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第五章 再び
第二話 契り①
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本当はずっと、分かっていた。いつかのための練習だなんて、そんな馬鹿げた言い訳で、七瀬が納得するはずないこと。そんな馬鹿げた言い訳で、肌を許す男ではないこと。本気で拒む気があるのなら、すぐに手が出る男だということ。そんな七瀬が、身を委ねてくれていたこと。そんな七瀬が、心底愛おしかったこと。ずっとずっと、分かっていたのだ。
七瀬の住む町まで、地下鉄で十五分。疎らな車内。距離が近い。シートの上で手を滑らせ、小指と小指がぶつかった。
一般的な、五階建てのマンション。逸る気持ちを抑えて、掌に汗を握りしめて、一歩一歩、七瀬の背を追って階段を上がる。ドアの前に立ち、カバンを探って鍵を取り出し──さっき瞬介を殴ったカバンだ──ゆっくりと鍵穴を回す。
冴えた金属音。蝶番の軋む音。暗い玄関に明かりが灯されるのを待てずに、瞬介は七瀬に抱きついた。
「っ、おい……」
少し驚いたような、窘めるような声を発した、七瀬の唇にとうとう触れた。
外気の冷たさが残っていた。少し強張って、瞬介の唇を拒む。それでも怯まずに唇を押し当てる。強張った唇を食むようにして、上唇と下唇で優しく包む。七瀬の手が、瞬介の腕に絡む。縋り付くように、指先が震えていた。
「ん、ん……っ」
鼻から抜ける、甘い声が堪らなかった。春に雪解けを迎えるように、触れた唇は柔らかく、そして温かく、瞬介を受け入れた。そっと舌を出して、一舐めしてみる。七瀬の肩が、びくりと跳ねる。甘い唇が、また少し強張った。
「ん、ぅ……ッ」
小さく身を捩り、顔を背けようとする七瀬を、きつく抱きしめた。強張った唇を優しく溶かす。舌先を触れ、固く結ばれた蕾を濡らす。やがて、少しずつ綻び始めた唇に、舌先をそっと滑り込ませた。
びくん、と抱きしめた体が震えた。平衡感覚を失ったように、ぐらりと揺らいで崩れ落ちる体を支えて、床の上へ座らせる。七瀬の体を挟むように、瞬介も床に膝をつく。
まだほんの僅かに交わっただけの唇が、まるで磁石のN極とS極だ。互いに引き寄せ合うように、ぴったり吸い付いて離れない。瞬介が離そうとしなかったのか、七瀬が離れようとしなかったのか、きっとその両方だ。自然と体が傾いて、七瀬を押し倒してしまったけれど、それでも唇は離れなかった。
「ッ、ぅ……」
浅く舌を差し入れて、唇のすぐ裏側をくすぐって、その感触を確かめる。潤み、温み、弾力、全て。味は、よく分からなかった。少しほろ苦く感じるのは、さっき吸っていた煙草のせいだろうか。
「ン、ぁ……っ」
息継ぎのため、薄く開いた唇。さらに奥へと、舌先を進ませる。
そこはもう、七瀬の口の中だ。熱く蕩けた唾液が絡む。舌が痺れて、全身が蕩けてしまう。ちょん、と舌先に何か柔らかいものが触れて、七瀬は大きく体を跳ねた。微かに開かれた唇から、熱い息を漏らす。
これが、七瀬の舌。そう分かった瞬間、頭が沸騰した。全身が熱い。体の中心で炎が燃え盛っているみたいに、熱い。何枚も着込んだ服の下で、汗が噴き出る。滲んでいく。
逃げる舌を追いかけた。唇を押し付け、舌を擦り付ける。潤み、温み、弾力、その全てを確かめる。味は、少し苦みもあったけれど、仄かに甘く感じられた。砂糖というよりは、果物のような、甘酸っぱくて爽やかで、後を引く味だった。
「しゅ、んン……ッ」
苦しげに息を継ぐ唇を塞ぐ。もっと知りたい。味わいたい。七瀬の舌も、唇も。
熱く潤んだ口の中、互いの唾液が絡み合い、互いの吐息が溶け合っている。どちらがどちらのものかなんて、そんなことはもうどうでもよくて、互いの舌も、唇さえも、擦り合わせて絡み合ううち、一つに溶けてしまっている。
それでもまだ、まだ足りない。もっと欲しい。全部食べてしまいたい。唾液を吸い、吐息を舐めて、それでもまだ、体が熱い。頭の奥がじんと痺れる。胸の奥がずっと熱くて、目の奥だって、ずっと熱い。今にも何かが溢れ出す。胸を割って噴き出してしまう。
「ッく、……んんン゛──っっ!」
肩口に絡む、七瀬の指先が強張った。ぎゅうっと握りしめられて、厚いコートに皺が寄る。かと思えば、硬い床の上へ押さえ込んでいた体が、跳ねるように痙攣した。
ビクッ、ビクン、と何度か波打ち、小刻みな痙攣を繰り返して、やがて、凪いだ海のように静かになる。
瞬介はようやく顔を上げた。だらしなく緩んだ七瀬の唇、たっぷりの唾液を纏った赤い舌。朝露を帯びた蜘蛛の糸のような、銀色に煌めく唾液が、糸を引いて繋がっていた。細く伸びた糸が切れ、七瀬の舌をとろりと濡らす。
七瀬は、まだ微かに震えていた。胸を喘がせて息を切らし、頬を真っ赤に火照らせて、焦点の合わない蕩けた瞳を彷徨わせる。
やがて、ようやくその視界に瞬介の姿を捉えると、きゅっと唇を引き結び、眦を鋭く尖らせた。けれども、本人はきっとそのつもりだっただろうが、瞬介は全く、睨まれたようには感じなかった。再び唇を近づけて、落ち着き始めた呼吸を奪う。
「や、め、まて……っ」
七瀬は力なく首を振り、逃れるように身を捩る。瞬介の胸に添えられた手に、僅かながら力がこもる。縋るように握りしめてくるくせに、やんわりと押し返そうともしてくるその手を、瞬介は優しく絡め取った。
「待てるわけねぇじゃん。ずっとこうしたかったんだぜ。お前の唇ってどんなかなって、お前とするキスってどんなかなって、十年前からずっと、ずうううっと、そればっか考えてたんだからよ」
十年前から、いや、きっとそれよりももっと前から、それだけをずっと求め続け、焦がれ続けた七瀬の唇。どんな味が、匂いがするのか。温かさは、弾力は、どんな風だろう。そんなことばかりを、繰り返し繰り返し、夢想していた。
「やっと、やっと手に入ったんだ。妄想でも、幻でもねぇ、本物のお前が。我慢なんかできっかよ」
「しゅ、っ……」
そっと顔を近づける。唇を近づける。火照った吐息を舌先に感じる。唇と唇が重なり合う。
その寸前だった。顔面を、七瀬の掌で覆われる。真冬の寒さなど感じさせない。指先まで、燃えるように熱い。ぐぐぐっと、遠慮も何もなく押し返された。
「ちょっ……ちょ、なに? 痛ぇって! 鼻折れる!」
「っ、せぇ……んなとこで、盛りやがって……」
「おまっ、往生際がわりぃぞ。大人しく抱かれやがれ」
「べつにしねぇとは言ってねぇだろ」
「へぁ?」
瞬介を押し返して、七瀬はゆっくりと体を起こした。濡れた口元を拭い、息をつく。伏し目がちに俯いて呟いた。
「……こんなこと、十年ぶりなんだよ」
「……それって……?」
「キス、だって……初めて、だし……」
「ほぇ?」
またしても、間抜けな声が漏れてしまった。だって、暗がりでもはっきりと分かるほどに、顔を真っ赤に染めて震えている幼馴染が、十年ぶりに会う幼馴染が、あまりにも愛おしくて、堪らなかったから。思わず抱きしめようとすると、予想通りではあるが、手を払われた。
「ひでーなオイ」
「だからっ……こんなとこで盛んなっつってんだ……! せめて、もう少し……もっと、ちゃんと……!」
「分かりましたよ。もっとちゃんと、な」
「あっ、なにを……」
瞬介は、七瀬をひょいと抱きかかえる。所謂、お姫様抱っこだ。体勢が安定しないのか、七瀬は怯んだように瞬介にしがみついた。頬に触れる温度、胸に響く心臓の鼓動、堪えたような息遣い。全身で感じる、七瀬の全てが愛おしい。
十年越しのファーストキスをするのに、玄関入ってすぐの廊下は、さすがに殺風景すぎた。リビングを抜け、寝室に入り、ふかふかのベッドに七瀬を寝かせる。ベッド脇のライトをつけて、瞬介もベッドに乗り上げた。マットレスが静かに沈む。
「俺もさ、初めてだから」
「っ……は……?」
「キス。七瀬としたくて、とっといた」
こつん、と額を重ね合わせる。熱があるんじゃないかってくらい、熱かった。外の寒さが嘘みたいに汗ばんでいる。七瀬の喉が上下する。
「こんなことすんの、俺だって十年ぶりなんだぜ? なぁ、七瀬」
「ッ、ん……っ」
「愛してる。心の底から」
「っっ……!」
首筋をそっと撫でながら、耳元で囁いた。十年間燻り続けた欲望を、たっぷりと吹き込んだ。マットレスが静かに軋む。
次の瞬間、七瀬の体が跳ね上がった。まるでよく弾むシーソーみたいに、限界まで引き伸ばされたゴムみたいに、物凄い勢いで跳ね上がったものだから、額と額が思い切りぶつかった。衝撃で舌を噛む。でこには確実にこぶができた。
「い゛っ……てめ、何しやがん──」
額を押さえ、涙目になった瞬介だが、ベッドから飛び降りた七瀬もまた、額を真っ赤にして涙を浮かべていた。
「しゃっ……シャワー、浴びてくる、からっ……覗いたら、殺す……!」
震える足で逃げるように脱衣所へ駆け込んだ背中を、追いかけはしなかった。高校生だった十年前と比べても、反応が初々しい。十年ぶりだからなのだろうか。心の準備をしたいのは、瞬介も同じだった。
大学で、彼女ができた。二人で映画を見に行って、食事をして、手を繋いだ。別れ際、彼女が名残惜しそうに瞬介を見つめてきた。キスしてほしいのだなと分かった。かつて幾度となく目にしてきた、七瀬のあの、物言いたげな眼差しが重なって見えた。
キス、できなかった。しようとはしたのだ。彼女は目を瞑り、キスを待った。けれども、瞬介は口づけることができなかった。顔を背けて、「ごめん」と。それだけ。
キスできなければ、その先の行為へ進めるはずもない。キスできないのに体だけ欲しがるなんて、そんな非道な行いが許されるはずもない。ましてや、普通の女の子相手に。
そこで気づく。自分がどれだけ七瀬を傷付けたか。どれほど酷い行いをしたか。どんな酷い言葉を投げ付けたのか。今更気づいたって、もう遅いのに。謝ることさえ、できやしないのに。
結局、その彼女とはお別れした。その後も何人かと付き合ってみたけれど、結果はいつも同じだった。そのうち、キス一つできないつまらない男だと、噂にでもなったのだろう。女子との関わり自体がめっきり減った。恋愛は潔く諦めて、勉学とバイトに励む四年間を送った。
やっぱり、自分には七瀬しかいなかったのかもしれない。女の子はふわふわしていてかわいいけれど、それだけだ。かといって男がいいかというと、これもまたよく分からない。男でも女でもいいから、七瀬がいい。七瀬がよかった。
結果的に、十年もの間、貞操を守る形になった。それはきっと、七瀬も同じだ。七瀬の唇も清いまま。瞬介しか知らない体は、今もまだ、瞬介しか知らないまま。そう思うと、どうしようもなく胸が震える。熱いものが込み上げる。枕に顔を埋めて、叫び出したいくらいに。
七瀬の住む町まで、地下鉄で十五分。疎らな車内。距離が近い。シートの上で手を滑らせ、小指と小指がぶつかった。
一般的な、五階建てのマンション。逸る気持ちを抑えて、掌に汗を握りしめて、一歩一歩、七瀬の背を追って階段を上がる。ドアの前に立ち、カバンを探って鍵を取り出し──さっき瞬介を殴ったカバンだ──ゆっくりと鍵穴を回す。
冴えた金属音。蝶番の軋む音。暗い玄関に明かりが灯されるのを待てずに、瞬介は七瀬に抱きついた。
「っ、おい……」
少し驚いたような、窘めるような声を発した、七瀬の唇にとうとう触れた。
外気の冷たさが残っていた。少し強張って、瞬介の唇を拒む。それでも怯まずに唇を押し当てる。強張った唇を食むようにして、上唇と下唇で優しく包む。七瀬の手が、瞬介の腕に絡む。縋り付くように、指先が震えていた。
「ん、ん……っ」
鼻から抜ける、甘い声が堪らなかった。春に雪解けを迎えるように、触れた唇は柔らかく、そして温かく、瞬介を受け入れた。そっと舌を出して、一舐めしてみる。七瀬の肩が、びくりと跳ねる。甘い唇が、また少し強張った。
「ん、ぅ……ッ」
小さく身を捩り、顔を背けようとする七瀬を、きつく抱きしめた。強張った唇を優しく溶かす。舌先を触れ、固く結ばれた蕾を濡らす。やがて、少しずつ綻び始めた唇に、舌先をそっと滑り込ませた。
びくん、と抱きしめた体が震えた。平衡感覚を失ったように、ぐらりと揺らいで崩れ落ちる体を支えて、床の上へ座らせる。七瀬の体を挟むように、瞬介も床に膝をつく。
まだほんの僅かに交わっただけの唇が、まるで磁石のN極とS極だ。互いに引き寄せ合うように、ぴったり吸い付いて離れない。瞬介が離そうとしなかったのか、七瀬が離れようとしなかったのか、きっとその両方だ。自然と体が傾いて、七瀬を押し倒してしまったけれど、それでも唇は離れなかった。
「ッ、ぅ……」
浅く舌を差し入れて、唇のすぐ裏側をくすぐって、その感触を確かめる。潤み、温み、弾力、全て。味は、よく分からなかった。少しほろ苦く感じるのは、さっき吸っていた煙草のせいだろうか。
「ン、ぁ……っ」
息継ぎのため、薄く開いた唇。さらに奥へと、舌先を進ませる。
そこはもう、七瀬の口の中だ。熱く蕩けた唾液が絡む。舌が痺れて、全身が蕩けてしまう。ちょん、と舌先に何か柔らかいものが触れて、七瀬は大きく体を跳ねた。微かに開かれた唇から、熱い息を漏らす。
これが、七瀬の舌。そう分かった瞬間、頭が沸騰した。全身が熱い。体の中心で炎が燃え盛っているみたいに、熱い。何枚も着込んだ服の下で、汗が噴き出る。滲んでいく。
逃げる舌を追いかけた。唇を押し付け、舌を擦り付ける。潤み、温み、弾力、その全てを確かめる。味は、少し苦みもあったけれど、仄かに甘く感じられた。砂糖というよりは、果物のような、甘酸っぱくて爽やかで、後を引く味だった。
「しゅ、んン……ッ」
苦しげに息を継ぐ唇を塞ぐ。もっと知りたい。味わいたい。七瀬の舌も、唇も。
熱く潤んだ口の中、互いの唾液が絡み合い、互いの吐息が溶け合っている。どちらがどちらのものかなんて、そんなことはもうどうでもよくて、互いの舌も、唇さえも、擦り合わせて絡み合ううち、一つに溶けてしまっている。
それでもまだ、まだ足りない。もっと欲しい。全部食べてしまいたい。唾液を吸い、吐息を舐めて、それでもまだ、体が熱い。頭の奥がじんと痺れる。胸の奥がずっと熱くて、目の奥だって、ずっと熱い。今にも何かが溢れ出す。胸を割って噴き出してしまう。
「ッく、……んんン゛──っっ!」
肩口に絡む、七瀬の指先が強張った。ぎゅうっと握りしめられて、厚いコートに皺が寄る。かと思えば、硬い床の上へ押さえ込んでいた体が、跳ねるように痙攣した。
ビクッ、ビクン、と何度か波打ち、小刻みな痙攣を繰り返して、やがて、凪いだ海のように静かになる。
瞬介はようやく顔を上げた。だらしなく緩んだ七瀬の唇、たっぷりの唾液を纏った赤い舌。朝露を帯びた蜘蛛の糸のような、銀色に煌めく唾液が、糸を引いて繋がっていた。細く伸びた糸が切れ、七瀬の舌をとろりと濡らす。
七瀬は、まだ微かに震えていた。胸を喘がせて息を切らし、頬を真っ赤に火照らせて、焦点の合わない蕩けた瞳を彷徨わせる。
やがて、ようやくその視界に瞬介の姿を捉えると、きゅっと唇を引き結び、眦を鋭く尖らせた。けれども、本人はきっとそのつもりだっただろうが、瞬介は全く、睨まれたようには感じなかった。再び唇を近づけて、落ち着き始めた呼吸を奪う。
「や、め、まて……っ」
七瀬は力なく首を振り、逃れるように身を捩る。瞬介の胸に添えられた手に、僅かながら力がこもる。縋るように握りしめてくるくせに、やんわりと押し返そうともしてくるその手を、瞬介は優しく絡め取った。
「待てるわけねぇじゃん。ずっとこうしたかったんだぜ。お前の唇ってどんなかなって、お前とするキスってどんなかなって、十年前からずっと、ずうううっと、そればっか考えてたんだからよ」
十年前から、いや、きっとそれよりももっと前から、それだけをずっと求め続け、焦がれ続けた七瀬の唇。どんな味が、匂いがするのか。温かさは、弾力は、どんな風だろう。そんなことばかりを、繰り返し繰り返し、夢想していた。
「やっと、やっと手に入ったんだ。妄想でも、幻でもねぇ、本物のお前が。我慢なんかできっかよ」
「しゅ、っ……」
そっと顔を近づける。唇を近づける。火照った吐息を舌先に感じる。唇と唇が重なり合う。
その寸前だった。顔面を、七瀬の掌で覆われる。真冬の寒さなど感じさせない。指先まで、燃えるように熱い。ぐぐぐっと、遠慮も何もなく押し返された。
「ちょっ……ちょ、なに? 痛ぇって! 鼻折れる!」
「っ、せぇ……んなとこで、盛りやがって……」
「おまっ、往生際がわりぃぞ。大人しく抱かれやがれ」
「べつにしねぇとは言ってねぇだろ」
「へぁ?」
瞬介を押し返して、七瀬はゆっくりと体を起こした。濡れた口元を拭い、息をつく。伏し目がちに俯いて呟いた。
「……こんなこと、十年ぶりなんだよ」
「……それって……?」
「キス、だって……初めて、だし……」
「ほぇ?」
またしても、間抜けな声が漏れてしまった。だって、暗がりでもはっきりと分かるほどに、顔を真っ赤に染めて震えている幼馴染が、十年ぶりに会う幼馴染が、あまりにも愛おしくて、堪らなかったから。思わず抱きしめようとすると、予想通りではあるが、手を払われた。
「ひでーなオイ」
「だからっ……こんなとこで盛んなっつってんだ……! せめて、もう少し……もっと、ちゃんと……!」
「分かりましたよ。もっとちゃんと、な」
「あっ、なにを……」
瞬介は、七瀬をひょいと抱きかかえる。所謂、お姫様抱っこだ。体勢が安定しないのか、七瀬は怯んだように瞬介にしがみついた。頬に触れる温度、胸に響く心臓の鼓動、堪えたような息遣い。全身で感じる、七瀬の全てが愛おしい。
十年越しのファーストキスをするのに、玄関入ってすぐの廊下は、さすがに殺風景すぎた。リビングを抜け、寝室に入り、ふかふかのベッドに七瀬を寝かせる。ベッド脇のライトをつけて、瞬介もベッドに乗り上げた。マットレスが静かに沈む。
「俺もさ、初めてだから」
「っ……は……?」
「キス。七瀬としたくて、とっといた」
こつん、と額を重ね合わせる。熱があるんじゃないかってくらい、熱かった。外の寒さが嘘みたいに汗ばんでいる。七瀬の喉が上下する。
「こんなことすんの、俺だって十年ぶりなんだぜ? なぁ、七瀬」
「ッ、ん……っ」
「愛してる。心の底から」
「っっ……!」
首筋をそっと撫でながら、耳元で囁いた。十年間燻り続けた欲望を、たっぷりと吹き込んだ。マットレスが静かに軋む。
次の瞬間、七瀬の体が跳ね上がった。まるでよく弾むシーソーみたいに、限界まで引き伸ばされたゴムみたいに、物凄い勢いで跳ね上がったものだから、額と額が思い切りぶつかった。衝撃で舌を噛む。でこには確実にこぶができた。
「い゛っ……てめ、何しやがん──」
額を押さえ、涙目になった瞬介だが、ベッドから飛び降りた七瀬もまた、額を真っ赤にして涙を浮かべていた。
「しゃっ……シャワー、浴びてくる、からっ……覗いたら、殺す……!」
震える足で逃げるように脱衣所へ駆け込んだ背中を、追いかけはしなかった。高校生だった十年前と比べても、反応が初々しい。十年ぶりだからなのだろうか。心の準備をしたいのは、瞬介も同じだった。
大学で、彼女ができた。二人で映画を見に行って、食事をして、手を繋いだ。別れ際、彼女が名残惜しそうに瞬介を見つめてきた。キスしてほしいのだなと分かった。かつて幾度となく目にしてきた、七瀬のあの、物言いたげな眼差しが重なって見えた。
キス、できなかった。しようとはしたのだ。彼女は目を瞑り、キスを待った。けれども、瞬介は口づけることができなかった。顔を背けて、「ごめん」と。それだけ。
キスできなければ、その先の行為へ進めるはずもない。キスできないのに体だけ欲しがるなんて、そんな非道な行いが許されるはずもない。ましてや、普通の女の子相手に。
そこで気づく。自分がどれだけ七瀬を傷付けたか。どれほど酷い行いをしたか。どんな酷い言葉を投げ付けたのか。今更気づいたって、もう遅いのに。謝ることさえ、できやしないのに。
結局、その彼女とはお別れした。その後も何人かと付き合ってみたけれど、結果はいつも同じだった。そのうち、キス一つできないつまらない男だと、噂にでもなったのだろう。女子との関わり自体がめっきり減った。恋愛は潔く諦めて、勉学とバイトに励む四年間を送った。
やっぱり、自分には七瀬しかいなかったのかもしれない。女の子はふわふわしていてかわいいけれど、それだけだ。かといって男がいいかというと、これもまたよく分からない。男でも女でもいいから、七瀬がいい。七瀬がよかった。
結果的に、十年もの間、貞操を守る形になった。それはきっと、七瀬も同じだ。七瀬の唇も清いまま。瞬介しか知らない体は、今もまだ、瞬介しか知らないまま。そう思うと、どうしようもなく胸が震える。熱いものが込み上げる。枕に顔を埋めて、叫び出したいくらいに。
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