鬼神と月兎

月神世一

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鬼神と月兎

EP 24

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夜明けのスープと、芽吹くもの
アクアブルックに、穏やかな朝が訪れた。
宿屋の一室では、ダイチが差し出したスープの器を、龍魔呂が静かに空にしていた。その光景を、ユイは安堵の表情で見守り、ダイヤは窓辺に立ったまま、黙って見つめている。部屋に満ちていた、昨夜までの重苦しい空気は、不思議と和らいでいた。
器を置いた龍魔呂に、ダイチがおずおずと声をかける。
「あ、あの…龍魔呂さん。お身体は、もう…」
「…問題ない」
返ってきたのは、相変わらず短い言葉。しかし、以前のような、他者を突き放すための鋭い棘は感じられなかった。
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。
ユイが扉を開けると、そこには街の代表者と、あの時助けられた母娘が立っていた。彼らは、解放された街の民からの、心ばかりの感謝を伝えに来たのだ。
「騎士団長様、そして勇者様、この度は誠に…」
代表の男が、深々と頭を下げる。ダイヤは、騎士団長としてその礼を毅然と受け止めた。
「ユイ様も、ありがとうございました。あなた様がいなければ、私は…」
母親が、ユイの手を取って涙ぐむ。その傍らで、小さな娘が、もじもじとしながらも、ダイチの前に進み出た。そして、小さな声で、しかしはっきりと、こう言った。
「…ありがとう、おにいちゃん」
その純粋な感謝の言葉が、ダイチの心に、温かい光となって届いた。
瞬間、彼の右手の甲に宿る「勇者の聖痕」が、これまでに見せたことのない、鮮やかな黄金色の光を放った。
「あ…!」
ダイチは、自らの手に起こった変化に驚きの声を上げる。それは、まるで太陽の光を凝縮したかのような、温かく、そして力強いエネルギーの奔流。感謝と希望の「想い」が、勇者の魂へと注ぎ込まれ、その力の器を、少しだけ満たした証だった。
「ダイチ様…。もしかしたら、皆さんの感謝の気持ちが、ダイチ様の力に…?」
ユイが、その現象の本質を、直感的に言い当てる。
その光景を、龍魔呂は、部屋の隅から静かに見ていた。人々の「想い」が力になる。そんな御伽噺のような現象を、彼は冷めた目で見つめながらも、その光が、不快なものではないと感じている自分に、少しだけ戸惑っていた。
街の代表者たちが帰った後、部屋には新たな議題が持ち上がっていた。
彼らが残していった情報。それは、この街を襲った盗賊団「赤牙」が、実は、さらに強大な何かから逃げてきた敗残兵に過ぎないという事実だった。
「北の山脈にある、古いドワーフの廃鉱山…『魔の顎(まのあぎと)』と呼ばれているそうです」
ダイヤが、もたらされた地図を広げながら説明する。
「最近、そこから魔王軍のものと思われる部隊が出入りし、周辺の村や交易路を脅かしている、と。今回の盗賊も、そこに縄張りを追われた連中だったようです」
それは、新たな脅威の出現を意味していた。
「そこでも、困っている人たちがいるんだね…」
ダイチが、地図の一点をじっと見つめながら呟いた。その瞳には、恐怖ではなく、使命の色が浮かんでいる。
「行かなきゃ!」
ダイチは、顔を上げ、そこにいる全員に、はっきりと告げた。
「…無謀です」
ダイヤは、即座に、しかし以前よりは穏やかな口調で反論した。
「敵は、ただの盗賊団ではない。魔王軍の正規部隊の可能性があります。今の我々の戦力で、敵の本拠地に乗り込むのは…」
「でも!」
ダイチは、ダイヤの言葉を遮った。
「でも、だからって、放っておくの? 目の前で人が苦しんでいるのに、見過ごすのが、勇者なの? 騎士なの?」
その問いは、ダイヤの胸に深く突き刺さった。正論だ。あまりにも純粋で、揺るぎない正論。帝国の騎士として、民を守るという誓いを立てた彼女が、否定できる言葉ではなかった。
全員の視線が、最後に、龍魔呂へと注がれた。この中で、最も圧倒的な力を持つ彼の判断が、一行の針路を決める。
龍魔呂は、窓の外へと視線を向けたまま、静かに答えた。
「…好きにしろ」
その声は、相変わらず無関心に聞こえたかもしれない。
「どうせ、どこへ行こうが、敵はいる。目の前にいるなら、潰すだけだ」
それは、龍魔呂なりの、肯定の言葉だった。ダイチを守る。そのために、邪魔なものは全て排除する。彼の目的は、常に変わらない。
「…決まり、ですね」
ユイが、にっこりと微笑んだ。
ダイヤは、そんな三人の顔を順番に見渡し、やがて、大きなため息をついた。
「…分かりました。私も、腹を括りましょう」
彼女は、騎士団長としての顔に戻ると、力強く宣言した。
「これより我々は、北の山脈、『魔の顎』へと向かいます! 目的は、敵性勢力の偵察、および、可能であればその無力化! これより先、何が待ち受けていようと、私が必ず、あなたたちを守り抜きます!」
それは、帝国の命令ではない。ダイヤ・ソルティアという一人の騎士が、自らの意志で下した、最初の決断だった。
アクアブルックの街に、朝日が昇る。
一つの絶望を乗り越え、一つの希望の芽吹きを見た四人は、次なる戦いの舞台へ向け、新たな一歩を踏み出した。
彼らの旅は、今、本当の意味で、始まったのだ。
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