2 / 14
EP 2
しおりを挟む
目覚めれば、そこはビルマの泥沼
暑い。
不快な、ねっとりとした湿気が全身にまとわりつく。
市ヶ谷の空調が故障したのか? いや、それにしてもこの空気の重さは異常だ。黴(かび)と、腐った植物、そして微かな線香の匂いが鼻孔を刺激する。
坂上真一は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な防音壁でも、システム設計図のモニターでもなかった。
高い天井。そこから吊り下げられた、色あせた蚊帳(かや)。
そして、窓の外から聞こえるのは、聞いたこともない極彩色の鳥の鳴き声と、遠くで響くトラックのエンジン音だ。
「……どこだ、ここは」
声を出す。
自分の声ではない。
喉に痰が絡んだような、少ししゃがれた、しかし妙に通りが良い太い声。
体を起こそうとして、坂上は違和感に息を呑んだ。
重い。
毎朝の剣術修練と走り込みで鋼のように鍛え上げたはずの肉体が、まるで鉛の塊のように鈍重だ。腹部にたっぷりとついた脂肪が、シャツ越しに揺れるのを感じる。
(筋力が落ちている……いや、これは俺の体か?)
坂上は慌てて自分の腕を見た。
そこに在るべき、陶芸で荒れた指先はない。あるのは、日焼けし、むくんだ中年男の手だ。
そして、背中。
あの「仁王」の刺青が彫られた皮膚が、奇妙なほど静かだ。いつものような、皮膚の下で暴れるような熱情を感じない。ただ、脂汗が流れる不快感だけがある。
彼は蚊帳を払いのけ、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がった。
板張りの床がきしむ。
部屋の隅、洗面台の上に小さな鏡が置かれているのが見えた。
坂上はよろめきながら、その鏡を覗き込む。
そこには、見知らぬ男が映っていた。
いや、「見知らぬ」ではない。
軍事史を学ぶ者ならば、誰もが一度は教科書で、あるいは戦記物の悪役として目にしたことのある顔。
特徴的なカイゼル髭。
禿げ上がった額。
傲慢さと小心さが同居したような、神経質そうな瞳。
「……嘘だろう」
坂上は戦慄した。
この顔を、俺は知っている。
日本陸軍史上、最も無謀で、最も兵站を軽視し、数万の将兵を白骨街道へと追いやった男。
戦後も生き延び、「私は悪くない」と言い続けた、ある種の怪物。
――第15軍司令官、牟田口廉也(むたぐち れんや)中将。
現代の自衛官として、最も忌み嫌い、反面教師としてきた男の中に、あろうことか自分が入り込んでいる。
「閣下! 起きておられますか!」
不意に、部屋の扉がノックもそこそこに開かれた。
入ってきたのは、軍刀を吊り、参謀飾緒をつけた小柄な男だ。顔には隠しきれない興奮が張り付いている。
坂上の脳内のデータベースが、即座にこの男の情報を検索する。
久野村桃代(くのむら ももよ)少将。第15軍参謀長。牟田口のイエスマンとして知られる男だ。
「閣下、朗報です! ついに、ついに来ましたぞ!」
久野村は、坂上の――いや、牟田口の顔色の悪さになど気づきもせず、一枚の電報用紙を掲げた。
「大本営より、ウ号作戦の認可が降りました! 方面軍も総軍も、もはや反対できません。これでインパールへ進撃できます! 閣下の悲願が叶うのです!」
――ウ号作戦。
通称、インパール作戦。
補給線を無視し、険しいアラカン山脈を越えてインドへ侵攻する、狂気の沙汰。
これから始まるのは、戦闘ではない。飢餓と疫病による虐殺だ。
坂上は眩暈(めまい)を覚えた。
よりによって、一番「ヤバい」タイミングだ。
作戦立案段階ならまだ止められたかもしれない。だが、認可が降りてしまった今、これを覆すことは軍の命令系統(チェーン・オブ・コマンド)そのものへの反逆となる。
「……閣下? いかがなさいました? 感激のあまり、言葉も出ませんか?」
久野村が不思議そうに首を傾げる。
坂上は、こみ上げる吐き気を飲み込んだ。
胃の奥が熱い。ブラックコーヒーが欲しい。カフェインで脳を焼き切りたい。だが、ここにあるのは泥のような現実だけだ。
彼はゆっくりと息を吐き出し、鏡の中の「愚将」と目を合わせた。
その瞳の奥に、かつてイージス艦の艦橋(ブリッジ)でミサイル警報を聞いた時と同じ、冷徹な光が灯る。
(……状況は最悪だ。装備は旧式、補給計画はゼロ、部下は精神論者ばかり)
坂上は、震える手で久野村から電報用紙を受け取った。
紙の感触は粗悪だが、そこに書かれた文字は、何万人もの死刑執行命令書に等しい。
(だが、俺がいる)
鏡の中の牟田口が、微かに口角を上げたように見えた。それは、かつて「仁王」を背負った男が見せた、覚悟の笑みだった。
「……久野村参謀長」
低い声が出た。
久野村がビクリと肩を震わせる。いつものヒステリックな甲高い声とは違う、腹の底から響くようなドスの効いた声色。
「直ちに幕僚を全員集めろ。作戦要綱の『細部』について、重大な変更を伝える」
「は、変更……ですか? 認可が降りたばかりですが」
「そうだ。……我々が目指すのは、ただの勝利ではない」
坂上は、背中の(見えない)仁王に問いかけるように、言い放った。
「完全なる勝利だ。一兵たりとも無駄死にはさせん。……行くぞ」
昭和19年1月。ビルマ、メイミョー。
歴史の歯車が、一人の「未来人」という異物を噛み込み、悲鳴を上げて逆回転を始めようとしていた。
暑い。
不快な、ねっとりとした湿気が全身にまとわりつく。
市ヶ谷の空調が故障したのか? いや、それにしてもこの空気の重さは異常だ。黴(かび)と、腐った植物、そして微かな線香の匂いが鼻孔を刺激する。
坂上真一は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な防音壁でも、システム設計図のモニターでもなかった。
高い天井。そこから吊り下げられた、色あせた蚊帳(かや)。
そして、窓の外から聞こえるのは、聞いたこともない極彩色の鳥の鳴き声と、遠くで響くトラックのエンジン音だ。
「……どこだ、ここは」
声を出す。
自分の声ではない。
喉に痰が絡んだような、少ししゃがれた、しかし妙に通りが良い太い声。
体を起こそうとして、坂上は違和感に息を呑んだ。
重い。
毎朝の剣術修練と走り込みで鋼のように鍛え上げたはずの肉体が、まるで鉛の塊のように鈍重だ。腹部にたっぷりとついた脂肪が、シャツ越しに揺れるのを感じる。
(筋力が落ちている……いや、これは俺の体か?)
