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第二章 世一と結
EP 6
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世界を蝕む「黒い靄(もや)」
阿久津社長の土下座事件から数日。
俺の生活は、表向きは順風満帆だった。
会社では、なぜか俺のデスクだけ最新の高機能チェアに変わっていたし、残業を命じようとした上司は、電話一本(相手は不明だが声がドスの利いた男)で青ざめて帰宅するようになった。
家に帰れば、結の極上の手料理と、至れり尽くせりのお世話が待っている。
まさに、天国。
……のはずだった。
だが、俺はここ数日、奇妙な胸騒ぎを感じていた。
「……危ないッ!」
通勤途中、俺の目の前で、工事現場の鉄パイプが落下した。
ガシャンッ!!
凄まじい音を立ててアスファルトに突き刺さる。俺が通り過ぎる、ほんの数秒前の場所だ。
「うわ、マジか……」
心臓がバクバクする。
あと一歩遅かったら、串刺しになっていた。
これだけではない。
信号待ちをしていれば、目の前の車がスリップして突っ込んできたり、オフィスの蛍光灯が突然爆発して破片が降り注いだり。
俺自身は無傷だ。
まるで「見えない壁」に守られているかのように、全ての危険は俺の皮膚一枚手前で弾かれるか、あるいは奇跡的なタイミングで回避できている。
だが、頻度がおかしい。
ただの不運にしては、あまりにも作為的な殺意を感じるのだ。
「……世一様?」
呆然と鉄パイプを見つめる俺の袖を、結がクイクイと引いた。
「行きましょう。遅刻してしまいますわ」
結はいつもと変わらぬ笑顔だ。
だが、俺は気づいてしまった。
彼女の白い指先が、ほんの少しだけ震えていることに。
◇
その日の夜。
世一が風呂に入っている間、結はリビングで一人、荒い息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……ッ」
彼女は胸元を押さえ、苦しげに顔を歪める。
その視線の先、ベランダの向こうには、街の明かりを塗りつぶすような、どす黒い「靄(もや)」が漂っていた。
――黒い靄。
それは、かつて世一が破壊した「大神」の怨念の残滓(ざんし)だ。
神としての核を失い、輪廻の枠組みからも外れたそれは、ただひたすらに「破壊者・世一」への憎悪だけで動く、呪いの塊と化していた。
本来なら、今の世一に気づくはずもない微弱なものだった。
だが、結が世一の運命を好転させるために神力を使ったことで、皮肉にも世一の魂の輝きが増し、靄に見つかってしまったのだ。
「……させません」
結はふらつく足で立ち上がり、窓ガラスに手を当てた。
バチバチバチッ!
黒い靄が触手のように伸び、結が張った結界を叩く。
「世一様には……指一本、触れさせません!」
結の体から白い光が迸(ほとばし)る。
彼女は今の世で、神の力の大半を失っている。今の彼女にあるのは、過去の貯金のような微々たる魔力と、世一への愛だけだ。
ドォン!
衝撃が走り、結界が靄を弾き返す。
同時に、結の口端から一筋の鮮血が流れた。
「うっ……」
代償は大きい。
それでも彼女は、血を乱暴に拭うと、再び聖女の仮面を被った。
愛する人が、風呂から上がってくる足音が聞こえたからだ。
◇
「ふぅ、いい湯だった……ん? 結?」
リビングに戻った俺は、違和感に眉をひそめた。
結が、ソファに座ってうつむいている。
いつもなら「お背中流しますか?」と突撃してくるか、冷たいビールとおつまみを用意して待機しているはずなのに。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
俺が近づくと、彼女はハッとして顔を上げた。
「い、いいえ! 少し考え事をしていただけですわ」
笑顔。いつもの完璧な笑顔だ。
だが、顔色が白すぎる。陶器のような肌が、今は土気色に見える。
「……嘘だろ」
俺は彼女の腕を掴んだ。
「あっ……!」
結が小さく悲鳴を上げる。
めくり上がった袖の下。
そこには、まるで何かに焼かれたような、赤黒い痣(あざ)が広がっていた。
「これ、どうしたんだよ!?」
「……たいしたこと、ありません。料理中に、少し油が跳ねて……」
「油跳ねでこんな風になるかよ! それに、その顔色……」
俺は言葉を失った。
昼間の鉄パイプ。車のスリップ。
俺を守るたびに、彼女はどこかで傷ついていたんじゃないか?
俺がのん気に「運がいい」なんて思っていた裏で、彼女はずっと……。
その時。
ゾクリ。
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
「――世一様、下がって!」
結が叫び、俺を突き飛ばした。
パリンッ!!
リビングの窓ガラスが粉々に砕け散る。
夜の闇の中から、不定形の、ヘドロのような「黒い何か」が室内に雪崩れ込んできた。
「グオォォォ……破壊シャ……コロス……」
低い呻き声のような音が、脳に直接響く。
「な、なんだこれ……!?」
腰を抜かす俺の前に、結が立ちはだかった。
ボロボロの体で、両手を広げて。
「ここは通しません。……私の命に代えても!」
彼女の背中が、小刻みに震えているのが見えた。
守られている。また、俺は守られているだけなのか。
――違う。
腹の底が熱い。
恐怖? いや、これは……怒りだ。
俺の日常を。
俺の飯を。
そして何より、俺の女を傷つけたことへの、理屈を超えた激怒。
ドクン、と心臓が跳ねた。
記憶の蓋が、軋んだ音を立てて開き始めた。
阿久津社長の土下座事件から数日。
俺の生活は、表向きは順風満帆だった。
会社では、なぜか俺のデスクだけ最新の高機能チェアに変わっていたし、残業を命じようとした上司は、電話一本(相手は不明だが声がドスの利いた男)で青ざめて帰宅するようになった。
家に帰れば、結の極上の手料理と、至れり尽くせりのお世話が待っている。
まさに、天国。
……のはずだった。
だが、俺はここ数日、奇妙な胸騒ぎを感じていた。
「……危ないッ!」
通勤途中、俺の目の前で、工事現場の鉄パイプが落下した。
ガシャンッ!!
