32 / 60
鬼神と月兎
EP 17
しおりを挟む
勇者のケーキが繋ぐもの
ダイヤが去った後も、部屋の扉はしばらくの間、カタカタと震えていた。その剣幕に、ユイは少しだけ目を丸くしていたが、やがて、こらえきれずにくすりと笑みを漏らした。
「ふふっ…あの騎士団長さん、なんだか面白い方ですね。あんなに怖い顔をしていたのに、ダイチ様にはとても弱いみたい」
「……」
龍魔呂は、ユイの言葉には応えず、テーブルに置かれたケーキの箱を、まだ訝しげな目で見ていた。彼がこれまで生きてきた世界では、他者からの施しは、罠か、あるいは侮辱かのどちらかだった。
「…毒でも入っているかもしれんぞ」
その呟きは、彼の本能から出た、偽りのない警戒心だった。
ユイは、その言葉に微笑むと、優しく首を横に振った。
「ダイチ様が、そんなことをするはずありません。これは、あの子の精一杯の『ありがとう』ですよ」
そう言って、彼女は木箱の蓋をそっと開けた。ふわりと、バターと果物の焼けた、甘く優しい香りが部屋に広がる。素朴だが、丁寧に作られたことが一目でわかる、心のこもったケーキだった。
ユイは、備え付けのナイフでケーキを切り分けると、一切れを龍魔呂の前に、もう一切れを自分の前に置いた。そして、まるで「大丈夫ですよ」と示すかのように、自らの分を小さなフォークで一口、美味しそうに頬張った。
龍魔呂は、その様子をしばらく無言で眺めていたが、やがて、諦めたようにフォークを手に取った。
一口、口に運ぶ。
プロの菓子職人が作ったような、洗練された味ではない。少しだけ焼きムラがあり、甘さも控えめだ。だが、その不器用なケーキには、不思議な温かさがあった。それは、彼が砦で食べた、ダイチの作ったシチューと同じ「味」だった。
(…厄介な、味だ)
その温かさは、龍魔呂が長い年月をかけて心の周りに築き上げてきた、氷の壁を、少しずつ、しかし確実に溶かしていく。脳裏に、遠い、遠い昔の記憶が蘇る。母が作ってくれた、甘い焼き菓子。それを、小さな弟と分け合って食べた、ほんのわずかな、幸せだった時間。
それは、彼が「鬼神」になる過程で、とうに捨て去ったはずの、柔らかな記憶の断片だった。
龍魔呂は、何も言わなかった。ただ、黙々と、二口、三口と、ケーキを食べ進めていく。その表情は相変わらず硬いままだが、その瞳の奥の険しさが、ほんの少しだけ、和らいでいるのを、ユイは見逃さなかった。
彼女の耳に聞こえる、龍魔呂の魂の「音」。
常に荒れ狂う嵐のようだったその響きの中に、ほんの一瞬、雲間から日差しが差したかのような、穏やかな瞬間が訪れていた。
ケーキを食べ終えた後、龍魔呂は、ぽつりと呟いた。
「…あの騎士団長。勇者が弱点か」
「え?」
「いや、何でもない」
彼は、それ以上何も言わず、再び窓の外へと視線を向けた。だが、その横顔は、ここへ来た時よりも、幾分か人間らしい色を取り戻しているように見えた。
ダイチの作った、たった一つのケーキ。
それは、帝国最強の騎士団長の鎧を剥がし、鬼神の心の壁に、小さな温かい光を灯した。
この光の都に渦巻く不協和音の中で、このささやかな贈り物は、バラバラだった彼らの心を、かすかに、しかし確かに繋ぎとめる、最初の楔となったのかもしれない。
しかし、彼らはまだ知らない。
この小さな温もりが、やがて来る、より大きな嵐の前触れに過ぎないことを。
そして、宰相が、龍魔呂を排除するための、次なる冷徹な一手を用意していることを。
聖都の夜は、まだ始まったばかりだった。