坂上は慌てて自分の腕を見た。
そこに在るべき、陶芸で荒れた指先はない。あるのは、日焼けし、むくんだ中年男の手だ。
そして、背中。
あの「仁王」の刺青が彫られた皮膚が、奇妙なほど静かだ。いつものような、皮膚の下で暴れるような熱情を感じない。ただ、脂汗が流れる不快感だけがある。
彼は蚊帳を払いのけ、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がった。
板張りの床がきしむ。
部屋の隅、洗面台の上に小さな鏡が置かれているのが見えた。
坂上はよろめきながら、その鏡を覗き込む。
そこには、見知らぬ男が映っていた。
いや、「見知らぬ」ではない。
軍事史を学ぶ者ならば、誰もが一度は教科書で、あるいは戦記物の悪役として目にしたことのある顔。
特徴的なカイゼル髭。
禿げ上がった額。
傲慢さと小心さが同居したような、神経質そうな瞳。
「……嘘だろう」
坂上は戦慄した。
この顔を、俺は知っている。
日本陸軍史上、最も無謀で、最も兵站を軽視し、数万の将兵を白骨街道へと追いやった男。
戦後も生き延び、「私は悪くない」と言い続けた、ある種の怪物。
――第15軍司令官、牟田口廉也(むたぐち れんや)中将。
現代の自衛官として、最も忌み嫌い、反面教師としてきた男の中に、あろうことか自分が入り込んでいる。
「閣下! 起きておられますか!」
不意に、部屋の扉がノックもそこそこに開かれた。
入ってきたのは、軍刀を吊り、参謀飾緒をつけた小柄な男だ。顔には隠しきれない興奮が張り付いている。
坂上の脳内のデータベースが、即座にこの男の情報を検索する。
久野村桃代(くのむら ももよ)少将。第15軍参謀長。牟田口のイエスマンとして知られる男だ。
「閣下、朗報です! ついに、ついに来ましたぞ!」
久野村は、坂上の――いや、牟田口の顔色の悪さになど気づきもせず、一枚の電報用紙を掲げた。
「大本営より、ウ号作戦の認可が降りました! 方面軍も総軍も、もはや反対できません。これでインパールへ進撃できます! 閣下の悲願が叶うのです!」
――ウ号作戦。
通称、インパール作戦。
補給線を無視し、険しいアラカン山脈を越えてインドへ侵攻する、狂気の沙汰。
これから始まるのは、戦闘ではない。飢餓と疫病による虐殺だ。
坂上は眩暈(めまい)を覚えた。
よりによって、一番「ヤバい」タイミングだ。
作戦立案段階ならまだ止められたかもしれない。だが、認可が降りてしまった今、これを覆すことは軍の命令系統(チェーン・オブ・コマンド)そのものへの反逆となる。
「……閣下? いかがなさいました? 感激のあまり、言葉も出ませんか?」
久野村が不思議そうに首を傾げる。
坂上は、こみ上げる吐き気を飲み込んだ。
胃の奥が熱い。ブラックコーヒーが欲しい。カフェインで脳を焼き切りたい。だが、ここにあるのは泥のような現実だけだ。
彼はゆっくりと息を吐き出し、鏡の中の「愚将」と目を合わせた。
その瞳の奥に、かつてイージス艦の艦橋(ブリッジ)でミサイル警報を聞いた時と同じ、冷徹な光が灯る。
(……状況は最悪だ。装備は旧式、補給計画はゼロ、部下は精神論者ばかり)
坂上は、震える手で久野村から電報用紙を受け取った。
紙の感触は粗悪だが、そこに書かれた文字は、何万人もの死刑執行命令書に等しい。
(だが、俺がいる)
鏡の中の牟田口が、微かに口角を上げたように見えた。それは、かつて「仁王」を背負った男が見せた、覚悟の笑みだった。
「……久野村参謀長」
低い声が出た。
久野村がビクリと肩を震わせる。いつものヒステリックな甲高い声とは違う、腹の底から響くようなドスの効いた声色。
「直ちに幕僚を全員集めろ。作戦要綱の『細部』について、重大な変更を伝える」
「は、変更……ですか? 認可が降りたばかりですが」
「そうだ。……我々が目指すのは、ただの勝利ではない」
坂上は、背中の(見えない)仁王に問いかけるように、言い放った。
「完全なる勝利だ。一兵たりとも無駄死にはさせん。……行くぞ」
昭和19年1月。ビルマ、メイミョー。
歴史の歯車が、一人の「未来人」という異物を噛み込み、悲鳴を上げて逆回転を始めようとしていた。
10
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる