3 / 14
EP 3
しおりを挟む
狂気の「ジンギスカン作戦」
第15軍司令部の作戦室は、安いたばこの煙と、男たちの脂ぎった体臭で飽和していた。
壁一面に貼られた地図。
そこには、赤い矢印が幾重にも書き込まれ、アラカン山脈を越えてインド・インパールへ至る「夢のルート」が示されている。
現代の海上自衛隊のブリーフィング・ルームとは似ても似つかない。
ここには、空調もなければ、デジタルデータもない。あるのは「必勝」という名の妄想と、机上の空論だけだ。
「閣下、ご提案申し上げた『ジンギスカン作戦』の詳細計画であります!」
唾を飛ばしながら説明するのは、作戦参謀の某少佐だ。
彼の目は異様な光を帯びていた。
「牛や羊を数千頭調達し、弾薬や糧食を運搬させます。そして、いざとなればその家畜を食料とすればよいのです! これならば、補給線が伸びきっても問題ありません。まさに一石二鳥、名案中の名案かと!」
周囲の幕僚たちが、どっと沸く。
「素晴らしい」「これぞ日本軍の知恵だ」と賛辞が飛ぶ。
上座に座る坂上真一(外見は牟田口廉也)は、組んだ腕の中で拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
怒りで血管が切れそうだ。
(……馬鹿か、貴様らは)
坂上の脳内で、現代のロジスティクス計算ソフトが瞬時に解答を弾き出していた。
――牛一頭に必要な飼料と水は、兵士数人分に相当する。
――ジャングルの急峻な山道で、牛の歩行速度は人間の半分以下。
――渡河作戦で牛が流されれば、物資もろともロスト。
――そもそも、牛が食べる牧草が、ジャングルのどこにある?
これは作戦ではない。ただの「動物虐待を伴うピクニック」だ。
しかも、史実ではこの牛たちはチンドウィン川を渡る際に大半が流され、あるいは崖から落ち、あるいは米軍の爆撃でパニックを起こして逃げ去り、兵士たちは何も持たずに敵前へ放り出されたのだ。
「閣下? いかがなさいました?」
沈黙を続ける牟田口(坂上)に、参謀が訝しげな顔を向ける。
かつての牟田口なら、「うむ、やれ!」と即決しただろう。
だが、今の坂上は違う。
彼はゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な音を立てる。
その巨体がゆらりと揺れると、部屋の空気が凍りついた。
178cmの現代人の魂が、160cm台の牟田口の体を内側から膨張させているような、得体の知れない威圧感。
「……貴様」
坂上は、説明していた少佐の前に歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「ひっ、か、閣下!?」
「貴様は牛を飼ったことがあるのか?」
「は? い、いえ……」
「俺はある」
嘘だ。坂上にあるのは「こんごう」型護衛艦の操艦経験と、趣味の陶芸だけだ。だが、ハッタリの強度はイージス艦の装甲並みである。
「牛は水を飲む。大量にな。草も食う。山道で牛が歩ける幅がどこにある? 牛が歩く速度に合わせて、兵を進めるつもりか? それとも、兵の糧食を削って牛に食わせるつもりか?」
「そ、それは現地で適当に草を……」
「適当、だと?」
ドォン!!
