君の唇に触れたい

小貝川リン子

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第四章 卒業

第一話 受験

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 十八回目の春を迎えた。校門までの坂道を自転車で駆け上がる。古い城下町、城跡に建つ高校。ここへ通うのも残り一年。夢と希望に胸を膨らませる新入生を祝うように、桜が咲き乱れている。
 見慣れた制服は、もうずいぶん草臥れて、色褪せて見えた。駐輪場に自転車を停めた七瀬の肩に、桜の花びらが散っていた。思わず手に取り、息を吹くと、春風にのって、青空へ舞い上がった。
 昇降口の掲示板に、黒い頭が群がっている。クラス分けが張り出されているのだ。七瀬とは、別のクラスになった。
 
「さすがに、十二年連続は無理だったか」
「今までがおかしかったんだ。奇跡以上の確率だろ」
 
 小学校入学から数えて十二年目。クラスが別れるのは初めてだった。
 
「じゃあおれ、こっちだから」
「ああ。うん」
 
 階段を上ってすぐのホールで別れる。瞬介の生返事に、七瀬は困ったように笑った。
 
「シケた面してんじゃねぇよ」
「んな面してねーし」
「ふん。ひとが心配してやってんのに」
「お前こそ、新しいクラスでうまくやっていけんの? 友達一人もできなくて、休み時間の度に会いに来られてもメーワクなんですけど~」
 
 ふざけて言うと、ばこんとカバンで殴られた。頭を押さえて縮こまる瞬介を見下ろして、七瀬は笑う。
 
「やっぱりてめぇはクソむかつく」
 
 腹立たしいはずの笑顔が、ひどく眩しく見えたなんて、口が裂けても絶対に言えない。
 
 
 
 クラスは別々になったが、他は全て今まで通りだ。朝夕の登下校はもちろん、放課後も部活で顔を合わせる。
 先輩が卒業し、新入部員もいない、二人きりの天文部。新入生の勧誘に熱心になるべきだったのは分かっているが、瞬介はどうもその気になれなかった。
 今更一年生を呼び込んだところで、どうしていいか分からない。天文の知識だって、素人に毛が生えたレベルだ。教えられることなど何もない。そしてそれ以上に、七瀬と二人で過ごせる時間、二人きりの空間を失いたくなかった。
 
「ぼさっとしてんじゃねぇ。彗星が大接近だ」
 
 いつかの吉川部長のように、七瀬が居残り観測の許可証を見せてきた。重い機材を背負って、えっちらおっちら階段を上り、屋上で二人、星を見た。
 暮れなずむ空に、淡い尾をたなびかせて彗星が光る。太陽系の果てから旅をしてきて、太陽系の果てへと帰っていく。その旅路に思いを馳せ──それでもやはり、気になるのは七瀬のことばかり。
 空を見上げる七瀬の横顔が好きだった。レンズを覗く真剣な瞳が好きだった。星を見つけて楽しそうに笑う、その笑顔が好きだった。昔から何も変わらない。見つめていると、溢れてはいけないものが溢れ出しそうになり、それを誤魔化すために、くだらないチョッカイばかりをかけてしまう。
 桜の季節はたちまちのうちに過ぎ行きて、学ランを脱ぎ、ワイシャツの袖に肌色が覗く季節になり、そして夏が訪れた。
 熱い夏。輝ける夏。海水浴場が開かれて、近隣の町からも観光客が押し寄せる。この時期だけは、海も町も大賑わいだ。
 
「夏期講習だ。お前も行くだろ」
 
 七瀬が見せてきたのは、学習塾のチラシだった。瞬介の家にも新聞の折り込みで入ってきているし、登下校中の通学路で配布しているのをもらったこともある。
 
「え……なに? どういうこと?」
「夏休みの間だけ申し込もうと思って。お前も行くだろ」
「……」
 
 一応、高校三年生。進学を考えていないわけではない。ただ、受験生だという意識は、まだほとんど根付いていないのだった。
 悩むことはない。講習を受けることにした。受験生だという意識も、勉強する習慣も身についていない瞬介にとっては、渡りに船だ。それに、今年は海の家のバイトもなく、何もしなければ暇を持て余すだけの夏休みになっていたことは明白である。
 少し無理をして、七瀬と一緒のコースで申し込んだ。夏休みだというのに、毎日毎日早起きして、朝から夕まで勉強だ。授業の後は、七瀬と自習室で復習をしてから帰るのが日課になった。
 
「結局、勉強しかしなかったな」
 
 今日で夏期講習は終わり。そして、夏休みも終わりだ。光の速さで夏が終わった。塾からの帰り道、七瀬とコンビニでアイスを買う。これも、夏休み中の日課になっていた。
 
「高三の夏休みなんかこんなもんだろ」
 
 パウチ入りのバニラアイスを吸いながら七瀬が言う。溶け始めるまでは固く、容器を握って手の熱で溶かしている。瞬介はソーダ味の棒アイスを齧る。いつか見た海も空も、もっと鮮やかに青かったなと、詮ないことを考える。
 どん、と遠くで音がした。そういえば今夜は花火だったと、きっと七瀬も思っただろう。同時に走り出していた。
 川に架かる橋の上に立てば、海と交わる河口付近まで、かろうじて見通せた。打上場所は、海の上だ。二人がバイトをしていた海水浴場がメインの会場になっており、今頃は見物人でごった返していることだろう。
 この橋の上からでは、距離があることもあって、花火の全貌を知ることはできない。どーんと唸る炸裂音の後、家々の屋根の上、建物の向こう、夏の夜の中空に、鮮やかな火花の散るのが見える。
 
「思い出が一つ増えたじゃねぇか」
 
 この空と同じ色をした瞳に花火を映して、七瀬は言った。赤や青や緑や、色とりどりの無数の火花が、夜の色を変えていく。風に乗って、火薬のにおいがした。
 
「夏が終わるな」
 
 七瀬が言う。村祭りも盆踊りも終わり、文字通り最後の花火を打ち上げて、今年も夏が終わっていく。
 
「おい」
「あ?」
「溶けてる」
 
 夜の闇に儚く溶けた大輪の華を、ぼんやりと眺めていた。食べかけだったソーダアイスが崩れ落ち、地面の上で溶けていた。滓しか残っていないアイスの棒をしゃぶると、木の苦い味がした。
 二学期に入れば、目ぼしい行事も何もなく、受験モード一直線という雰囲気だ。部活動も、書面上は引退という形になっている。が、放課後に過ごす場所が他になく、瞬介は今でも、地学教室に入り浸っては、暇を持て余している。
 
「お前は、またこんなとこで時間潰して」
 
 七瀬はこのところ、放課後に、二次試験対策のための補講を受けている。それが終わると、わざわざ地学教室まで、瞬介を迎えに来る。「帰るぞ」と言われれば、カバンを持って立ち上がる。
 
「お前もそろそろ、真剣に考えた方がいいんじゃねぇか」
「……まぁ、考えてはいるんだけどね」
「補講、一緒に受けるか」
「うーん……」
「夏期講習はちゃんと通ってただろ」
「そーだけどさぁ」
「図書館でも行ってみるか」
「んー……」
 
 高校受験の際にも何度か、勉強場所として市の図書館を利用した。広くて、静かで、けれども程よい雑音があって、気分転換に読書をすることもできる。落ち着いて勉強するにはもってこいの場所だった。
 六人掛けの、大きくて頑丈なテーブル。七瀬と隣り合って座り、筆記用具を出し、参考書とノートを開く。いざ机に向かえば──環境に影響されやすいのか──案外集中できた。問題を解いては答えと照らし合わせ、模範解答を書き写し、行き詰まったら参考書に戻って解法を確認し……
 
「なぁ、ここの解き方ってさ……」
 
 少し気になるところがあり、瞬介はペンを置いた。ノートから顔を上げ、隣で参考書に向かっている七瀬に尋ねる。
 瞬介以上に、七瀬は集中していた。設問を読み解きながら、右手は既に計算を始めている。トットットン、とリズムをつけて机を叩く。そらでそろばんを弾いているのだ。
 自由な指先。集中した横顔。真剣な眼差し。ペンを取り、ノートに解答を記していく。その手付きも、姿勢も、書かれる文字も、全てが完璧に美しく思えた。
 
「……なんだよ」
 
 見つめられていたことに気づき、七瀬は気まずそうに顔を赤くして、瞬介を見た。
 
「……なんでもねーよ」
「だったらそんなに見てくんな。集中できねぇ」
「いや、十分集中してたけどね。エアそろばんなんか弾いちゃって」
「癖が抜けねぇんだ。うるさかったか」
「全然? つーか、そうだ。ここの解き方、確認したかったんだよね」
 
 昔から、ずっとそうだ。いつだって、瞬介の視界には七瀬がいて、いつだって、瞬介の心を奪っていく。
 実家のそろばん塾で、二人並んでそろばんを弾いていた頃も、小学校の教室でも、中学校の教室でも、運動場、体育館、武道場でも、花を散らして野を駆け回り、田んぼの畦道を泥だらけで転げ回っていた時だって、瞬介の視線の先には七瀬がいて、いつだって、心の半分を満たしていた。そんなことを、もう十数年も繰り返している。
 学校と、図書館と、時々七瀬の家とを往復しているうちに、北風が樹々を色づかせ、赤や黄色の落ち葉が舞い散る季節になり、そして、あっという間に冬を迎えた。
 春には満開の桜に彩られていた並木道が、今の季節はイルミネーションに彩られる。裸の街路樹に、電飾が無造作に絡み付き、粉雪を思わせる蒼白い電球が、規則的に点いては消え、点いては消えと明滅する。
 財政にゆとりがあるわけではない、田舎町のイルミネーションだ。それでも、ここが二人の生まれ育った町だ。そして、いつかは出ていく故郷だ。そのいつかは、遠い未来ではない。もう間もなく、すぐ目の前まで、その日は迫っている。いくら目を逸らしたって、逃れることはできない。
 
「今年も終わるな」
 
 疎らに光るイルミネーションを見上げて、七瀬が呟いた。白い息が、明滅する電燈に透けて、仄かに色を変えて瞬く。やがてすぐに輪郭がぼやけ、澄んだ空気に溶けていく。
 
「来年もまぁ、よろしくな」
 
 来年、というのは、いつのことを言っているのだろう。来年の今頃、いや、そこまで待たなくたって、もう数か月もすれば、七瀬は遠い進学先へと行ってしまい、瞬介は一人、この町に残されるというのに。
 
「雪だ」
 
 空を見上げ、七瀬が言う。夕方四時には暗くなる空が、今では真っ黒に塗り潰され、そこに瞬く星たちが、初雪を降らせていた。
 七瀬は、掌を天に向ける。舞い降りる雪の結晶はまるで、微かな光そのものだった。七瀬の指先や、コートの袖を、キラキラと彩っていく。
 
「初雪だな」
 
 こちらを振り向いて、七瀬が言う。鼻の頭を真っ赤に染めて、笑っている。
 
「……さみぃよ」
「雪が降るくらいだ。寒いに決まってんだろ」
 
 解けていたマフラーの一端を握り、瞬介の首に巻き直してくれた。
 
「防寒はちゃんとしとけ。風邪なんか引いたら、元も子もねぇんだ」
「……わかってらァ。お前は俺の母ちゃんか」
 
 カバンから折り畳み傘を出して開いた。「お前も入れ」と差し掛けられた傘を、瞬介は奪い取る。
 
「おれの傘だぞ」
「お前に持たせると、頭当たって痛ぇんだよ。チビだから」
「あ? 文句あんなら返せ」
「文句じゃなくて事実でしょーが。悔しかったら牛乳でも飲んどきな」
 
 小さく狭い傘の中、肩を寄せ合って歩く。七瀬の吐いた息と、瞬介の吐いた息とが、絡んで、解けて、溶け合って、夜空へふわりと舞い上がる。舞い散る雪と絡み合い、冬の空気に溶けていく。
 
「また、見られるといいな」
「……うん」
 
 初雪を、イルミネーションを、春の桜も、夏の花火も、秋の月も、全部全部、七瀬と見たい。けれども、“次”はいつになるのだろう。果たして本当に、“次”は訪れるのだろうか。
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