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EP 1
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金曜日のカレーと海軍精神
防衛省、市ヶ谷地区。
無機質な空調の音が支配する一室で、男がモニターを睨みつけていた。
坂上真一、50歳。階級は1等海佐。
かつてイージス艦の艦長席(キャプテンシート)で数多の訓練ミサイルを撃ち落としてきた男は今、より強大な敵と戦っていた。「予算」と「物理法則」である。
現在、彼が籍を置くのは、海上自衛隊・開発隊群および防衛装備庁の艦船設計官付。
目の前の画面には、次世代イージス・システム搭載艦(ASEV)の兵站(ロジスティクス)区画の設計図が展開されている。
「……弾庫の自動搬送システムの冗長性が甘い。被弾時、このラインが死ねば継戦能力はゼロになる」
独り言の声は低く、地を這うような重低音だ。
白髪交じりの短髪。カミソリのように鋭い眼光。制服のプレスは刃物のように鋭利だが、その内側――制服の下の背中には、決して他人には見せられない「仁王」が彫り込まれている。
若き日の過ちと、祖父への鎮魂、そして自身への戒めとして刻んだ憤怒の仏。
その背中の「秘密」が、彼に常人離れした緊張感と、隙のない立ち居振る舞いを強いていた。
時刻は12時05分。
坂上の腹時計が正確に時を告げる。彼は静かに端末をロックすると、立ち上がった。
「飯だ」
向かう先は庁舎内の食堂である。
金曜日。海上自衛隊において、この曜日は絶対的な意味を持つ。
長い航海の中で曜日感覚を失わないために制定された、海軍時代からの伝統。「金曜日はカレー」の日だ。
食堂の喧騒の中、坂上はトレイを持って列に並ぶ。
周囲の佐官や事務官たちが、彼に気づくとサッと道を空ける。「鉄壁の設計士(アーキテクト)」、「仁王のサカ」。そんな二つ名で呼ばれる彼に、気安く話しかける者はいない。
受け取ったのは「横須賀海軍カレー・コロッケ乗せ」。
彼は窓際の席に一人で座り、スプーンを握った。
一口、運ぶ。スパイスの刺激と、野菜の甘みが口内に広がる。
(……悪くない)
坂上は無言で咀嚼する。
彼の脳裏をよぎるのは、かつて特攻隊員として散った祖父のことだ。
燃料も、満足な機体も、そして帰る場所すら与えられず、精神論だけで死地へ向かわされた男たち。
(腹が減っては戦ができぬ、ではない。補給がなければ、戦場に立つ資格すらないのだ)
それが坂上の信念だった。
だからこそ彼は、現場(艦長)を退いた後、こうして後方支援と装備開発の道を選んだ。
人の命を、精神論という名の安っぽいチップで博打に使わせないために。鉄とシステムで、隊員の命を守るために。
カレーを平らげ、冷たい水を飲み干す。
所要時間、わずか7分。
彼は立ち上がり、自席へと戻る前に、廊下の自販機でブラックコーヒーのロング缶を購入した。
執務室の隣にある仮眠スペース。
ここが彼の、数少ない安息の地だ。
薄暗い部屋のソファに深く体を沈める。
プシュッ、と小気味よい音を立てて缶を開け、漆黒の液体を流し込む。
カフェインが血管を駆け巡り、脳のシナプスを焼き直していく感覚。
続いて、ポケットから個包装された「コーヒーキャンディ」を取り出し、口に放り込む。
ガリッ。
静寂な部屋に、飴を噛み砕く硬質な音が響いた。
「……15分だけ、落ちるか」
坂上はスマートフォンのタイマーをセットする。
13時00分、起床予定。
午後の会議は財務省との折衝だ。頭をクリアにしておかねばならない。
目を閉じる。
意識が急速に沈殿していく。
背中の仁王像が、なぜか微かに熱を帯びているような気がした。
空調の音が遠ざかる。
代わりに、むっとするような湿気と、土の匂い、そして遠くで聞こえる蝉時雨のようなノイズが鼓膜を震わせ始めた。
それが、現代日本における坂上真一の、最後の記憶となった。
彼はまだ知らない。
次に目を開けた時、そこが冷房の効いた市ヶ谷ではなく、地獄の釜の底――1944年のビルマであることを。
そして自らが、最も忌み嫌う「精神論の権化」に成り代わっていることを。
タイマーのカウントダウンだけが、主のいない闇の中で静かに時を刻み続けていた。
防衛省、市ヶ谷地区。
無機質な空調の音が支配する一室で、男がモニターを睨みつけていた。
坂上真一、50歳。階級は1等海佐。
かつてイージス艦の艦長席(キャプテンシート)で数多の訓練ミサイルを撃ち落としてきた男は今、より強大な敵と戦っていた。「予算」と「物理法則」である。
現在、彼が籍を置くのは、海上自衛隊・開発隊群および防衛装備庁の艦船設計官付。
目の前の画面には、次世代イージス・システム搭載艦(ASEV)の兵站(ロジスティクス)区画の設計図が展開されている。
「……弾庫の自動搬送システムの冗長性が甘い。被弾時、このラインが死ねば継戦能力はゼロになる」
独り言の声は低く、地を這うような重低音だ。
白髪交じりの短髪。カミソリのように鋭い眼光。制服のプレスは刃物のように鋭利だが、その内側――制服の下の背中には、決して他人には見せられない「仁王」が彫り込まれている。
若き日の過ちと、祖父への鎮魂、そして自身への戒めとして刻んだ憤怒の仏。
その背中の「秘密」が、彼に常人離れした緊張感と、隙のない立ち居振る舞いを強いていた。
時刻は12時05分。
坂上の腹時計が正確に時を告げる。彼は静かに端末をロックすると、立ち上がった。
「飯だ」
向かう先は庁舎内の食堂である。
金曜日。海上自衛隊において、この曜日は絶対的な意味を持つ。
長い航海の中で曜日感覚を失わないために制定された、海軍時代からの伝統。「金曜日はカレー」の日だ。
食堂の喧騒の中、坂上はトレイを持って列に並ぶ。
周囲の佐官や事務官たちが、彼に気づくとサッと道を空ける。「鉄壁の設計士(アーキテクト)」、「仁王のサカ」。そんな二つ名で呼ばれる彼に、気安く話しかける者はいない。
受け取ったのは「横須賀海軍カレー・コロッケ乗せ」。
彼は窓際の席に一人で座り、スプーンを握った。
一口、運ぶ。スパイスの刺激と、野菜の甘みが口内に広がる。
(……悪くない)
坂上は無言で咀嚼する。
彼の脳裏をよぎるのは、かつて特攻隊員として散った祖父のことだ。
燃料も、満足な機体も、そして帰る場所すら与えられず、精神論だけで死地へ向かわされた男たち。
(腹が減っては戦ができぬ、ではない。補給がなければ、戦場に立つ資格すらないのだ)
それが坂上の信念だった。
だからこそ彼は、現場(艦長)を退いた後、こうして後方支援と装備開発の道を選んだ。
人の命を、精神論という名の安っぽいチップで博打に使わせないために。鉄とシステムで、隊員の命を守るために。
カレーを平らげ、冷たい水を飲み干す。
所要時間、わずか7分。
彼は立ち上がり、自席へと戻る前に、廊下の自販機でブラックコーヒーのロング缶を購入した。
執務室の隣にある仮眠スペース。
ここが彼の、数少ない安息の地だ。
薄暗い部屋のソファに深く体を沈める。
プシュッ、と小気味よい音を立てて缶を開け、漆黒の液体を流し込む。
カフェインが血管を駆け巡り、脳のシナプスを焼き直していく感覚。
続いて、ポケットから個包装された「コーヒーキャンディ」を取り出し、口に放り込む。
ガリッ。
静寂な部屋に、飴を噛み砕く硬質な音が響いた。
「……15分だけ、落ちるか」
坂上はスマートフォンのタイマーをセットする。
13時00分、起床予定。
午後の会議は財務省との折衝だ。頭をクリアにしておかねばならない。
目を閉じる。
意識が急速に沈殿していく。
背中の仁王像が、なぜか微かに熱を帯びているような気がした。
空調の音が遠ざかる。
代わりに、むっとするような湿気と、土の匂い、そして遠くで聞こえる蝉時雨のようなノイズが鼓膜を震わせ始めた。
それが、現代日本における坂上真一の、最後の記憶となった。
彼はまだ知らない。
次に目を開けた時、そこが冷房の効いた市ヶ谷ではなく、地獄の釜の底――1944年のビルマであることを。
そして自らが、最も忌み嫌う「精神論の権化」に成り代わっていることを。
タイマーのカウントダウンだけが、主のいない闇の中で静かに時を刻み続けていた。
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