坂上の拳が、作戦卓を叩き割らんばかりに振り下ろされた。
地図上の「インパール」の文字の上に、ひびが入った湯呑みが転がる。
「戦争は『適当』で勝てるものではないッ! ロジスティクス(兵站)とは科学だ! 計算だ! 貴様らの頭の中には、精神論という名のカビが生えているのか!」
一喝。
作戦室が静まり返る。
全員が目を丸くしていた。
牟田口廉也といえば、「精神論の権化」であり、「補給など敵から奪え」と豪語していた男だ。その口から「ロジスティクスは科学だ」などという言葉が出るとは、誰も予想していなかった。
「で、ですが閣下! この作戦は、閣下が以前『これしかない』と……」
久野村参謀長が恐る恐る口を挟む。
痛いところを突かれた。確かに、この狂気の作戦を立案したのは、他ならぬ「以前の牟田口」だ。
坂上は、冷や汗を隠して鼻を鳴らした。
ここで怯んではいけない。
彼は、北辰一刀流の呼吸法で気を整え、眼光を鋭く細めた。かつて部下がミスをした際に見せた、あの「仁王」の目だ。
「……だから、貴様らは『二流』なのだ」
低い声で、彼は切り捨てた。
「俺が以前言ったのは、あくまで『敵を油断させるための欺瞞』だ。本気で牛を連れて行く馬鹿がどこにいる」
「は、はあ!? 欺瞞、ですか!?」
「そうだ。英軍は我々を野蛮人だと思っている。だから『家畜を連れてのろのろ来る』と思わせておくのだ。……だが、実際は違う」
坂上は地図の上を指でなぞった。
その指先は、牛が通るルートではなく、より隠密性が高く、かつ補給拠点を構築可能なポイントを正確に示していた。
「牛は却下だ。一頭も連れて行かん。現地住民からの徴発も禁止する」
「なっ……では、荷物はどう運ぶのですか! トラックも足りません!」
「ないなら作れ。……いや、違うな」
坂上は、ポケットから無意識にコーヒーキャンディを探そうとして、空振った。舌打ちをし、代わりに机の上にあった鉛筆をへし折る。
「運ばなくていい場所まで、あらかじめ(・・・・)運んでおくのだ。開戦前に」
「は?」
「佐藤(賢了)師団長を呼べ。それから、工兵隊の責任者もだ。……これから、この『ジンギスカン作戦』を、すべて白紙に戻す」
幕僚たちは顔を見合わせた。
混乱している。だが、不思議と反論する者はいなかった。
目の前の牟田口廉也からは、これまで感じたことのない、「勝てる指揮官」特有の、冷たく澄んだ殺気が放たれていたからだ。
「……何をしている。さっさと動け!」
「は、はいッ!」
慌ただしく動き出す作戦室。
その喧騒の中で、坂上は一人、額の脂汗をぬぐった。
心臓が早鐘を打っている。
(危なかった……。とりあえず牛は止めた。だが、根本的な問題は何も解決していない)
食料がない現実は変わらない。
トラックもない。
制空権もない。
あるのは、数万の兵士の命と、3ヶ月後に迫る雨季(モンスーン)だけ。
(コーヒーが飲みたい……)
切実にそう願いながら、坂上は「地獄の撤退戦」を「勝利の行軍」へと書き換えるための、孤独なパズルに取り掛かった。
第15軍司令部の作戦室は、安いたばこの煙と、男たちの脂ぎった体臭で飽和していた。
壁一面に貼られた地図。
そこには、赤い矢印が幾重にも書き込まれ、アラカン山脈を越えてインド・インパールへ至る「夢のルート」が示されている。
現代の海上自衛隊のブリーフィング・ルームとは似ても似つかない。
ここには、空調もなければ、デジタルデータもない。あるのは「必勝」という名の妄想と、机上の空論だけだ。
「閣下、ご提案申し上げた『ジンギスカン作戦』の詳細計画であります!」
唾を飛ばしながら説明するのは、作戦参謀の某少佐だ。
彼の目は異様な光を帯びていた。
「牛や羊を数千頭調達し、弾薬や糧食を運搬させます。そして、いざとなればその家畜を食料とすればよいのです! これならば、補給線が伸びきっても問題ありません。まさに一石二鳥、名案中の名案かと!」
周囲の幕僚たちが、どっと沸く。
「素晴らしい」「これぞ日本軍の知恵だ」と賛辞が飛ぶ。
上座に座る坂上真一(外見は牟田口廉也)は、組んだ腕の中で拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
怒りで血管が切れそうだ。
(……馬鹿か、貴様らは)
坂上の脳内で、現代のロジスティクス計算ソフトが瞬時に解答を弾き出していた。
――牛一頭に必要な飼料と水は、兵士数人分に相当する。
――ジャングルの急峻な山道で、牛の歩行速度は人間の半分以下。
――渡河作戦で牛が流されれば、物資もろともロスト。
――そもそも、牛が食べる牧草が、ジャングルのどこにある?
