君の唇に触れたい

小貝川リン子

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第五章 再び

第一話 邂逅

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 あの日、七瀬の忘れたマフラーは、新聞紙に包んでポストに入れた。冬休みが明ければ、本格的に受験が始まり、学校は自由登校になり、元々クラスも違っていたから、七瀬と顔を合わせることもなく、そのまま卒業を迎えた。
 受験直前のあんな時期に、あんな無体を強いたのに、七瀬は見事志望校に合格し、予定通り地元を離れた。瞬介も予定通り、実家から通える大学に進み、卒業し、就職した。別った道は遥かに遠く、かつて交わっていた記憶さえ薄れて──しまえれば、どれだけよかっただろう。
 あれから十年の月日が流れ、それでもまだ、鮮明に胸が痛い。七瀬のことを、忘れたことなど一度もない。忘れることなど、できなかった。自分だけが知っている、あいつの汗のにおい、火照った吐息、肌の弾力、滑らかさ。忘れることなど、できるはずもない。
 将来に後悔を残さないようにと選んだ道が正しかったと思える日は、まだ来ない。今でも、ずっと、十年が過ぎても、あの日に後悔を残している。
 
「……元気そうだな」
 
 細く煙を吐き出して、七瀬が言う。透き通った、芯のある声。昔よりも、幾分低い。
 
「……お前もな」
 
 それだけ答えるのがやっとだった。借りたライターに火をつけて、咥えた煙草の先端を炙る。深く吸い込めば、濃い苦みが肺を満たし、舌が痺れた。今日はとことん厄日らしい。
 隣で紫煙を燻らす七瀬。スーツにロングコートを着た、サラリーマン然とした風貌。それでいて、流れるような黒い髪も、透けるような白い肌も、やけに艶めいた唇も、切れ長の大きな瞳も、凛とした横顔も、全てがあの頃のままだ。
 どうしよう。どうしたらいい。この距離は、痛い。針が突き刺すように痛い。胸が潰れるように痛い。一刻も早く、この場から逃げ出したくて、それでももう少しだけ、七瀬のそばにいたくて。どうすればいいか分からなかった。
 
「お前、電車は」
 
 不意に七瀬が口を開く。瞬介はびくりと肩を震わせる。
 
「あ? ああ、終電……特急の」
「そうか」
 
 それだけ言って、七瀬は再び煙草に口づけ、煙を吐く。その指の仕草、唇の色を、横目でじっと盗み見て、瞬介は溜め息をついた。白い息が、青い煙と絡んで、解けて、冬の空気に溶けていく。澄んだ夜空に、星が冴えていた。いつか見た、シリウス、プロキオン、ベテルギウス。
 瞬介は、まだ吸いかけだった煙草の火を消した。すると七瀬も、小指の先ほどのサイズになった吸殻を、灰皿に押し当てた。
 そんなつもりはなかったのに、同じタイミングで一服を終え、喫煙所を後にした。駅までの短い道のりを、同じ歩幅で歩く。
 二言三言、話したはずだ。けれども、過去のことには一言も触れず、交差点の別れ道に差しかかる。「こっちだから」と、七瀬は横断歩道を指して言う。
 
「じゃあな」
「あ、ああ……元気でな」
「お前もな」
 
 微かに笑い、背を向ける七瀬。横断歩道の信号は、青の点滅から赤へと変わる。師走の慌ただしい駅前。小さな背中は、あっという間に雑踏に飲まれて、消えていく。
 瞬介も一歩踏み出した。信号は青。けれども、それ以上先へ進めなかった。振り返っても、七瀬はいない。横断歩道を渡った先の、人混みに紛れている。
 立ち止まり、頭を抱えてしゃがみ込む。どうして、何も言えなかった。また、追いかけられなかった。どうして、いつもこうなのだろう。十年経っても弱いまま。覚悟も勇気も足りていない。馬鹿で愚かで考えなしの子供のまま、あれから一歩も進めていない。
 あんなにずっと、一緒にいたのに。体を重ねて、心を通わせ、それなのに、それら全てを、なかったことのようにされてしまった。まるで何もなかったかのように、瞬介のことなんて忘れてしまったという風に。何でもない顔をして、七瀬は笑って、煙草を吸って。
 信号が赤になる。忘れられるくらいなら、なかったことにされるくらいなら、憎まれ続けていたかった。なんて幼稚なわがままだろう。瞬介の心の半分は、今でも七瀬が占めている。それと同じとは言わないから、せめて、小さな棘でもいいから、七瀬の心にいたかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ばこん!と後頭部に衝撃が走る。頭を押さえて顔を上げれば、黒いカバンを振りかざして、七瀬が見下ろしていた。
 
「やっぱりてめぇはクソむかつく」
「な、なせ……」
「言いてぇことがあんならはっきり言いやがれ。いつまでもしみったれた面してんじゃねぇよ。おれはもう、十分待ったぜ」
「な……俺……」
 
 どうしよう。こんな時、どんな顔をしたらいいのか、分からない。頭の奥がじんと痺れる。足が震える。声が震える。ただ、胸の奥が熱い。まるで光が灯ったように。
 
「好き、だった……。ずっと、今でも……愛して、る」
 
 海の底に沈んだ視界に、七瀬の綺麗な笑顔が揺れる。
 
「ずっと前から知ってたさ。気づくのが遅ぇんだよ、ばーか」
 
 乗るはずだった最終列車が発車する。信号は青に変わっている。小憎らしいとさえ思える、晴れ晴れとした七瀬の笑顔が、ひどく眩しく、美しく見えた。
 
「家、帰れなくなっちまった」
「いいぜ。連れて帰って、今までの仕返しでもしてやらぁ。十年前の分も、十年間の分もなァ。てめぇを泣かせて、そんで朝まで帰してやんねぇ」
 
 差し伸べられた手を握る。昔のまんまの、温かい手。柔らかい手。固く握りしめ、もう二度と、離さない。
 相変わらずの臆病で、意気地も度胸もないけれど、覚悟だけは、今できた。七瀬と二人で生きるのなら、幸も不幸も怖くない。そんな、大切な覚悟が。
 
 *
 
 初めから、ちゃんと分かっていた。瞬介に愛されていたこと。瞬介を愛していたこと。いつまで経っても直らない噛み癖の理由も、ふざけたことばかりをのたまう唇で本当は何を告げたかったのかも。全部、ちゃんと分かっていたのだ。
 けれど、だからこそなのだろうか。いつかのための練習だなんて、そのために体を重ねようだなんて、そんな馬鹿げた言い訳で取り繕うしかできない、ねじ曲がった根性に腹が立った。好きだと、愛していると、そう素直に言ってくれたなら、それに応える用意は、いくらでもしてあったのに。
 つまらない意地を張った。練習台には必要ないからと、つまらない言い訳を重ねて、キスを拒んだ。体を明け渡しているのに、唇だけ拒んだって、一線を越えたことに変わりはないのに。
 あいつが、もっと聞き分けの悪いガキで、無理やりにでも唇を奪う胆力があるなら、それでもよかった。なのに、そんなところだけ無駄に律義で、瞬介は決して、七瀬の意に反して、唇を奪うようなことはしなかった。だから七瀬も、意地を張り続けないわけにはいかなかった。
 
 中三の夏、腕を切り付けられて剣道をやめた。あの事件のことで、瞬介が負い目に感じていたことを知っていた。武道場で一人流した涙を見られていたと知っていた。七瀬のために瞬介が泣いてくれたことも、全部知っていて黙っていてくれたことも、左腕を庇う七瀬を庇ってくれていたことも、全部知っていた。
 高校で天文部に入ったのだって、七瀬を追って入部したのだと知っていた。小四の夏に二人で見た流星群を忘れられないのだと知っていた。ただ、二人で一緒にいたかっただけなのだ。七瀬も、同じことを思っていた。
 これから先もずっと一緒にいるのだと、当たり前のように信じていた。瞬介と二人で生きるのなら、この先どうなってもいいと、本気でそう思っていた。瞬介も同じ気持ちでいてくれるはずだと、当たり前に思っていた。それなのに。
 あいつは、またしても、馬鹿げた言い訳を重ねた。あんなにも酷い言葉で突き放し、一方的に関係を清算しようとした。
 数え切れないほど体を重ね、心を通わせた。あんなにも夢中になって、七瀬を抱き、愛していたはずなのに。あいつは結局、自分の気持ちと向き合うことからも、七瀬と向き合うことからも逃げたのだ。
 
 許せなかった。ねじ曲がった根性も、幼稚で愚かな言動も。それから、いつまで経っても待つばかりで、一歩踏み出す勇気を持てなかった、自分自身を。
 またしても、つまらない意地を張った。生来の気位の高さが邪魔をして、瞬介を許し、己を許し、自ら歩み寄ることができなかった。
 受験を終え、卒業を迎え、進学のために引っ越しをする前の晩。「瞬ちゃんにサヨナラ言わなくていいの」と祖母が心配してくれたが、その言葉にさえ、まともに受け答えできなかった。ただ部屋に籠って、一人で泣いた。
 だって、あんなにも深く、傷付いた。十年の月日が流れても、まだ鮮明に、胸が痛い。瞬介の顔を見て、癒えていたはずの傷口が開いた。血が滲んで、切なく疼く。
 本当は、とっくの昔に赦していた。意地や矜持のために、十年も待つことになってしまった。けれど。
 瞬介に愛されていたことを知っていた。瞬介を愛していたことを知っていた。十年前も、今も、きっと。
 立ち止まり、振り返る。そして知った。瞬介も、七瀬と同じ傷を抱え、同じ後悔を抱えているのだと。今ようやく、一歩踏み出す勇気が持てた。
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