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プロローグ
井の沢南佐はまだ動かない 彼の変化は彼女との初対面の時に既に
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俺を「井の沢南」と呼んだことがあるのは家族以外では近所で親しい人と、それまでのクラスメイトになったことがあるやつらくらいだ。
しかも今現在でもむかしの俺の名前で呼ぶやつというと、改名したことを知らない人くらいか。
つまり、今現在俺をその名前で呼び止めたりするのはほとんどいないはずだ。
「何? 私の事忘れちゃった? ななよ、なな。あんなに一緒に遊んだのになぁ」
「えっと……俺の名前……」
「何よ、ほんとに忘れたの? 神社の中で折り紙とかお絵かきとかして遊んであげたじゃない。中に入んなよ。何か思い出すかもよ?」
そんなマジな顔されても困る。
でもなんか、思い出してきた。
俺の特技というか好きな事って言うと、雑学の知識を得ることと手先指先の細かい作業。
体質のこともあったが、体を動かす遊びより部屋の中で大人しく何かをする方が元々好きだった。
幼稚園を卒園するまでに夢中になったのは折り紙だったが、そうだ、誰かに褒められたのがきっかけだったっけ。
まぁ今では、留守番の仕事のうちってことで、お説法に使うネタ探しのため、という言い訳でネットサーフィンをしたりハード機のゲームに没頭する時間が長引いたりすることもあるが。
とか考えているうちに、その長い黒髪の女の子に引っ張り込まれちまった。
中に入ると、そこは相変わらずだ。
高床っぽいから冷房がなくてもいくらかは涼しい。おまけに古い建物だからあちこちの隙間から風が通り抜けていく。
床は板敷き。その広い部屋の片隅に薄い座布団が積み重ねられてある。
奥には台所っぽい小部屋があり、そこにはお茶の葉っぱが常備されている。
「ご自由にお飲みください」という、墨で手書きの張り紙が壁に貼られてあり、入った人は誰でも自由に飲めるようになっているらしい。
そんな社の中に引っ張り込んだ女の子は、見た目は明らかに年下だ。
だが話し方はどうにも、小さい子に話しかけているようなつもりでいるような気がする。
それよりも時代外れの服装がもっと気になる。
質素な和服というか、着物を着ている。
夏祭りにはまだ早い。いや、祭に着る物と言えば浴衣だろう。浴衣にしては少し厚めの生地。時代劇に出てくる、それくらいの年齢の質素な装いと言えば当てはまるか。
……そうだ。
遊んで作った折り紙を、最初に褒めてくれた人がこんな感じの着物を着てた人だった。
どこでだったかな……。そうだ、あれは確かこんな……。
いや、こんな、じゃない。
何もない広い部屋で、テーブルの上で折り紙を作ってて。
そしていつの間にか隣に座ってた女の人が俺を覗き込んで、上手だねって。
その女の人、確かこんな風に黒くて長い髪をしてて。
その人の顔、確かこんな……。
「私はななって言うの。あなたは?」
「みなみだよ。いのさわ、みなみ」
……思い出した。
こんな会話をした記憶が出てきた。
俺に、ななって自己紹介した女の人は、今俺の目の前にいる同じ格好で、同じ顔をして……。
お、俺、確か今二十九才。
あの時の俺は、四才くらいか?
これ、完全にオカルトだろ。
いや、待て。
確認するほうが先だ。
「えーと、なな、さん? 思い出しましたよ。ここで会ったんですよね?」
「あ、思い出してくれた? 良かったー」
安心した笑顔を見せられても困る。こっちは結構テンパってる。
巻き込まれたくない超常現象が目の前に起きてる。
肝心なことがまだ未確認なんだよ。
「どう見ても同一人物にしか見えませんが、あの時のななさんの娘さん?」
「何言ってんの。本人だよ。って言うか、そういう言い方おかしいね。私、ここの神様だから。だからあの時から私、変わってないでしょ?」
頭おかしい人だったか。
自分で神様なんて言っちゃったよ。
でも本人なら確かに二十年以上経っても変わらない姿ってのは怖い。
人外という意味では間違っちゃいないが、どのみち関わったらまずいケースだ、これ。
「まぁ南君は他の人と比べると相当変わってるけどね」
そりゃあんただろ。
とにかく怖いから話しかけんな。
俺はもう帰る。
「だって私の姿見られることは時々あったけど、こうして私の家に来れたりする人は後にも先にも南君くらいだもん」
はい?
変な人から変な人呼ばわれされたぞ?
しかも俺しか見えない?
なんで?
何かきっかけがあったのか?