これは作戦ではない。ただの「動物虐待を伴うピクニック」だ。
しかも、史実ではこの牛たちはチンドウィン川を渡る際に大半が流され、あるいは崖から落ち、あるいは米軍の爆撃でパニックを起こして逃げ去り、兵士たちは何も持たずに敵前へ放り出されたのだ。
「閣下? いかがなさいました?」
沈黙を続ける牟田口(坂上)に、参謀が訝しげな顔を向ける。
かつての牟田口なら、「うむ、やれ!」と即決しただろう。
だが、今の坂上は違う。
彼はゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な音を立てる。
その巨体がゆらりと揺れると、部屋の空気が凍りついた。
178cmの現代人の魂が、160cm台の牟田口の体を内側から膨張させているような、得体の知れない威圧感。
「……貴様」
坂上は、説明していた少佐の前に歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「ひっ、か、閣下!?」
「貴様は牛を飼ったことがあるのか?」
「は? い、いえ……」
「俺はある」
嘘だ。坂上にあるのは「こんごう」型護衛艦の操艦経験と、趣味の陶芸だけだ。だが、ハッタリの強度はイージス艦の装甲並みである。
「牛は水を飲む。大量にな。草も食う。山道で牛が歩ける幅がどこにある? 牛が歩く速度に合わせて、兵を進めるつもりか? それとも、兵の糧食を削って牛に食わせるつもりか?」
「そ、それは現地で適当に草を……」
「適当、だと?」
ドォン!!
坂上の拳が、作戦卓を叩き割らんばかりに振り下ろされた。
地図上の「インパール」の文字の上に、ひびが入った湯呑みが転がる。
「戦争は『適当』で勝てるものではないッ! ロジスティクス(兵站)とは科学だ! 計算だ! 貴様らの頭の中には、精神論という名のカビが生えているのか!」
一喝。
作戦室が静まり返る。
全員が目を丸くしていた。
牟田口廉也といえば、「精神論の権化」であり、「補給など敵から奪え」と豪語していた男だ。その口から「ロジスティクスは科学だ」などという言葉が出るとは、誰も予想していなかった。
「で、ですが閣下! この作戦は、閣下が以前『これしかない』と……」
久野村参謀長が恐る恐る口を挟む。
痛いところを突かれた。確かに、この狂気の作戦を立案したのは、他ならぬ「以前の牟田口」だ。
坂上は、冷や汗を隠して鼻を鳴らした。
ここで怯んではいけない。
彼は、北辰一刀流の呼吸法で気を整え、眼光を鋭く細めた。かつて部下がミスをした際に見せた、あの「仁王」の目だ。
「……だから、貴様らは『二流』なのだ」
低い声で、彼は切り捨てた。
「俺が以前言ったのは、あくまで『敵を油断させるための欺瞞』だ。本気で牛を連れて行く馬鹿がどこにいる」
「は、はあ!? 欺瞞、ですか!?」
「そうだ。英軍は我々を野蛮人だと思っている。だから『家畜を連れてのろのろ来る』と思わせておくのだ。……だが、実際は違う」
坂上は地図の上を指でなぞった。
その指先は、牛が通るルートではなく、より隠密性が高く、かつ補給拠点を構築可能なポイントを正確に示していた。
「牛は却下だ。一頭も連れて行かん。現地住民からの徴発も禁止する」
「なっ……では、荷物はどう運ぶのですか! トラックも足りません!」
「ないなら作れ。……いや、違うな」
坂上は、ポケットから無意識にコーヒーキャンディを探そうとして、空振った。舌打ちをし、代わりに机の上にあった鉛筆をへし折る。
「運ばなくていい場所まで、あらかじめ(・・・・)運んでおくのだ。開戦前に」
「は?」
「佐藤(賢了)師団長を呼べ。それから、工兵隊の責任者もだ。……これから、この『ジンギスカン作戦』を、すべて白紙に戻す」
幕僚たちは顔を見合わせた。
混乱している。だが、不思議と反論する者はいなかった。
目の前の牟田口廉也からは、これまで感じたことのない、「勝てる指揮官」特有の、冷たく澄んだ殺気が放たれていたからだ。
「……何をしている。さっさと動け!」
「は、はいッ!」
慌ただしく動き出す作戦室。
その喧騒の中で、坂上は一人、額の脂汗をぬぐった。
心臓が早鐘を打っている。
(危なかった……。とりあえず牛は止めた。だが、根本的な問題は何も解決していない)
食料がない現実は変わらない。
トラックもない。
制空権もない。
あるのは、数万の兵士の命と、3ヶ月後に迫る雨季(モンスーン)だけ。
(コーヒーが飲みたい……)
切実にそう願いながら、坂上は「地獄の撤退戦」を「勝利の行軍」へと書き換えるための、孤独なパズルに取り掛かった。
10
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる