鬼神と月兎

月神世一

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鬼神と月兎

EP 6

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黒鉄の砦
森鬼フォレスト・オーガを屠った後、森の空気は一変した。それまで鳴り響いていた獣たちの咆哮や不気味な鳴き声はぴたりと止み、まるで森全体が息を殺しているかのような、不自然な静寂が二人を包み込んでいた。森の生態系が、絶対的な捕食者――龍魔呂の存在を認識し、恐怖した結果だった。
ユイは、その異常な静けさの中で、必死に自らの役割を果たそうとしていた。彼女の兎耳は絶えず周囲の微細な音を拾い、危険を察知しようと神経を集中させている。
「龍魔呂様、右前方、三十先さき…。地面の下に、何かが潜んでいる音がします。罠かもしれません」
「……ああ。分かっている」
龍魔呂は短く応じると、進路をわずかに左へとずらす。彼の瞳は、もはやユイが警告するまでもなく、地面に巧妙に隠された罠の痕跡を捉えていた。
鬼神の圧倒的な戦闘能力と、月兎族の鋭敏な感覚。二人の能力は、この死の森を進む上で、奇妙なほど完璧な相性を見せていた。
ギルドマスターが地図に示した地点に近づくにつれ、森の様相はさらに禍々しさを増していく。木々の幹には不気味な紋様が刻まれ、地面には巨大な獣の骨が散乱している。そして、風に乗って、血と鉄の匂いが微かに漂ってきた。
やがて、二人の目の前に、巨大な岩壁が剥き出しになった崖地が広がった。そして、その崖をくり抜くようにして築かれた、黒鉄の砦が姿を現す。それは、古代のドワーフが掘り進めた坑道を、無理やり軍事要塞へと改造したもののようだった。崖の上にはいくつもの見張り台が設置され、黒い鎧を纏った兵士たちが鋭い視線を光らせている。ギルドマスターが言っていた、謎の一団に違いない。
龍魔呂は音もなく崖を駆け上がり、木々の影から砦の様子を窺う。ユイも、彼の後に続いて息を殺した。
砦の入り口は巨大な鉄の門で固く閉ざされ、その前では屈強な魔族の兵士と、彼らに使役されているであろう二頭のヘルハウンドが絶えず周囲を警戒している。砦の内部からは、時折、兵士たちの怒声や、何かが鞭打たれるような音が聞こえてきた。
「…ダイチ様が、あの中に…」
ユイは唇を噛みしめ、悔しそうに呟く。
「龍魔呂様、敵の数があまりにも多すぎます…。警備も厳重ですし、隠密で中に忍び込む方法を探したほうが…」
彼女の提案は、真っ当なものだった。敵の戦力も、砦の構造も不明。正面から挑むのはあまりにも無謀だ。だが、龍魔呂は、ユイの言葉を聞いているのかいないのか、ただ静かに黒鉄の砦を見下ろしていた。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「隠れる必要はない」
「えっ?」
予想外の言葉に、ユイは目を丸くする。龍魔呂は、そんなユイを一瞥もせず、まるで夕飯の献立でも決めるかのような、平坦な口調で続けた。
「正面から行く。一人残らず、潰すだけだ」
その言葉に、理屈や作戦といったものは微塵も感じられない。ただ、圧倒的な力が下す、絶対的な結論。それは、彼の揺るぎない自信と、あるいは、この程度の障害を乗り越えることさえも「面倒だ」と感じているかのような、底知れぬ傲慢さの表れだった。
ユイが何かを言う前に、龍魔呂は木々の影から静かに立ち上がった。彼の右手に嵌められた「闘鬼の指輪」が、主の意志を察したかのように、黒ぐろとした光を放ち始める。
「待っていろ」
短くそれだけ言うと、龍魔呂の姿は、まるで崖から飛び降りるかのように、音もなく下方へと消えた。
ユイは、ただ呆然と、彼が消えた場所を見つめることしかできなかった。
無謀だ、と頭では分かっている。しかし、先ほどのオーガとの戦いを思い出す。あの赤黒い闘気を纏った、鬼神の姿を。
(…龍魔呂様なら…)
不安と、そして、それを上回る絶対的な信頼。
ユイは、これから始まるであろう蹂躙の序曲を、固唾を飲んで見守った。
黒鉄の砦の門前で、退屈そうに欠伸をしていたヘルハウンドの一頭が、不意に鼻を鳴らし、唸り声を上げた。その視線の先に、一人の男が、ゆっくりと姿を現した。
「なんだ、貴様は!」
門番の魔族が警戒して槍を構える。しかし、男は答えなかった。
ただ、その全身から、地獄の釜が開いたかのような、濃密な赤黒い闘気が立ち昇り始めていた。
戦いの火蓋は、今、切られようとしていた。
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