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第一章 星野恭子

第十三話 卑怯な男

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 大学三年の夏休みを、大輔は心ゆくまで堪能した。
 期間中は殆ど彼女の部屋で過ごし、彼女の家から予備校に通った。海水浴を兼ねた温泉旅行も十二分に満喫し、彼は念願の【彼女と海水浴】のイベントを達成した。

 お盆休みに帰省した姉は、「大学生の癖に、彼女と同棲なんて生意気」と火を噴いて怒ったが、浮かれた大輔には馬耳東風であった。
 彼の理想の大学生像は、着実に完璧なものに仕上がっていた。

 
 夏休みが明け、大学では後期の授業が始まった。
 九月下旬。東京はまだ夏のような暑さだった。

 この暑さの中、大学に向かう気などとてもなれなかったが、初日にサボるとサボり癖がついてしまう。
 汗をにじませながら登校した大輔だったが、目的の授業が急遽休講となり、見事に出鼻を挫かれる。

「恭子さん。今日これから、そっちに行くよ」
 携帯電話の留守電にメッセージを残しつつ、彼女の部屋に向かう。

 折角ここまで来たのだから、彼女の部屋に寄っていこう。
 彼女に会うのは、実に一週間ぶりだ。
 夏休みずっと彼女のアパートで寝泊まりしていたせいか、ものすごく久しぶりな感じがする。

 折り返しの電話かメールが来るかと期待していたが、着信のないまま彼女の部屋の前に到着してしまった。
 携帯電話を改めて確認してみるが、やはり着信はない。彼女の連絡無精は未だに健在だった。

 襷がけにしている鞄から、アヒルのキーホルダーの付いた鍵を取り出す。
 鍵を挿し込んで、ノブを回す。
 扉を引いて中を覗いた彼は、思わず声を呑んだ。

「えっ……なっ……」

 部屋の中に、何もない。
 彼女の姿はおろか、家具も照明もカーテンも、何もない。

 彼女の部屋は、空室になっていた。

「ちょ、ちょっと……なにこれ? どうなってるの?」
 誰に話しかけるでもなく、独り言を呟く。
 三歩下がって部屋番号を改めて確認するが、間違ってはいない。

 靴を脱ぎ捨てて部屋に上がる。
 ガランと広がった、フローリングの床。
 ベッドやクローゼットが置いてあった場所には僅かに痕跡が残っていて、ついこの間まで主が存在していたことを物語っていた。

 部屋の真ん中で、呆然と立ち尽くす。
 徐々に肩で呼吸を始める。

 どういうこと?
 これって、どういうこと?

 引っ越したってこと、だよな。
 俺に黙って、引っ越したってことだよな。

 携帯を取り出して、もう一度恭子に電話を掛ける。
 コール音が続いた後、留守番電話に切り替わる。

「恭子さん、今、部屋に来たよ。どういうこと? 今どこにいるの?」
 努めて冷静に喋る。

「引っ越したの? なんで教えてくれなかったの? なんで……」
 大きく息を吸う大輔。

「なんで勝手にいなくなるんだよ!!」

 ****

 大輔は大急ぎで駅に戻り、大学に引き返した。
 空き部屋から金子に電話をかけ、恭子が今大学にいると聞かされたからだ。

『冷静に話すって約束するなら、恭子に会わせてあげるよ』


 多摩動物公園駅から走ってトンネルを抜け、構内に向かって進む。
 運動があまり得意ではない大輔。すぐに息が切れ、脚が動かなくなる。
 それでも、休んでは走り休んでは走り。滝のような汗を流しながら、金子が指定した中央図書館に向かう。

 図書館の二階の入り口に、金子が立っていた。
「恭子、階段の下にいるよ」
 外階段を下った先を覗くと、恭子が所在なげに佇んでいるのが見える。

 無言で階段を降りようとすると、金子に腕を掴まれた。
「約束は守ってよ」
「そのつもりです」
 顎から汗を滴り落としつつも、落ち着いた口調で返す。

 一階に下りると、彼女はぎこちない笑顔を見せた。
 海で日焼けしたブロンズ色の彼女の肌に、真っ白いシャツが映えている。
 彼が数えきれないほど触れたその胸元には、ピンクゴールドのネックレスが光っていた。

 大輔は黙ったまま彼女の眼の前に立ち、ポケットから鍵を取り出した。恭子の部屋の鍵である。
「これ、返さないと大家さんに怒られるでしょ」

 日ごろから柔和な大輔であったが、その殊更泰然とした態度が、逆に彼の怒りを如実に表していた。
 
 恭子は彼と視線を合わせることなく、鍵を受け取る。
「留守電ですごく怒ってたから、怒鳴られるかと思った」
「電車に乗ってる間に、頭が冷えたよ」
 自嘲する大輔。

 本当は頭など全く冷えていない。
 今すぐ、胸につかえているものを全部吐きだしたいぐらいだ。
 しかし、構内で怒鳴るわけにはいかない。また金子に殴られるのがオチだ。

 彼女が黙って消えた理由は、なんとなく想像がつく。
 俺のことが、鬱陶しくなったんだろう。

 セックスだけの関係で十分満足なのに、海に連れて行かれたり、水族館や遊園地へ連れまわされたり。
 俺の理想とする【恋人と過ごす夏休み】に付き合わされて、時間も金も使わされて。こんな状態がこれから先も続くのかと、うんざりしたんだろう。事実彼女は、どこへ行っても、あまり楽しそうではなかった。

 その容姿ゆえにどこでも注目を集める彼女は、人目に付く場所に出かけることを嫌った。
 口先では「見られても気にしてない」と言っていたが、本心は違っていた。
 できれば目立たない場所で、極端に言えば自宅から一歩も出ずに、恋人と一緒の時間を過ごせればそれで良かった。
 
 だけど俺は、それじゃ満足できなかった。

 初めて彼女が出来て。嬉しくてたまらなくて。
 あちこちに連れ回して、見せびらかしたかった。

 彼女は、情夫を求めていた。
 俺は、アクセサリーのような恋人を求めていた。
 俺たちは、初めから求めるものが違っていたんだ。

 大輔は鞄のベルトを握り締め、彼女に問う。
「いつから?」
「え?」
「別れようって、いつから思ってた?」

 あちこちに視線を泳がしながら、恭子が答える。
「大輔君が……寝込んだあたりから」
「今年のゴールデンウィーク?」
「そう」
「そっか。結構前からだね」
「……うん」

 ここでようやく、大輔は額の汗を拭った。
「それだけ知りたかったから。じゃあ」
 踵を返して北門へ歩いていこうとすると、恭子が引き留める。

「『どうして』って……訊かないの?」

 彼女の言葉に、冷ややかな顔の大輔が振り返る。その顔は冷静と言うより、冷淡と表現するほうが適当であった。

「『どうして』? どうしてって、そりゃ『好きじゃなくなったから』じゃないの」
「……『そうじゃない』って言ったら?」
 
 彼女の返事に、大輔は眉を吊り上げて露骨に苛立った。
「なに? 『好きだけど、さようなら』とか言いたいの? やめてくれないかな、そういうの。振られる方からしたら、たまったもんじゃないよ」
 彼の中の地雷を踏んだと察した恭子は、顔を強張らせて押し黙る。
 
「じゃあ訊くけどさ、今でも俺のこと好きなの? だったら別れるのやめようよ」
「……」
「ほら、返せない。結局恭子さんは、綺麗に終わらせたいだけでしょ? でもね、それは振る側のエゴだよ」
「私、そんなつもりじゃ……」
 大きな瞳に涙を溜める恭子。

 大輔は唇を噛んだ。
 イヤだ。
 もう彼女の口から何も聞きたくない。
 もう彼女の泣き顔も見たくない。
 俺の頭から、彼女の記憶を消し去ってしまいたい。

 振られるって、こういうことなのか。
 傷つけられて、悲しみの針が振り切れてしまうと、相手の存在まで否定してしまうのか。

「ごめん。きつい言い方して。でも俺も動揺しているんだ」

 彼女のことが本気で好きだった。
 たしかに頑固なところはあったけど、それを覆い隠して余りあるほどの魅力が、彼女にはあった。

 胸が痛い。
 針で刺されているように、ズキズキと痛む。
 これは、失恋の痛みなのか、彼女を傷つけている痛みなのか。
 この痛みを、彼女も感じているのだろうか。

「恭子さん、ごめん。俺、もう行くよ」
「大輔君……」
 
 そんな顔しないで。
 振ったのは恭子さんの方なんだよ。
 俺は、君に振られたんだ。
  
「俺さ、恭子さんみたいに大人じゃないんだ。『いつまでも仲のいい友達で』なんて、とても言えない。ただ、恭子さんに会えて、一緒に居られて良かったよ。沢山いろんなこと教えてもらったし、楽しかった。ありがとう。それだけは言っておくよ」

 淡々と礼を述べる大輔にむけて、恭子が声を震わせる。
「大輔君。私、あなたのことが本当に好きだった。でも、私はあなたには相応しくないの。本当にごめんね」
 
 大輔は返事をせずに、彼女に背を向けて歩き出す。
 どうして言うんだよ。
 気づかないようにしていたのに。

 わかってるよ。本当はわかってる。
 君は俺のことを嫌ってなんかいない。
 鬱陶しいなんて思ってなんかいない。

 君は俺のために身を引いたんだ。
 俺の足を引っ張ってるって、思ったんだ。
 ゴールデンウィークに倒れて、俺が限界まで無理してるって、それが自分のせいだと思い込んで。
 このままじゃ俺が駄目になって、試験も落ちるって。
 
 俺は卑怯だ。
 そうだと分かっていながら、彼女に問い詰めなかった。

 心のどこかで、彼女とこのまま付き合い続けていたら、試験は無理かもしれないと思っていた。
 公務員を諦めないにしても、レベルは落とすべきかもしれないと、本当は考えていた。

 彼女が消えた時、どこかホッとしている自分がいた。
 それを、認めたくなかった。
 認められなかった。

「ごめん。恭子さん、俺のほうなんだ。君に相応しくないのは、俺の方なんだ」

 奥歯を噛み締めて、走り出す。
 額から汗が吹き出し、目に染みる。
 大輔は頬を伝う涙を拭い、トンネルをくぐった。
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