ママ戦争を止めてくるわ

月神世一

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EP 8

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帝都の朝は、けたたましい号外の鈴の音で幕を開けた。
​『近衛公爵、救国への決意!』
『経済協調こそが帝国の生命線! 若き血の決起!』
​帝都の主要な新聞各紙が一斉に、近衛文麿の流麗な演説と、その端正な横顔を大々的に報じていた。桜田財閥の莫大な資金力によって買収されたメディアが、一晩にして人工的な「近衛旋風(ブーム)」を巻き起こしたのだ。
ラジオからは連日、平和と経済の安定を説く公爵の美声が流れ、軍部の度重なる強硬姿勢に疲弊し始めていた国民は、新しい時代の英雄の誕生に熱狂した。
​その熱狂から少し離れた桜田邸の庭先で、リベラは日傘をさしながら、芝生の上を歩く優太の姿を穏やかな目で見守っていた。
​「アネゴ。……いや、総帥。仕掛けた通り、帝都中が近衛公爵の話題で持ちきりですぜ。三田会のジイさん達も、議会で軍縮法案の根回しを始めたようで」
​少し離れた背後から、柴田が報告を入れる。その顔には、自分たちが国を裏から操っているという痛快さと、目の前の美しき女主人に対する底知れぬ畏怖が入り混じっていた。
​「順調ね。大衆なんて、綺麗に包装された箱舟を与えれば勝手に乗り込んでくるものよ」
​リベラは優太が転ばないよう、そっと手を差し伸べながら微笑んだ。
​「問題は、箱舟に乗れなかった連中がどう出るか、だけど」
​その言葉を待っていたかのように、邸宅の正門の方からけたたましい車のブレーキ音が響いた。続いて、怒号と乱暴な足音が近づいてくる。
​「桜田リベラ! 貴様、いい加減にしろよ!!」
​庭の静寂を切り裂いて怒鳴り込んできたのは、いつぞや応接間から叩き出した陸軍の黒田少佐だった。その後ろには、軍服ではなく黒い詰襟を着た陰湿な目つきの男たちが十数名――泣く子も黙る特別高等警察(特高)の面々が控えている。
​「あら。またあなたですか、少佐。今日は随分とお行儀の悪いお友達をお連れで」
​リベラは優太を抱き上げると、一切の動揺を見せずに振り返った。柴田をはじめとする私兵たちが、音もなくリベラの周囲に展開し、特高の男たちに凄絶な殺気を放つ。
​「強がりもそこまでだ! 貴様が裏で新聞社にカネをばら撒き、軍を愚弄する世論を捏造していることは分かっている! 特高の調べで、貴様がアカ(共産主義者)の思想犯に資金援助している証拠も挙がっているんだ!」
​黒田が勝ち誇ったように叫ぶ。
治安維持法を盾にした、特高警察の常套手段である「でっち上げ」だ。一度この容疑で連行されれば、どんな財界人であろうと生きて日の目を見ることは難しい。
​「連行しろ! 抵抗するならその場で撃ち殺しても構わん!」
​特高の刑事たちが、一斉に懐の拳銃に手をかけた。
柴田たち私兵も上着の下の得物に手をかけ、庭の空気が極限まで張り詰める。一触即発。血の雨が降るかと思われたその時。
​「柴田、手出しは無用よ。……下がりなさい」
​リベラが、氷のように冷たい声で制した。
彼女は優太の耳を両手で優しく塞ぎながら、ゆっくりと特高の責任者らしき男の前に歩み出た。
​「思想犯への資金援助……ですか。それはひどい言いがかりですね。私が直近で資金援助、もとい『莫大な投資』を行ったのは、ただ一つだけですわ」
​リベラは懐から一枚の分厚い書類を取り出し、特高の男の胸に突きつけるようにして見せた。
そこに押されていたのは、大日本帝国海軍・連合艦隊司令部、そして山本五十六の巨大な実印だった。
​「なっ……海軍の……最高機密文書……!?」
​特高の男が顔面を蒼白にして後ずさる。
​「ええ。桜田財閥は現在、海軍の次期主力艦隊の建造計画における『筆頭スポンサー』です。もし私がここで思想犯として連行され、桜田の資産が凍結されれば……海軍の最新鋭艦の建造は明日からストップします」
​リベラは目を細め、蛇に睨まれた蛙のように震える特高たちを冷酷に見下ろした。
​「分かりますか? 私を連行するということは、あなた方特高警察が、大日本帝国海軍に対する『明白な利敵行為』を働くということです。……山本少将が、あなた方のようなチンピラをタダで済ませると思いますか?」
​「ひっ……!」
​特高の責任者は、完全に腰を抜かしかけていた。治安維持法など、軍の主力たる海軍の本気の怒りの前では紙切れ同然だ。自分たちは、黒田に騙されて取り返しのつかない虎の尾を踏まされたのだと理解した。
​「お、おい! 何を怯んでいる! さっさとその女を捕縛せんか!」
​状況を理解できていない黒田がわめき散らすが、特高の男たちは慌てて銃をしまい、逃げるように正門へと後ずさっていく。
​「少佐。あなたの負けです」
​リベラは優太をあやしながら、呆然とする黒田にトドメを刺した。
​「今朝、三田会の銀行団が、あなたの所属する陸軍派閥の特別融資枠をすべて停止しました。あなた方は明日から、自分たちの部下に食べさせる白米すら買えなくなる。特高を動かす袖の下も、もうどこにも残っていないはずですよ」
​「ば、馬鹿な……我々大日本帝国陸軍が、一介の女に……カネで負けるだと……!?」
​黒田は膝から崩れ落ち、庭の芝生を掻き毟った。
暴力で支配しようとした男が、それよりも遥かに洗練された「法律」と「経済」、そして「権力」の暴力によって完全に圧殺された瞬間だった。
​「言ったはずです。私の息子が生きる未来を、勝手に焼け野原にしないで頂きたいと」
​リベラは足元で這いつくばる男を見下ろし、極上の淑女の微笑みを浮かべた。
​「さあ、お帰りなさい。私達はこれから、優太のお昼寝の時間ですので」
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