ダイヤが去った後も、部屋の扉はしばらくの間、カタカタと震えていた。その剣幕に、ユイは少しだけ目を丸くしていたが、やがて、こらえきれずにくすりと笑みを漏らした。
「ふふっ…あの騎士団長さん、なんだか面白い方ですね。あんなに怖い顔をしていたのに、ダイチ様にはとても弱いみたい」
「……」
龍魔呂は、ユイの言葉には応えず、テーブルに置かれたケーキの箱を、まだ訝しげな目で見ていた。彼がこれまで生きてきた世界では、他者からの施しは、罠か、あるいは侮辱かのどちらかだった。
「…毒でも入っているかもしれんぞ」
その呟きは、彼の本能から出た、偽りのない警戒心だった。
ユイは、その言葉に微笑むと、優しく首を横に振った。
「ダイチ様が、そんなことをするはずありません。これは、あの子の精一杯の『ありがとう』ですよ」
そう言って、彼女は木箱の蓋をそっと開けた。ふわりと、バターと果物の焼けた、甘く優しい香りが部屋に広がる。素朴だが、丁寧に作られたことが一目でわかる、心のこもったケーキだった。
ユイは、備え付けのナイフでケーキを切り分けると、一切れを龍魔呂の前に、もう一切れを自分の前に置いた。そして、まるで「大丈夫ですよ」と示すかのように、自らの分を小さなフォークで一口、美味しそうに頬張った。
龍魔呂は、その様子をしばらく無言で眺めていたが、やがて、諦めたようにフォークを手に取った。
一口、口に運ぶ。
プロの菓子職人が作ったような、洗練された味ではない。少しだけ焼きムラがあり、甘さも控えめだ。だが、その不器用なケーキには、不思議な温かさがあった。それは、彼が砦で食べた、ダイチの作ったシチューと同じ「味」だった。
(…厄介な、味だ)
その温かさは、龍魔呂が長い年月をかけて心の周りに築き上げてきた、氷の壁を、少しずつ、しかし確実に溶かしていく。脳裏に、遠い、遠い昔の記憶が蘇る。母が作ってくれた、甘い焼き菓子。それを、小さな弟と分け合って食べた、ほんのわずかな、幸せだった時間。
それは、彼が「鬼神」になる過程で、とうに捨て去ったはずの、柔らかな記憶の断片だった。
龍魔呂は、何も言わなかった。ただ、黙々と、二口、三口と、ケーキを食べ進めていく。その表情は相変わらず硬いままだが、その瞳の奥の険しさが、ほんの少しだけ、和らいでいるのを、ユイは見逃さなかった。
彼女の耳に聞こえる、龍魔呂の魂の「音」。
常に荒れ狂う嵐のようだったその響きの中に、ほんの一瞬、雲間から日差しが差したかのような、穏やかな瞬間が訪れていた。
ケーキを食べ終えた後、龍魔呂は、ぽつりと呟いた。
「…あの騎士団長。勇者が弱点か」
「え?」
「いや、何でもない」
彼は、それ以上何も言わず、再び窓の外へと視線を向けた。だが、その横顔は、ここへ来た時よりも、幾分か人間らしい色を取り戻しているように見えた。
ダイチの作った、たった一つのケーキ。
それは、帝国最強の騎士団長の鎧を剥がし、鬼神の心の壁に、小さな温かい光を灯した。
この光の都に渦巻く不協和音の中で、このささやかな贈り物は、バラバラだった彼らの心を、かすかに、しかし確かに繋ぎとめる、最初の楔となったのかもしれない。
しかし、彼らはまだ知らない。
この小さな温もりが、やがて来る、より大きな嵐の前触れに過ぎないことを。
そして、宰相が、龍魔呂を排除するための、次なる冷徹な一手を用意していることを。
聖都の夜は、まだ始まったばかりだった。
10
あなたにおすすめの小説
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる