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第2話:癒やし手の来訪と、氷を溶かす滴
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ヴェイン侯爵が呪詛を吐きながら城を去った翌日。
灰色の空から冷たい霧雨が降る中、城の門を叩く者がいた。
応対に出た老執事のアルベルトは、訪問者の姿を見て怪訝な顔をした。
ロザリアの噂を聞きつけて来る男たちは、皆一様に豪奢な馬車に乗り、供回りを引き連れた権力者か、あるいは全身を鎧で固めた血気盛んな騎士ばかりだったからだ。
だが、目の前に立つ青年は、一頭の栗毛の馬に跨がり、質素な旅装束を纏っているだけだった。腰に剣すら帯びていない。
亜麻色の髪を無造作に後ろで結び、琥珀色の瞳は穏やかな光を湛えている。長身で引き締まった体躯をしているが、暴力の匂いは全くしなかった。
「……いかなるご用件でしょうか。ここはロザリア女公爵の居城。名もなき旅人を泊める宿ではありませんぞ」
アルベルトが冷たく言い放つ。
青年は、馬から降りて深く一礼した。
「突然の訪問、お許しください。私の名はシリル。……南の異国より参りました、『癒やし手』です」
「癒やし手……? 医者、ということですか?」
「ええ。体と、そして『心』の」
シリルは、琥珀色の瞳でアルベルトを真っ直ぐに見据えた。
「ロザリア様が、深い『眠り』の病に苦しんでおられると聞き及びました。……私ならば、彼女の感覚を呼び覚ますことができるかもしれません」
アルベルトは鼻で笑った。
「何たる傲慢。これまでどれほどの高名な医師が、あるいは『愛の達人』を自称する男たちが、お嬢様の氷を溶かせずに敗れ去ったと思っているのですか」
「彼らは『奪おう』としたからです」
シリルは静かに、しかし確かな響きで答えた。
「眠っている者から、強引に熱を奪おうとすれば、相手はさらに固く殻を閉ざす。……私は剣も、征服欲も持ち合わせていません。ただ、彼女に『与え』に来たのです」
その言葉には、不思議な説得力があった。
アルベルトは、この数年、氷の彫像のように生気を失っていく主の姿に心を痛めていた。ダメ元でもいい、この男の目に宿る「慈愛」のようなものに賭けてみようかという気になった。
「……よろしい。ですが、お嬢様が拒絶されたら、すぐにお引き取り願いますよ」
ロザリアの寝室に案内されたシリルは、部屋の空気が外の霧雨よりも冷たいことに気づいた。
物理的な温度ではない。そこにあるのは、生命活動を極限まで絞り切った、魂の冷たさだった。
ロザリアは、窓辺の長椅子に座っていた。
分厚いガウンを羽織り、窓の外の灰色の空を虚ろな目で見つめている。
背後でアルベルトがシリルを紹介しても、彼女は振り返りもしなかった。
「お初にお目にかかります、ロザリア様。シリルと申します」
シリルは、少し距離を置いて立ち、深々と頭を下げた。
ロザリアは、ようやく視線を動かした。
(また、愚かな男が来た)
彼女の心は、何の波立ちも見せなかった。少し整った顔立ちをしているが、どうせ今までの男たちと同じだ。甘い言葉を囁き、ドレスを剥ぎ取り、そして私の無反応さに絶望して逃げていくのだ。
「……好きになさい。私の体は、誰にも奪えないわ」
ロザリアは、氷のように冷たく、感情の欠落した声で呟いた。
「奪うつもりはありません」
シリルは、傍らの丸テーブルに、持参した小さな革の鞄を置いた。
「私は、貴女の『主治医』としてここに参りました。……少し、お側に寄ってもよろしいですか?」
ロザリアは無言で視線を外した。「拒絶しない」ということは、彼女なりの「許可」だったが、それはシリルに対する期待ではなく、無関心から来るものだった。
シリルは、長椅子の傍らに椅子を引き、腰を下ろした。
彼は、革鞄の中から美しい細工の施された瑠璃色の小瓶を取り出した。
「今日は、ご挨拶だけです。……貴女のその美しい右手を、少しだけ貸していただけますか?」
(手……?)
ロザリアは僅かに眉を動かした。
これまでの男たちは、皆一様に唇や胸、あるいは脚に執着した。手などという、性的な興奮から遠い部位を求めてきた男は初めてだった。
ロザリアが気怠げに右手を差し出すと、シリルはその下から自分の両手を添えるようにして、そっと受け止めた。
「……酷く冷たい。血の巡りが滞っているようですね」
シリルの手は、驚くほど温かかった。そして、少しだけ薬草と柑橘の混ざったような、爽やかな香りがした。
彼は小瓶の蓋を開け、透明な香油を数滴、自らの掌に落とした。そして、両手をこすり合わせて香油を体温で温めてから、ロザリアの手に触れた。
「少し、揉みほぐします」
シリルの親指が、ロザリアの手の甲を優しく滑る。
手首から指先へ、そして指の股、手のひらのツボへと、流れるような手つきで圧が加えられていく。
「…………」
ロザリアは、黙ってその様子を見下ろしていた。
(痛くは、ない)
香油の滑らかさと、シリルの指の適度な弾力が、凝り固まった筋肉と腱を的確に解していく。
それは、性的な愛撫とは全く異なる、純粋な「治療」の所作だった。
「どうですか? 力加減は」
シリルが、琥珀色の瞳でロザリアを見上げる。
その瞳には、下心や欲望の濁りは一切なく、ただ純粋な「患者への気遣い」だけがあった。
「……何も感じないわ」
ロザリアは事実を告げた。
「不感症なのです。痛みも、快感も、温もりも。……だから、無駄な努力よ」
ロザリアは、シリルがここで諦めるか、あるいは怒り出すだろうと予想した。
しかし、シリルは静かに微笑んだ。それは、春の陽だまりのように穏やかで、押し付けがましさのない笑みだった。
「無駄ではありません。……百年凍りついていた土が、一日の春風で溶けることはない。でも、風は確実に氷の表面を撫でているのです」
シリルの手技は、少しの乱れもなく続いた。
一本一本の指を丁寧にマッサージされ、血流が促される。
ロザリアは、本当に「快感」を感じてはいなかった。
しかし、十分ほどのマッサージが終わり、シリルが手を離した時。
(……あ)
ロザリアは、自分の右手と左手に、微かな「違い」があることに気づいた。
シリルに触れられていた右手だけが、自分の体の中でそこだけが「重く」感じられる。そして、微かに香油の匂いが皮膚に染み付いている。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
シリルは立ち上がり、小瓶を鞄にしまった。
「私は、しばらくこの城に滞在させていただきます。……毎日、少しずつ、貴女の『冬』を終わらせるお手伝いをさせてください」
シリルは恭しく一礼し、部屋を出て行った。
一人残されたロザリアは、自分の右手を見つめた。
それは、まだ凍りついたままの心と体の中で、ほんの僅かに生じた「違和感」だった。
快感ではない。温もりと呼ぶにも弱すぎる。
だが、あのトラウマ以来、彼女の体に初めて「他者の痕跡」が、拒絶の茨をすり抜けて残されたのだ。
「……変わった男」
ロザリアの唇から、数年ぶりに、他人に対する自発的な「感想」が漏れた。
それは、絶対零度の氷の表面に、最初の一滴のしずくが落ちた瞬間だった。
灰色の空から冷たい霧雨が降る中、城の門を叩く者がいた。
応対に出た老執事のアルベルトは、訪問者の姿を見て怪訝な顔をした。
ロザリアの噂を聞きつけて来る男たちは、皆一様に豪奢な馬車に乗り、供回りを引き連れた権力者か、あるいは全身を鎧で固めた血気盛んな騎士ばかりだったからだ。
だが、目の前に立つ青年は、一頭の栗毛の馬に跨がり、質素な旅装束を纏っているだけだった。腰に剣すら帯びていない。
亜麻色の髪を無造作に後ろで結び、琥珀色の瞳は穏やかな光を湛えている。長身で引き締まった体躯をしているが、暴力の匂いは全くしなかった。
「……いかなるご用件でしょうか。ここはロザリア女公爵の居城。名もなき旅人を泊める宿ではありませんぞ」
アルベルトが冷たく言い放つ。
青年は、馬から降りて深く一礼した。
「突然の訪問、お許しください。私の名はシリル。……南の異国より参りました、『癒やし手』です」
「癒やし手……? 医者、ということですか?」
「ええ。体と、そして『心』の」
シリルは、琥珀色の瞳でアルベルトを真っ直ぐに見据えた。
「ロザリア様が、深い『眠り』の病に苦しんでおられると聞き及びました。……私ならば、彼女の感覚を呼び覚ますことができるかもしれません」
アルベルトは鼻で笑った。
「何たる傲慢。これまでどれほどの高名な医師が、あるいは『愛の達人』を自称する男たちが、お嬢様の氷を溶かせずに敗れ去ったと思っているのですか」
「彼らは『奪おう』としたからです」
シリルは静かに、しかし確かな響きで答えた。
「眠っている者から、強引に熱を奪おうとすれば、相手はさらに固く殻を閉ざす。……私は剣も、征服欲も持ち合わせていません。ただ、彼女に『与え』に来たのです」
その言葉には、不思議な説得力があった。
アルベルトは、この数年、氷の彫像のように生気を失っていく主の姿に心を痛めていた。ダメ元でもいい、この男の目に宿る「慈愛」のようなものに賭けてみようかという気になった。
「……よろしい。ですが、お嬢様が拒絶されたら、すぐにお引き取り願いますよ」
ロザリアの寝室に案内されたシリルは、部屋の空気が外の霧雨よりも冷たいことに気づいた。
物理的な温度ではない。そこにあるのは、生命活動を極限まで絞り切った、魂の冷たさだった。
ロザリアは、窓辺の長椅子に座っていた。
分厚いガウンを羽織り、窓の外の灰色の空を虚ろな目で見つめている。
背後でアルベルトがシリルを紹介しても、彼女は振り返りもしなかった。
「お初にお目にかかります、ロザリア様。シリルと申します」
シリルは、少し距離を置いて立ち、深々と頭を下げた。
ロザリアは、ようやく視線を動かした。
(また、愚かな男が来た)
彼女の心は、何の波立ちも見せなかった。少し整った顔立ちをしているが、どうせ今までの男たちと同じだ。甘い言葉を囁き、ドレスを剥ぎ取り、そして私の無反応さに絶望して逃げていくのだ。
「……好きになさい。私の体は、誰にも奪えないわ」
ロザリアは、氷のように冷たく、感情の欠落した声で呟いた。
「奪うつもりはありません」
シリルは、傍らの丸テーブルに、持参した小さな革の鞄を置いた。
「私は、貴女の『主治医』としてここに参りました。……少し、お側に寄ってもよろしいですか?」
ロザリアは無言で視線を外した。「拒絶しない」ということは、彼女なりの「許可」だったが、それはシリルに対する期待ではなく、無関心から来るものだった。
シリルは、長椅子の傍らに椅子を引き、腰を下ろした。
彼は、革鞄の中から美しい細工の施された瑠璃色の小瓶を取り出した。
「今日は、ご挨拶だけです。……貴女のその美しい右手を、少しだけ貸していただけますか?」
(手……?)
ロザリアは僅かに眉を動かした。
これまでの男たちは、皆一様に唇や胸、あるいは脚に執着した。手などという、性的な興奮から遠い部位を求めてきた男は初めてだった。
ロザリアが気怠げに右手を差し出すと、シリルはその下から自分の両手を添えるようにして、そっと受け止めた。
「……酷く冷たい。血の巡りが滞っているようですね」
シリルの手は、驚くほど温かかった。そして、少しだけ薬草と柑橘の混ざったような、爽やかな香りがした。
彼は小瓶の蓋を開け、透明な香油を数滴、自らの掌に落とした。そして、両手をこすり合わせて香油を体温で温めてから、ロザリアの手に触れた。
「少し、揉みほぐします」
シリルの親指が、ロザリアの手の甲を優しく滑る。
手首から指先へ、そして指の股、手のひらのツボへと、流れるような手つきで圧が加えられていく。
「…………」
ロザリアは、黙ってその様子を見下ろしていた。
(痛くは、ない)
香油の滑らかさと、シリルの指の適度な弾力が、凝り固まった筋肉と腱を的確に解していく。
それは、性的な愛撫とは全く異なる、純粋な「治療」の所作だった。
「どうですか? 力加減は」
シリルが、琥珀色の瞳でロザリアを見上げる。
その瞳には、下心や欲望の濁りは一切なく、ただ純粋な「患者への気遣い」だけがあった。
「……何も感じないわ」
ロザリアは事実を告げた。
「不感症なのです。痛みも、快感も、温もりも。……だから、無駄な努力よ」
ロザリアは、シリルがここで諦めるか、あるいは怒り出すだろうと予想した。
しかし、シリルは静かに微笑んだ。それは、春の陽だまりのように穏やかで、押し付けがましさのない笑みだった。
「無駄ではありません。……百年凍りついていた土が、一日の春風で溶けることはない。でも、風は確実に氷の表面を撫でているのです」
シリルの手技は、少しの乱れもなく続いた。
一本一本の指を丁寧にマッサージされ、血流が促される。
ロザリアは、本当に「快感」を感じてはいなかった。
しかし、十分ほどのマッサージが終わり、シリルが手を離した時。
(……あ)
ロザリアは、自分の右手と左手に、微かな「違い」があることに気づいた。
シリルに触れられていた右手だけが、自分の体の中でそこだけが「重く」感じられる。そして、微かに香油の匂いが皮膚に染み付いている。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
シリルは立ち上がり、小瓶を鞄にしまった。
「私は、しばらくこの城に滞在させていただきます。……毎日、少しずつ、貴女の『冬』を終わらせるお手伝いをさせてください」
シリルは恭しく一礼し、部屋を出て行った。
一人残されたロザリアは、自分の右手を見つめた。
それは、まだ凍りついたままの心と体の中で、ほんの僅かに生じた「違和感」だった。
快感ではない。温もりと呼ぶにも弱すぎる。
だが、あのトラウマ以来、彼女の体に初めて「他者の痕跡」が、拒絶の茨をすり抜けて残されたのだ。
「……変わった男」
ロザリアの唇から、数年ぶりに、他人に対する自発的な「感想」が漏れた。
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