凄まじい音を立ててアスファルトに突き刺さる。俺が通り過ぎる、ほんの数秒前の場所だ。
「うわ、マジか……」
心臓がバクバクする。
あと一歩遅かったら、串刺しになっていた。
これだけではない。
信号待ちをしていれば、目の前の車がスリップして突っ込んできたり、オフィスの蛍光灯が突然爆発して破片が降り注いだり。
俺自身は無傷だ。
まるで「見えない壁」に守られているかのように、全ての危険は俺の皮膚一枚手前で弾かれるか、あるいは奇跡的なタイミングで回避できている。
だが、頻度がおかしい。
ただの不運にしては、あまりにも作為的な殺意を感じるのだ。
「……世一様?」
呆然と鉄パイプを見つめる俺の袖を、結がクイクイと引いた。
「行きましょう。遅刻してしまいますわ」
結はいつもと変わらぬ笑顔だ。
だが、俺は気づいてしまった。
彼女の白い指先が、ほんの少しだけ震えていることに。
◇
その日の夜。
世一が風呂に入っている間、結はリビングで一人、荒い息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……ッ」
彼女は胸元を押さえ、苦しげに顔を歪める。
その視線の先、ベランダの向こうには、街の明かりを塗りつぶすような、どす黒い「靄(もや)」が漂っていた。
――黒い靄。
それは、かつて世一が破壊した「大神」の怨念の残滓(ざんし)だ。
神としての核を失い、輪廻の枠組みからも外れたそれは、ただひたすらに「破壊者・世一」への憎悪だけで動く、呪いの塊と化していた。
本来なら、今の世一に気づくはずもない微弱なものだった。
だが、結が世一の運命を好転させるために神力を使ったことで、皮肉にも世一の魂の輝きが増し、靄に見つかってしまったのだ。
「……させません」
結はふらつく足で立ち上がり、窓ガラスに手を当てた。
バチバチバチッ!
黒い靄が触手のように伸び、結が張った結界を叩く。
「世一様には……指一本、触れさせません!」
結の体から白い光が迸(ほとばし)る。
彼女は今の世で、神の力の大半を失っている。今の彼女にあるのは、過去の貯金のような微々たる魔力と、世一への愛だけだ。
ドォン!
衝撃が走り、結界が靄を弾き返す。
同時に、結の口端から一筋の鮮血が流れた。
「うっ……」
代償は大きい。
それでも彼女は、血を乱暴に拭うと、再び聖女の仮面を被った。
愛する人が、風呂から上がってくる足音が聞こえたからだ。
◇
「ふぅ、いい湯だった……ん? 結?」
リビングに戻った俺は、違和感に眉をひそめた。
結が、ソファに座ってうつむいている。
いつもなら「お背中流しますか?」と突撃してくるか、冷たいビールとおつまみを用意して待機しているはずなのに。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
俺が近づくと、彼女はハッとして顔を上げた。
「い、いいえ! 少し考え事をしていただけですわ」
笑顔。いつもの完璧な笑顔だ。
だが、顔色が白すぎる。陶器のような肌が、今は土気色に見える。
「……嘘だろ」
俺は彼女の腕を掴んだ。
「あっ……!」
結が小さく悲鳴を上げる。
めくり上がった袖の下。
そこには、まるで何かに焼かれたような、赤黒い痣(あざ)が広がっていた。
「これ、どうしたんだよ!?」
「……たいしたこと、ありません。料理中に、少し油が跳ねて……」
「油跳ねでこんな風になるかよ! それに、その顔色……」
俺は言葉を失った。
昼間の鉄パイプ。車のスリップ。
俺を守るたびに、彼女はどこかで傷ついていたんじゃないか?
俺がのん気に「運がいい」なんて思っていた裏で、彼女はずっと……。
その時。
ゾクリ。
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
「――世一様、下がって!」
結が叫び、俺を突き飛ばした。
パリンッ!!
リビングの窓ガラスが粉々に砕け散る。
夜の闇の中から、不定形の、ヘドロのような「黒い何か」が室内に雪崩れ込んできた。
「グオォォォ……破壊シャ……コロス……」
低い呻き声のような音が、脳に直接響く。
「な、なんだこれ……!?」
腰を抜かす俺の前に、結が立ちはだかった。
ボロボロの体で、両手を広げて。
「ここは通しません。……私の命に代えても!」
彼女の背中が、小刻みに震えているのが見えた。
守られている。また、俺は守られているだけなのか。
――違う。
腹の底が熱い。
恐怖? いや、これは……怒りだ。
俺の日常を。
俺の飯を。
そして何より、俺の女を傷つけたことへの、理屈を超えた激怒。
ドクン、と心臓が跳ねた。
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