いや、馬鹿馬鹿しい。
変なことを口走るような奴の言うことを真に受けてどうする。
……だが体を動かせない。
金縛りにあってるわけじゃない。
こいつと最初に出会ったのは幼稚園に入る前か入った頃か。
そんな子供の頃に修業なんかするわけがない。
つまり、何かの力を得ようと努力した経験はない。
それでも何か特別な力があると言う。となると、何かの拍子にその力を得たと言えるんだよな。
ということは、今後また訳の分からない事態を招く原因が、何気ない行動によって引き起こされる可能性があるわけで。
その何気ない行動ってのは、今ここから出ようとする一歩目の足の動きかもしれないってことだ。
そう考えると動けなくなるのも仕方ねぇだろ?
けどこいつ、気になること言わなかったか?
「……今お前、なんつった? 『こうして私の家に』? ここ、神社の社だろ?」
「違うよ? 私の家だよ? 家の周りは神社と同じになっちゃったけどね。横の鳥居からの道がなくなったからあっさり来やすくなっちゃったんだよね」
確かに横の鳥居は下をくぐっても石塀が目の前にあるだけだが、俺は別にその下を通り抜けてはいない……。
「いくら特別な力があってもその下を通るだけじゃここには来れないけどさ、だから今回はたまたまだね」
いや、だから通ってはいないって。
そういえば鳥居の柱に手を添えて一周したっけ……。
あ……。
あれも鳥居の下を通ったって言えるのか?
待て。
てことは?
「じゃあ今この神社の正面の鳥居をくぐったら」
「あ、駅前通りには出るよ? ただ、神社の社にはもう一度横の鳥居をくぐらないとダメだし、通り抜けてもそこに行けるかどうかは分かんないけどね」
「なっ……!」
ってことは、神社の社に用事があっても行くことが出来るかどうか分からない?
とにかくもう一度横の鳥居の下を通ってみないことには、元に戻るかどうかの確認も出来ない。
「でも南君、神社の社に用事あったりするの?」
……。
ない。
商店街の組合に入ってはいないし、町内も隣だからここで行われる町内会議にも参加しない。
「じゃあこの建物以外に、俺にとって変化したことは」
「ないよ? だから落ち着きなさいって言ってんの」
どさくさに紛れて余計なこと付け足すな。
落ち着けともゆっくりして行けとも言われてねぇよ。
休んで行けとは言われたが。
だがそうなると、この建物はななの家と言い張ってるだけにしか過ぎないんじゃないか?
周りの様子は神社とは変わらないし、境内の外も普段と変わらないんだから。
「……なんかよく分かんなくなってきた。まぁいいや。とりあえずあの頃は一緒に遊んでくれてありがとうな。とりあえず頭おかしくなりそうだから一旦帰るわ」
「私の方が思いっきり年上だからそのタメ口は気になるけど……。まぁいいわ。南君の頭の中にいろいろ詰め込んじゃったしね。お話の続きをしたいから明日もおいでよ。待ってるから」
いや、だからちょっとしたことで、さらに変な力がついたら怖いんだってば。
けど三十前の男がそんなことで怖がるって、なんかかっこ悪いし……。
「玄関まで見送るよ。南君にはもう何も変化は起きないだろうけど一応ね」
「……そりゃどうも。ちょっとそこの冷たい水で顔でも洗ってから出てくわ」
こちらから言い出しづらいことを言ってくれたおかげで、ある意味助かった。
何も知らないうちにややこしいことに巻き込まれたくはないからな。
建物の出入り口先にいるななに見られながら頭と顔を洗う。
冷たい水が頭の中を整理してくれるわけじゃないが、気持ちは十分に落ち着けられる。
考えがすぐにまとまるわけではない。だが暑い時期に冷たい水は、飲んでもかぶっても気持ちはいい。
いつの間にか閉じられた建物の出入り口。
「縁を切れるなら今のうちだな」
砂利の地面だから、急いで動くとななに聞こえるかもしれん。
急ぎつつも静かに横の鳥居に移動する。
「一応鳥居の柱は、さっきと逆に回った方がいいよな? 来た道を戻るんだから」
きっちり一周。
鳥居の下もくぐった。これでいいはず。
こっそりと鳥居の正面に向かう。
「南くーん、まだいるー? コップ忘れてるよー。私が戻してあげてもいいけどさー」
ガタタッ。
建物の中からななの声が聞こえて、引き戸からななが顔を出す。
一応逆方向に鳥居を通過したわけだが彼女に言わせれば、神社の社ではなく彼女の家のままということで間違いなさそうだ。
「お、おぅ……」
さわやかな笑顔を振りまくように声をかけられてもな。
自分のことをいきなり神様なんていう残念な頭の持ち主じゃあなぁ。
ま、持ち込んだのは俺だし、コップを戻すくらいはなんてことないのだが。
「どうしてもお話ししたいことあるから、明日も来てね。いつでもいいから」
そうだな。
ゆっくり考えて、今後どうしたいかをまとめてこいつに頼もう。
まぁ自称神様に二度と会わずに済む方法を教わるのは一番いいんだが。
とりあえず空のコップを水道の所に戻して家に帰る。
今度は鳥居から出るまで見送られた。
駅前通りは相変わらず人は少なげ。
非常識と言うか、常識外れのやり取りですっかり自称神様のペースに巻き込まれた頭の中。
現実に戻ると、やはりまだ親父を亡くした喪失感がよみがえる。
しかし、その常識外れの現象が俺の目に飛び込んできてしまった。
その通りも商店街になっててその中に時計店があるんだが、そこの現在時刻が目に入った。
慌てて自分のスマホでも時刻を確認するが、見間違いでも何でもない。
スマホの時刻はその時計の針が指す時間と同じだった。
「午後三時十分過ぎたとこ? 銀行の営業時間終了ギリギリで用事を済ませて散歩してから神社に入って、それから……アレと三十分は一緒にいたよな?」
だが神社の境内に入っていきなり彼女と会話をしたんじゃない。
物思いにふけて、コップに水を汲んで、鳥居のところうろうろして……。
銀行を出てから今までの時間の中から、彼女の家にいた時間を除けば今の時間くらいにはなってるんじゃないか?
「あの家にいる間は、ここでの時間の経過はないってことか?」
一体あそこは何なんだ?
気持ちがまだ落ち着かないってのに、ややこしいことに巻き込みやがって。
けどななを見ることが出来るのは後にも先にも俺が初めてとか言ってたな。
そんな視力いらねぇよ。
「おや、お帰り、南佐さん。おでかけ?」
「あ、はい。ただいま」
目の前はもう俺の寺。近所の人から話しかけられたけど。
「どうしたの? 顔、青くない?」
「え? いや、普通ですよ? って言うか、今日も暑いですね」
不思議そうな顔をして相槌をうってきた近所のおばさん。
平静のつもりでいたが、思いの外ショックが大きいみたいだ。
酔っぱらいのたわごとみたいなつもりで聞いてたんだけどな。
やっぱりこのままじゃまずいよな。
明日、ななに会いに行ってみるか。
しかも今現在でもむかしの俺の名前で呼ぶやつというと、改名したことを知らない人くらいか。
つまり、今現在俺をその名前で呼び止めたりするのはほとんどいないはずだ。
「何? 私の事忘れちゃった? ななよ、なな。あんなに一緒に遊んだのになぁ」
「えっと……俺の名前……」
「何よ、ほんとに忘れたの? 神社の中で折り紙とかお絵かきとかして遊んであげたじゃない。中に入んなよ。何か思い出すかもよ?」
そんなマジな顔されても困る。
でもなんか、思い出してきた。
俺の特技というか好きな事って言うと、雑学の知識を得ることと手先指先の細かい作業。
体質のこともあったが、体を動かす遊びより部屋の中で大人しく何かをする方が元々好きだった。
幼稚園を卒園するまでに夢中になったのは折り紙だったが、そうだ、誰かに褒められたのがきっかけだったっけ。
まぁ今では、留守番の仕事のうちってことで、お説法に使うネタ探しのため、という言い訳でネットサーフィンをしたりハード機のゲームに没頭する時間が長引いたりすることもあるが。
とか考えているうちに、その長い黒髪の女の子に引っ張り込まれちまった。
中に入ると、そこは相変わらずだ。
高床っぽいから冷房がなくてもいくらかは涼しい。おまけに古い建物だからあちこちの隙間から風が通り抜けていく。
床は板敷き。その広い部屋の片隅に薄い座布団が積み重ねられてある。
奥には台所っぽい小部屋があり、そこにはお茶の葉っぱが常備されている。
「ご自由にお飲みください」という、墨で手書きの張り紙が壁に貼られてあり、入った人は誰でも自由に飲めるようになっているらしい。
そんな社の中に引っ張り込んだ女の子は、見た目は明らかに年下だ。
だが話し方はどうにも、小さい子に話しかけているようなつもりでいるような気がする。
それよりも時代外れの服装がもっと気になる。
質素な和服というか、着物を着ている。
夏祭りにはまだ早い。いや、祭に着る物と言えば浴衣だろう。浴衣にしては少し厚めの生地。時代劇に出てくる、それくらいの年齢の質素な装いと言えば当てはまるか。
……そうだ。
遊んで作った折り紙を、最初に褒めてくれた人がこんな感じの着物を着てた人だった。
どこでだったかな……。そうだ、あれは確かこんな……。
いや、こんな、じゃない。
何もない広い部屋で、テーブルの上で折り紙を作ってて。
そしていつの間にか隣に座ってた女の人が俺を覗き込んで、上手だねって。
その女の人、確かこんな風に黒くて長い髪をしてて。
その人の顔、確かこんな……。
「私はななって言うの。あなたは?」
「みなみだよ。いのさわ、みなみ」
……思い出した。
こんな会話をした記憶が出てきた。
俺に、ななって自己紹介した女の人は、今俺の目の前にいる同じ格好で、同じ顔をして……。
お、俺、確か今二十九才。
あの時の俺は、四才くらいか?
これ、完全にオカルトだろ。
いや、待て。
確認するほうが先だ。
「えーと、なな、さん? 思い出しましたよ。ここで会ったんですよね?」
「あ、思い出してくれた? 良かったー」
安心した笑顔を見せられても困る。こっちは結構テンパってる。
巻き込まれたくない超常現象が目の前に起きてる。
肝心なことがまだ未確認なんだよ。
「どう見ても同一人物にしか見えませんが、あの時のななさんの娘さん?」
「何言ってんの。本人だよ。って言うか、そういう言い方おかしいね。私、ここの神様だから。だからあの時から私、変わってないでしょ?」
頭おかしい人だったか。
自分で神様なんて言っちゃったよ。
でも本人なら確かに二十年以上経っても変わらない姿ってのは怖い。
人外という意味では間違っちゃいないが、どのみち関わったらまずいケースだ、これ。
「まぁ南君は他の人と比べると相当変わってるけどね」
そりゃあんただろ。
とにかく怖いから話しかけんな。
俺はもう帰る。
「だって私の姿見られることは時々あったけど、こうして私の家に来れたりする人は後にも先にも南君くらいだもん」
はい?
変な人から変な人呼ばわれされたぞ?
しかも俺しか見えない?
なんで?
何かきっかけがあったのか?
いや、馬鹿馬鹿しい。
変なことを口走るような奴の言うことを真に受けてどうする。
……だが体を動かせない。
金縛りにあってるわけじゃない。
こいつと最初に出会ったのは幼稚園に入る前か入った頃か。
そんな子供の頃に修業なんかするわけがない。
つまり、何かの力を得ようと努力した経験はない。
それでも何か特別な力があると言う。となると、何かの拍子にその力を得たと言えるんだよな。
ということは、今後また訳の分からない事態を招く原因が、何気ない行動によって引き起こされる可能性があるわけで。
その何気ない行動ってのは、今ここから出ようとする一歩目の足の動きかもしれないってことだ。
そう考えると動けなくなるのも仕方ねぇだろ?
けどこいつ、気になること言わなかったか?
「……今お前、なんつった? 『こうして私の家に』? ここ、神社の社だろ?」
「違うよ? 私の家だよ? 家の周りは神社と同じになっちゃったけどね。横の鳥居からの道がなくなったからあっさり来やすくなっちゃったんだよね」
確かに横の鳥居は下をくぐっても石塀が目の前にあるだけだが、俺は別にその下を通り抜けてはいない……。
「いくら特別な力があってもその下を通るだけじゃここには来れないけどさ、だから今回はたまたまだね」
いや、だから通ってはいないって。
そういえば鳥居の柱に手を添えて一周したっけ……。
あ……。
あれも鳥居の下を通ったって言えるのか?
待て。
てことは?
「じゃあ今この神社の正面の鳥居をくぐったら」
「あ、駅前通りには出るよ? ただ、神社の社にはもう一度横の鳥居をくぐらないとダメだし、通り抜けてもそこに行けるかどうかは分かんないけどね」
「なっ……!」
ってことは、神社の社に用事があっても行くことが出来るかどうか分からない?
とにかくもう一度横の鳥居の下を通ってみないことには、元に戻るかどうかの確認も出来ない。
「でも南君、神社の社に用事あったりするの?」
……。
ない。
商店街の組合に入ってはいないし、町内も隣だからここで行われる町内会議にも参加しない。
「じゃあこの建物以外に、俺にとって変化したことは」
「ないよ? だから落ち着きなさいって言ってんの」
どさくさに紛れて余計なこと付け足すな。
落ち着けともゆっくりして行けとも言われてねぇよ。
休んで行けとは言われたが。
だがそうなると、この建物はななの家と言い張ってるだけにしか過ぎないんじゃないか?
