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もう一つの未来
EP 2
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灰の中の願い
時間の感覚が曖昧な、ただ存在するだけの日々。兎の人形となったユイは、幸運にもたつまろに拾われ、再び彼の温もりに触れることができた。弟のユウは、この新しい「兎さん」をたいそう気に入り、寝る時も汚れた頬をすり寄せ、ぎゅっと抱きしめてくれた。
(たつまろ…ユウ…)
人形の硬いボタンの目から、ユイは二人の日常を見つめていた。朝早くから畑仕事をし、市場で野菜を売り、少ない稼ぎで質素な食事をとる。貧しいけれど、そこには確かに兄と弟の間の、不器用で温かい愛情があった。たつまろがユウの頭を撫でる仕草、ユウが兄を見上げる信頼に満ちた瞳。その光景はユイの心を温めると同時に、これから訪れるであろう悲劇の予感が、鉛のように心を重くした。
(守りたい…この二人を、このささやかな幸せを、僕が守れたら…!)
しかし、人形の体は動かない。声も出せない。ただ、すぐそばで彼らの息遣いを感じ、無力な自分を呪うことしかできなかった。
そして、運命の夜は訪れた。
突然の破壊音と、男たちの下卑た怒声。家が、あの温かい場所が、土足で踏みにじられていく。
(やめて…! 来ないで…!)
ユウの怯えた小さな悲鳴が聞こえる。ユイはユウの寝床の隅に置かれていた。すぐ近くで、ゴロツキたちが金目のものを探して家を荒らしているのが分かった。
そこへ、たつまろが帰ってきた。怒りに燃えた彼の声、そして激しい格闘の音。
(たつまろ!)
ユイは心の中で叫んだ。しかし、次の瞬間、事態は最悪の方向へと転がる。
「ユウを離せ!」「弟の命が惜しくば、大人しくしろ!」
卑劣な脅し文句。そして、ゴッ、ゴッと鈍い打撃音が何度も響く。たつまろの苦悶の声が聞こえる。
(やめて! たつまろをいじめないで!)
ユイの縫い付けられた口が、叫びで歪んでいるように見えた。
やがて、たつまろは力尽き、奴隷として連れ去られていった。燃え盛る家の炎が、彼の絶望に満ちた背中を照らしていた。ユウの泣き声も、次第に遠ざかっていく。
後に残されたのは、燃え落ちた家の残骸と、焼け焦げた匂い、そして絶対的な静寂。ユイ(人形)は、煤と瓦礫の中に転がっていた。身体のあちこちが焼け焦げ、片方の耳はちぎれかけている。
(たつまろ…ユウ……)
守りたかったものは、すべて奪われた。残ったのは、人形の身体と、焼け付くような絶望感だけだった。
数日後、家の跡地を片付けに来たらしい男たちが、瓦礫と共にユイ(人形)を無造作に拾い上げた。
「なんだこりゃ、人形か。燃えカスだな」
「汚ねえ、捨てちまえ」
ユイは、他のガラクタと一緒に荷車に放り込まれ、街外れのゴミ捨て場へと運ばれた。鼻をつく腐臭、うず高く積まれたゴミの山。かつて巫女として崇められた面影は、もうどこにもない。
そして、荷車の中身は、燃え盛る焼却炉(あるいは大きな焚き火)の前にぶちまけられた。ユイ(人形)は、他のゴミと一緒に、灼熱の炎へと滑り落ちていく。
(あつい…! 燃える…!)
炎が、あっという間に人形の体を包み込む。布が焼け、綿がはぜる。視界が赤く染まり、意識が遠のいていく。
(これで…終わり…?)
いいや、違う。
(たつまろ…!)
この身が灰になっても、この想いだけは消えない。
彼がどれほどの絶望の中にいるのか、僕は知ってしまった。
彼がどれほどの痛みを抱えているのか、僕は感じてしまった。
(僕に…力があれば…)
たとえこの身が滅んでも、どうか、彼の魂が救われますように。
彼が、あの優しい笑顔を取り戻せる日が来ますように。
(僕のすべてを捧げるから…! だから、どうか…!)
それは、かつて兎が自らを火に投じた時と同じ、純粋で、見返りを求めない祈りだった。たつまろを救いたい、ただその一心。
炎の中で、人形の形は急速に失われていく。しかし、その中心で、ユイの魂は消えるどころか、むしろ、これまで以上に強く、清らかな光を放ち始めていた。まるで、暗闇の中で輝きを増す星のように。あるいは、何かもっと大きな存在に、その小さな光が確かに届いたかのように。
物理的な終わりは、新たな始まりの予兆を孕んで、静かに訪れようとしていた。
時間の感覚が曖昧な、ただ存在するだけの日々。兎の人形となったユイは、幸運にもたつまろに拾われ、再び彼の温もりに触れることができた。弟のユウは、この新しい「兎さん」をたいそう気に入り、寝る時も汚れた頬をすり寄せ、ぎゅっと抱きしめてくれた。
(たつまろ…ユウ…)
人形の硬いボタンの目から、ユイは二人の日常を見つめていた。朝早くから畑仕事をし、市場で野菜を売り、少ない稼ぎで質素な食事をとる。貧しいけれど、そこには確かに兄と弟の間の、不器用で温かい愛情があった。たつまろがユウの頭を撫でる仕草、ユウが兄を見上げる信頼に満ちた瞳。その光景はユイの心を温めると同時に、これから訪れるであろう悲劇の予感が、鉛のように心を重くした。
(守りたい…この二人を、このささやかな幸せを、僕が守れたら…!)
しかし、人形の体は動かない。声も出せない。ただ、すぐそばで彼らの息遣いを感じ、無力な自分を呪うことしかできなかった。
そして、運命の夜は訪れた。
突然の破壊音と、男たちの下卑た怒声。家が、あの温かい場所が、土足で踏みにじられていく。
(やめて…! 来ないで…!)
ユウの怯えた小さな悲鳴が聞こえる。ユイはユウの寝床の隅に置かれていた。すぐ近くで、ゴロツキたちが金目のものを探して家を荒らしているのが分かった。
そこへ、たつまろが帰ってきた。怒りに燃えた彼の声、そして激しい格闘の音。
(たつまろ!)
ユイは心の中で叫んだ。しかし、次の瞬間、事態は最悪の方向へと転がる。
「ユウを離せ!」「弟の命が惜しくば、大人しくしろ!」
卑劣な脅し文句。そして、ゴッ、ゴッと鈍い打撃音が何度も響く。たつまろの苦悶の声が聞こえる。
(やめて! たつまろをいじめないで!)
ユイの縫い付けられた口が、叫びで歪んでいるように見えた。
やがて、たつまろは力尽き、奴隷として連れ去られていった。燃え盛る家の炎が、彼の絶望に満ちた背中を照らしていた。ユウの泣き声も、次第に遠ざかっていく。
後に残されたのは、燃え落ちた家の残骸と、焼け焦げた匂い、そして絶対的な静寂。ユイ(人形)は、煤と瓦礫の中に転がっていた。身体のあちこちが焼け焦げ、片方の耳はちぎれかけている。
(たつまろ…ユウ……)
守りたかったものは、すべて奪われた。残ったのは、人形の身体と、焼け付くような絶望感だけだった。
数日後、家の跡地を片付けに来たらしい男たちが、瓦礫と共にユイ(人形)を無造作に拾い上げた。
「なんだこりゃ、人形か。燃えカスだな」
「汚ねえ、捨てちまえ」
ユイは、他のガラクタと一緒に荷車に放り込まれ、街外れのゴミ捨て場へと運ばれた。鼻をつく腐臭、うず高く積まれたゴミの山。かつて巫女として崇められた面影は、もうどこにもない。
そして、荷車の中身は、燃え盛る焼却炉(あるいは大きな焚き火)の前にぶちまけられた。ユイ(人形)は、他のゴミと一緒に、灼熱の炎へと滑り落ちていく。
(あつい…! 燃える…!)
炎が、あっという間に人形の体を包み込む。布が焼け、綿がはぜる。視界が赤く染まり、意識が遠のいていく。
(これで…終わり…?)
いいや、違う。
(たつまろ…!)
この身が灰になっても、この想いだけは消えない。
彼がどれほどの絶望の中にいるのか、僕は知ってしまった。
彼がどれほどの痛みを抱えているのか、僕は感じてしまった。
(僕に…力があれば…)
たとえこの身が滅んでも、どうか、彼の魂が救われますように。
彼が、あの優しい笑顔を取り戻せる日が来ますように。
(僕のすべてを捧げるから…! だから、どうか…!)
それは、かつて兎が自らを火に投じた時と同じ、純粋で、見返りを求めない祈りだった。たつまろを救いたい、ただその一心。
炎の中で、人形の形は急速に失われていく。しかし、その中心で、ユイの魂は消えるどころか、むしろ、これまで以上に強く、清らかな光を放ち始めていた。まるで、暗闇の中で輝きを増す星のように。あるいは、何かもっと大きな存在に、その小さな光が確かに届いたかのように。
物理的な終わりは、新たな始まりの予兆を孕んで、静かに訪れようとしていた。
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