鬼神と月兎

月神世一

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鬼神と月兎

EP 17

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勇者のケーキが繋ぐもの
ダイヤが去った後も、部屋の扉はしばらくの間、カタカタと震えていた。その剣幕に、ユイは少しだけ目を丸くしていたが、やがて、こらえきれずにくすりと笑みを漏らした。
「ふふっ…あの騎士団長さん、なんだか面白い方ですね。あんなに怖い顔をしていたのに、ダイチ様にはとても弱いみたい」
「……」
龍魔呂は、ユイの言葉には応えず、テーブルに置かれたケーキの箱を、まだ訝しげな目で見ていた。彼がこれまで生きてきた世界では、他者からの施しは、罠か、あるいは侮辱かのどちらかだった。
「…毒でも入っているかもしれんぞ」
その呟きは、彼の本能から出た、偽りのない警戒心だった。
ユイは、その言葉に微笑むと、優しく首を横に振った。
「ダイチ様が、そんなことをするはずありません。これは、あの子の精一杯の『ありがとう』ですよ」
そう言って、彼女は木箱の蓋をそっと開けた。ふわりと、バターと果物の焼けた、甘く優しい香りが部屋に広がる。素朴だが、丁寧に作られたことが一目でわかる、心のこもったケーキだった。
ユイは、備え付けのナイフでケーキを切り分けると、一切れを龍魔呂の前に、もう一切れを自分の前に置いた。そして、まるで「大丈夫ですよ」と示すかのように、自らの分を小さなフォークで一口、美味しそうに頬張った。
龍魔呂は、その様子をしばらく無言で眺めていたが、やがて、諦めたようにフォークを手に取った。
一口、口に運ぶ。
プロの菓子職人が作ったような、洗練された味ではない。少しだけ焼きムラがあり、甘さも控えめだ。だが、その不器用なケーキには、不思議な温かさがあった。それは、彼が砦で食べた、ダイチの作ったシチューと同じ「味」だった。
(…厄介な、味だ)
その温かさは、龍魔呂が長い年月をかけて心の周りに築き上げてきた、氷の壁を、少しずつ、しかし確実に溶かしていく。脳裏に、遠い、遠い昔の記憶が蘇る。母が作ってくれた、甘い焼き菓子。それを、小さな弟と分け合って食べた、ほんのわずかな、幸せだった時間。
それは、彼が「鬼神」になる過程で、とうに捨て去ったはずの、柔らかな記憶の断片だった。
龍魔呂は、何も言わなかった。ただ、黙々と、二口、三口と、ケーキを食べ進めていく。その表情は相変わらず硬いままだが、その瞳の奥の険しさが、ほんの少しだけ、和らいでいるのを、ユイは見逃さなかった。
彼女の耳に聞こえる、龍魔呂の魂の「音」。
常に荒れ狂う嵐のようだったその響きの中に、ほんの一瞬、雲間から日差しが差したかのような、穏やかな瞬間が訪れていた。
ケーキを食べ終えた後、龍魔呂は、ぽつりと呟いた。
「…あの騎士団長。勇者が弱点か」
「え?」
「いや、何でもない」
彼は、それ以上何も言わず、再び窓の外へと視線を向けた。だが、その横顔は、ここへ来た時よりも、幾分か人間らしい色を取り戻しているように見えた。
ダイチの作った、たった一つのケーキ。
それは、帝国最強の騎士団長の鎧を剥がし、鬼神の心の壁に、小さな温かい光を灯した。
この光の都に渦巻く不協和音の中で、このささやかな贈り物は、バラバラだった彼らの心を、かすかに、しかし確かに繋ぎとめる、最初の楔となったのかもしれない。
しかし、彼らはまだ知らない。
この小さな温もりが、やがて来る、より大きな嵐の前触れに過ぎないことを。
そして、宰相が、龍魔呂を排除するための、次なる冷徹な一手を用意していることを。
聖都の夜は、まだ始まったばかりだった。
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