われ、家もろとも燃やされたそうじゃ。哀れなことよ」
「! そん、なこと……信じられない!」
ユイの足元から、世界が崩れていくような感覚に襲われた。あの無愛想な顔。不器用な優しさ。「心配すんな」と言ってくれた、力強い声。それが、もうこの世にない。
大神官は、そんなユイの絶望を慈しむかのように言葉を続けた。
「事実は事実。世界はこうも荒れ果てておるのだ。巫女よ、余計な私情は忘れ、そなたの使命を果たすことに専念するのじゃ」
その言葉が、絶望の淵にいたユイの心に、歪んだ光を灯した。
(たつまろが死んだのは、世界が乱れているから……? 僕が……僕が巫女の使命を果たせば、この世界は浄化されて……そうすれば、たつまろの魂も救われる……?)
もはや、正常な思考ではなかった。失われた温もりを取り戻す術が、それしか思いつかなかったのだ。
「! ……巫女……巫女の使命を果たせば、世界は……たつまろが助けられる!」
顔を上げたユイの瞳には、狂気じみた決意が宿っていた。彼女は大神官の前に進み出て、はっきりと告げた。
「大神官! 今すぐに、明知神来(めいちじんらい)の儀式を行います!」
「何? ……そうか、そうか。ようやく巫女としての務めを……」
満足げに頷く大神官の顔など、もはやユイの目には映っていなかった。
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