周りの様子は神社とは変わらないし、境内の外も普段と変わらないんだから。
「……なんかよく分かんなくなってきた。まぁいいや。とりあえずあの頃は一緒に遊んでくれてありがとうな。とりあえず頭おかしくなりそうだから一旦帰るわ」
「私の方が思いっきり年上だからそのタメ口は気になるけど……。まぁいいわ。南君の頭の中にいろいろ詰め込んじゃったしね。お話の続きをしたいから明日もおいでよ。待ってるから」
いや、だからちょっとしたことで、さらに変な力がついたら怖いんだってば。
けど三十前の男がそんなことで怖がるって、なんかかっこ悪いし……。
「玄関まで見送るよ。南君にはもう何も変化は起きないだろうけど一応ね」
「……そりゃどうも。ちょっとそこの冷たい水で顔でも洗ってから出てくわ」
こちらから言い出しづらいことを言ってくれたおかげで、ある意味助かった。
何も知らないうちにややこしいことに巻き込まれたくはないからな。
建物の出入り口先にいるななに見られながら頭と顔を洗う。
冷たい水が頭の中を整理してくれるわけじゃないが、気持ちは十分に落ち着けられる。
考えがすぐにまとまるわけではない。だが暑い時期に冷たい水は、飲んでもかぶっても気持ちはいい。
いつの間にか閉じられた建物の出入り口。
「縁を切れるなら今のうちだな」
砂利の地面だから、急いで動くとななに聞こえるかもしれん。
急ぎつつも静かに横の鳥居に移動する。
「一応鳥居の柱は、さっきと逆に回った方がいいよな? 来た道を戻るんだから」
きっちり一周。
鳥居の下もくぐった。これでいいはず。
こっそりと鳥居の正面に向かう。
「南くーん、まだいるー? コップ忘れてるよー。私が戻してあげてもいいけどさー」
ガタタッ。
建物の中からななの声が聞こえて、引き戸からななが顔を出す。
一応逆方向に鳥居を通過したわけだが彼女に言わせれば、神社の社ではなく彼女の家のままということで間違いなさそうだ。
「お、おぅ……」
さわやかな笑顔を振りまくように声をかけられてもな。
自分のことをいきなり神様なんていう残念な頭の持ち主じゃあなぁ。
ま、持ち込んだのは俺だし、コップを戻すくらいはなんてことないのだが。
「どうしてもお話ししたいことあるから、明日も来てね。いつでもいいから」
そうだな。
ゆっくり考えて、今後どうしたいかをまとめてこいつに頼もう。
まぁ自称神様に二度と会わずに済む方法を教わるのは一番いいんだが。
とりあえず空のコップを水道の所に戻して家に帰る。
今度は鳥居から出るまで見送られた。
駅前通りは相変わらず人は少なげ。
非常識と言うか、常識外れのやり取りですっかり自称神様のペースに巻き込まれた頭の中。
現実に戻ると、やはりまだ親父を亡くした喪失感がよみがえる。
しかし、その常識外れの現象が俺の目に飛び込んできてしまった。
その通りも商店街になっててその中に時計店があるんだが、そこの現在時刻が目に入った。
慌てて自分のスマホでも時刻を確認するが、見間違いでも何でもない。
スマホの時刻はその時計の針が指す時間と同じだった。
「午後三時十分過ぎたとこ? 銀行の営業時間終了ギリギリで用事を済ませて散歩してから神社に入って、それから……アレと三十分は一緒にいたよな?」
だが神社の境内に入っていきなり彼女と会話をしたんじゃない。
物思いにふけて、コップに水を汲んで、鳥居のところうろうろして……。
銀行を出てから今までの時間の中から、彼女の家にいた時間を除けば今の時間くらいにはなってるんじゃないか?
「あの家にいる間は、ここでの時間の経過はないってことか?」
一体あそこは何なんだ?
気持ちがまだ落ち着かないってのに、ややこしいことに巻き込みやがって。
けどななを見ることが出来るのは後にも先にも俺が初めてとか言ってたな。
そんな視力いらねぇよ。
「おや、お帰り、南佐さん。おでかけ?」
「あ、はい。ただいま」
目の前はもう俺の寺。近所の人から話しかけられたけど。
「どうしたの? 顔、青くない?」
「え? いや、普通ですよ? って言うか、今日も暑いですね」
不思議そうな顔をして相槌をうってきた近所のおばさん。
平静のつもりでいたが、思いの外ショックが大きいみたいだ。
酔っぱらいのたわごとみたいなつもりで聞いてたんだけどな。
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明日、ななに会いに行ってみるか。
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