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EP 6
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コーヒーがない世界
ズキ、ズキ、ズキ。
坂上真一の鈍重な肉体(牟田口の体)の奥底で、警報音が鳴り響いていた。
頭痛だ。
現代の海上自衛隊において、「重度のカフェイン中毒」として知られていた彼の脳が、燃料切れの悲鳴を上げているのである。
(……思考のレーダーにノイズが混じる。索敵効率が低下しているぞ)
坂上は、執務机に突っ伏しそうになるのを必死に堪え、こめかみを揉んだ。
前世――いや、数時間前まで彼がいた現代日本ならば、防衛省の自販機でブラックコーヒーのロング缶を買い、ポケットのライオネスコーヒーキャンディをガリガリと噛み砕けば済む話だった。
あの強烈な苦味とカフェインが、北辰一刀流の修練で研ぎ澄まされた彼の精神を、さらに鋭利な「システム」へと昇華させていたのだ。
だが、ここは昭和19年のビルマのジャングルである。
目の前にあるのは、当番兵が淹れた、出涸らしのように薄い日本茶だけだった。
「閣下、お加減でも悪いのですか?」
書類仕事を手伝っていた若い副官が、心配そうに覗き込んでくる。
「……いや。何でもない」
坂上は薄い茶をすする。生ぬるく、何の刺激もない。これでは、何万という将兵を死地から生還させるための、巨大な兵站パズルを解き明かすことはできない。
「おい、副官。この部隊に、珈琲……いや、せめて何か強烈に『苦い』ものはないか? 脳を叩き起こすための起爆剤が要る」
「は、苦いもの、ですか? 珈琲などという贅沢品は、前線の司令部には……あ、ですが、現地民が飲んでいる『焦がした木の実の煮汁』ならば、調達できるかと」
「泥のように濃く煮出して、今すぐ持ってこい」
「は、ハッ!」
副官が慌てて部屋を飛び出していく。
坂上はため息をつき、立ち上がった。座っていても頭が回らない。彼は重い体を引きずり、司令部の外へと視察に出ることにした。
外は、まとわりつくような熱帯の湿気に支配されていた。
駐屯地内では、出撃準備に追われる兵士たちが慌ただしく動き回っている。
その時、坂上の視界の端に、信じられない光景が飛び込んできた。
数人の若い兵士が、手桶に汲んできた近くの川の水を、そのままゴクゴクと飲もうとしているではないか。
「――貴様らッ!! 何をしている!!」
坂上の怒号が、駐屯地に雷鳴のように轟いた。
北辰一刀流の達人が放つ、腹の底からの咆哮。水を飲もうとしていた兵士たちは、ビクゥッ! と飛び上がり、手桶を落として直立不動になった。
「し、司令官閣下!!」
「その水はなんだ! 煮沸したのか!」
「い、いえ! 喉が渇きまして、つい……我々日本兵の胃腸は頑健でありますから、現地の水など問題ないと上官殿から……」
坂上の顔から、スッと感情が消えた。
冷たい、能面のような怒り。かつてイージス艦の艦橋で、致命的なミスを犯した部下に向ける「絶対零度の艦長」の顔だ。
(……馬鹿め。インパール作戦における最大の敵は、イギリス軍ではない。赤痢、マラリア、コレラ……『病』だ)
史実において、日本兵の死者の大半は、戦闘ではなく病死と餓死だった。不衛生な生水など、自ら毒を呷るに等しい。
「その上官を呼べ。後で私が直々に拳で教育してやる」
「ひっ……!」
「いいか。今後、生水を飲んだ者は軍規違反で処罰する。水は必ず火を通せ。……だが」
坂上は周囲を見渡した。
行軍中にいちいち火を焚いて水を沸かす余裕など、常にあるわけではない。携帯用の浄水剤も、この時代の日本軍には絶望的に不足している。
根本的な解決策が必要だ。
その時、彼の目に留まったものがあった。
現地の住民から徴用したと思われる、水を溜めておくための大きな「素焼きの壺」だ。
「……おい」
坂上はふらふらと壺に近づき、その表面を手で撫でた。
ザラリとした感触。
彼の左手の指先が、微かにピクンと反応した。
(土は……嘘をつかない)
坂上の唯一にして最大の趣味、それは「陶芸」である。
週末は横須賀の山奥の工房に籠もり、備前や萩の土を捏ね、ろくろを回す。階級も背中の「仁王」も忘れられる、唯一の時間だった。
その陶芸家の指先が、ビルマの土の性質を瞬時に読み取っていた。
「工兵隊の将校を呼べ! 今すぐだ!」
数分後、息を切らして駆けつけた工兵少佐に対し、坂上は壺の欠片を突きつけた。
「この周辺の土は、珪藻土(けいそうど)に近い成分を含んでいるな?」
「は、はい! おそらく、細かい気孔の多い土質かと……なぜ閣下がそのようなことを?」
「いいから聞け。この土を使い、細かい砂と木炭を混ぜて、筒状の『素焼きのフィルター(濾過器)』を大量生産しろ」
「素焼きの、濾過器ですか?」
「そうだ。低温で焼いた素焼きの陶器は、目に見えない微細な穴が無数に開く。そこに水を通せば、泥や不純物だけでなく、赤痢菌などの細菌類もある程度物理的にトラップできる。現代……いや、欧米の最新鋭の浄水技術だ」
事実、セラミックフィルターによる水の濾過は、近代から使われている有効な浄水手段である。それを現地の土と、部隊が持つ野戦築城の技術(窯作り)で現地生産させる。
これこそが、技術開発部門出身にして陶芸家の坂上だからこそ思いつく、超実践的サバイバル術だった。
「部隊ごとに、これを携帯させろ。煮沸できない時は、必ずこのフィルターを通した水を飲ませる。泥水をすするより、生存確率は飛躍的に跳ね上がるはずだ」
「な、なるほど……! 陶器の気孔を利用した浄水器……! 素晴らしい着眼点です、閣下! 直ちに試作に取り掛かります!」
工兵少佐は、尊敬の眼差しで敬礼し、走り去っていった。
それを見送りながら、坂上は額の汗を拭った。
(……よし。これで赤痢の発生率は、史実より劇的に抑え込めるはずだ。あとは抗マラリア薬(キニーネ)の確保だが……)
そこまで思考を回したところで、先ほどの副官が、黒っぽい液体の入ったマグカップを両手で大切そうに抱えて戻ってきた。
「閣下! 現地民の村から、木の実を黒焦げに煎った汁をもらってまいりました! 言われた通り、泥のように濃く煮出してあります!」
マグカップからは、焦げたタイヤのような、強烈に泥臭い匂いが漂っている。
珈琲とは似ても似つかない、ただの苦い汁だ。
だが、今の坂上にとっては、それが唯一の「燃料(ロマン)」だった。
彼はマグカップを受け取ると、無骨な分厚い装甲板のような手つきでそれを持ち、一気に喉の奥へ流し込んだ。
「――――ッ!!」
強烈な苦味と、えぐみ。
舌が痺れ、胃袋が痙攣しそうになる。だが、その暴力的なまでの刺激が、霞みかかっていた坂上の脳のシナプスを、バチッ! と強制的に接続した。
「……悪くない」
坂上は、口元を拭い、ニヤリと笑った。
その顔は、間違いなく牟田口廉也のものでありながら、纏う空気は完全に「仁王のサカ」のそれであった。
「さあ、仕事に戻るぞ。大本営の阿呆どもに送る、極上の『偽装報告書(フェイク)』を書き上げる時間だ」
コーヒーなき世界で、代替品の苦味をガソリンに変え。
エリート自衛官の孤独な防衛戦は、静かに、そして確実に陣地を広げつつあった。
ズキ、ズキ、ズキ。
坂上真一の鈍重な肉体(牟田口の体)の奥底で、警報音が鳴り響いていた。
頭痛だ。
現代の海上自衛隊において、「重度のカフェイン中毒」として知られていた彼の脳が、燃料切れの悲鳴を上げているのである。
(……思考のレーダーにノイズが混じる。索敵効率が低下しているぞ)
坂上は、執務机に突っ伏しそうになるのを必死に堪え、こめかみを揉んだ。
前世――いや、数時間前まで彼がいた現代日本ならば、防衛省の自販機でブラックコーヒーのロング缶を買い、ポケットのライオネスコーヒーキャンディをガリガリと噛み砕けば済む話だった。
あの強烈な苦味とカフェインが、北辰一刀流の修練で研ぎ澄まされた彼の精神を、さらに鋭利な「システム」へと昇華させていたのだ。
だが、ここは昭和19年のビルマのジャングルである。
目の前にあるのは、当番兵が淹れた、出涸らしのように薄い日本茶だけだった。
「閣下、お加減でも悪いのですか?」
書類仕事を手伝っていた若い副官が、心配そうに覗き込んでくる。
「……いや。何でもない」
坂上は薄い茶をすする。生ぬるく、何の刺激もない。これでは、何万という将兵を死地から生還させるための、巨大な兵站パズルを解き明かすことはできない。
「おい、副官。この部隊に、珈琲……いや、せめて何か強烈に『苦い』ものはないか? 脳を叩き起こすための起爆剤が要る」
「は、苦いもの、ですか? 珈琲などという贅沢品は、前線の司令部には……あ、ですが、現地民が飲んでいる『焦がした木の実の煮汁』ならば、調達できるかと」
「泥のように濃く煮出して、今すぐ持ってこい」
「は、ハッ!」
副官が慌てて部屋を飛び出していく。
坂上はため息をつき、立ち上がった。座っていても頭が回らない。彼は重い体を引きずり、司令部の外へと視察に出ることにした。
外は、まとわりつくような熱帯の湿気に支配されていた。
駐屯地内では、出撃準備に追われる兵士たちが慌ただしく動き回っている。
その時、坂上の視界の端に、信じられない光景が飛び込んできた。
数人の若い兵士が、手桶に汲んできた近くの川の水を、そのままゴクゴクと飲もうとしているではないか。
「――貴様らッ!! 何をしている!!」
坂上の怒号が、駐屯地に雷鳴のように轟いた。
北辰一刀流の達人が放つ、腹の底からの咆哮。水を飲もうとしていた兵士たちは、ビクゥッ! と飛び上がり、手桶を落として直立不動になった。
「し、司令官閣下!!」
「その水はなんだ! 煮沸したのか!」
「い、いえ! 喉が渇きまして、つい……我々日本兵の胃腸は頑健でありますから、現地の水など問題ないと上官殿から……」
坂上の顔から、スッと感情が消えた。
冷たい、能面のような怒り。かつてイージス艦の艦橋で、致命的なミスを犯した部下に向ける「絶対零度の艦長」の顔だ。
(……馬鹿め。インパール作戦における最大の敵は、イギリス軍ではない。赤痢、マラリア、コレラ……『病』だ)
史実において、日本兵の死者の大半は、戦闘ではなく病死と餓死だった。不衛生な生水など、自ら毒を呷るに等しい。
「その上官を呼べ。後で私が直々に拳で教育してやる」
「ひっ……!」
「いいか。今後、生水を飲んだ者は軍規違反で処罰する。水は必ず火を通せ。……だが」
坂上は周囲を見渡した。
行軍中にいちいち火を焚いて水を沸かす余裕など、常にあるわけではない。携帯用の浄水剤も、この時代の日本軍には絶望的に不足している。
根本的な解決策が必要だ。
その時、彼の目に留まったものがあった。
現地の住民から徴用したと思われる、水を溜めておくための大きな「素焼きの壺」だ。
「……おい」
坂上はふらふらと壺に近づき、その表面を手で撫でた。
ザラリとした感触。
彼の左手の指先が、微かにピクンと反応した。
(土は……嘘をつかない)
坂上の唯一にして最大の趣味、それは「陶芸」である。
週末は横須賀の山奥の工房に籠もり、備前や萩の土を捏ね、ろくろを回す。階級も背中の「仁王」も忘れられる、唯一の時間だった。
その陶芸家の指先が、ビルマの土の性質を瞬時に読み取っていた。
「工兵隊の将校を呼べ! 今すぐだ!」
数分後、息を切らして駆けつけた工兵少佐に対し、坂上は壺の欠片を突きつけた。
「この周辺の土は、珪藻土(けいそうど)に近い成分を含んでいるな?」
「は、はい! おそらく、細かい気孔の多い土質かと……なぜ閣下がそのようなことを?」
「いいから聞け。この土を使い、細かい砂と木炭を混ぜて、筒状の『素焼きのフィルター(濾過器)』を大量生産しろ」
「素焼きの、濾過器ですか?」
「そうだ。低温で焼いた素焼きの陶器は、目に見えない微細な穴が無数に開く。そこに水を通せば、泥や不純物だけでなく、赤痢菌などの細菌類もある程度物理的にトラップできる。現代……いや、欧米の最新鋭の浄水技術だ」
事実、セラミックフィルターによる水の濾過は、近代から使われている有効な浄水手段である。それを現地の土と、部隊が持つ野戦築城の技術(窯作り)で現地生産させる。
これこそが、技術開発部門出身にして陶芸家の坂上だからこそ思いつく、超実践的サバイバル術だった。
「部隊ごとに、これを携帯させろ。煮沸できない時は、必ずこのフィルターを通した水を飲ませる。泥水をすするより、生存確率は飛躍的に跳ね上がるはずだ」
「な、なるほど……! 陶器の気孔を利用した浄水器……! 素晴らしい着眼点です、閣下! 直ちに試作に取り掛かります!」
工兵少佐は、尊敬の眼差しで敬礼し、走り去っていった。
それを見送りながら、坂上は額の汗を拭った。
(……よし。これで赤痢の発生率は、史実より劇的に抑え込めるはずだ。あとは抗マラリア薬(キニーネ)の確保だが……)
そこまで思考を回したところで、先ほどの副官が、黒っぽい液体の入ったマグカップを両手で大切そうに抱えて戻ってきた。
「閣下! 現地民の村から、木の実を黒焦げに煎った汁をもらってまいりました! 言われた通り、泥のように濃く煮出してあります!」
マグカップからは、焦げたタイヤのような、強烈に泥臭い匂いが漂っている。
珈琲とは似ても似つかない、ただの苦い汁だ。
だが、今の坂上にとっては、それが唯一の「燃料(ロマン)」だった。
彼はマグカップを受け取ると、無骨な分厚い装甲板のような手つきでそれを持ち、一気に喉の奥へ流し込んだ。
「――――ッ!!」
強烈な苦味と、えぐみ。
舌が痺れ、胃袋が痙攣しそうになる。だが、その暴力的なまでの刺激が、霞みかかっていた坂上の脳のシナプスを、バチッ! と強制的に接続した。
「……悪くない」
坂上は、口元を拭い、ニヤリと笑った。
その顔は、間違いなく牟田口廉也のものでありながら、纏う空気は完全に「仁王のサカ」のそれであった。
「さあ、仕事に戻るぞ。大本営の阿呆どもに送る、極上の『偽装報告書(フェイク)』を書き上げる時間だ」
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