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第2話:「外食 ― 風と定食と祖父の話」
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――人間、風水だけじゃ生きていけない。
腹が減ると“気”も滞る。つまり、空腹は凶相だ。
そんな理屈を自分に言い聞かせながら、俺は財布の残高と睨み合っていた。
「……七百六円。」
「なんか呪文みたいに言わないでよ。」
ミナが風のようにソファから滑り降り、テーブルに顔を出す。
相変わらず、物理法則を半分くらい無視して動くやつだ。
「七百六円でどうやって二人分の外食行くんだよ。風の神様、通貨発行権でも持ってんのか?」
「うーん、風は“流通”の象徴だから、たぶん持ってる!」
「それ詐欺師の理屈だろ!?」
結局、俺たちは近所の定食屋「食堂・八方良し」にやってきた。
外観は古く、暖簾の文字は“八方”の“方”だけ妙に色褪せている。
風水的に見ると――凶だ。
でも、腹の虫には関係ない。
「いらっしゃーい。あら、カズヤ坊やじゃないの」
出迎えたのは、店主のおばちゃん。
俺が子どもの頃から知ってる人だ。祖父の得意客でもあった。
「久しぶりねぇ。おじいちゃんが亡くなって、もう二年かしら。元気してた?」
「まあ、そこそこ。祖父みたいに“風を読む男”にはなれませんけどね。」
おばちゃんがにっこり笑った。「あんたの“ため息”が風読んでるじゃないの。」
……この人、たまに詩人みたいなこと言う。
席に着くと、ミナがメニューを真剣に覗き込む。
「ねぇねぇ、“生姜焼き定食”って、ショウガで焼くの?」
「いや、“焼いた肉にショウガ乗せる”だ。順番が違う。」
「“唐揚げ”は唐人が揚げたの?」
「違う。“唐風の揚げ物”だ。あと質問多すぎる。」
「“冷や奴”って、奴隷のご飯?」
「違うって言ってんだろ!!」
注文を終えると、俺は無意識に壁の掛け時計を見る。
針が北東を指すたび、なんとなく落ち着かない。
ミナが首をかしげた。「カズヤ、また方位気にしてる?」
「癖みたいなもんだ。祖父がよく言ってた。“方位は呼吸と一緒”だって。」
……その言葉に、少し胸が詰まる。
思い出すのは、小学生の頃。
祖父の書斎。古い羅盤の前に座り、俺の手を取って言った。
> 「方位は道しるべじゃない。
風は“向かう先”じゃなく、“今いる場所”を教えてくれるんだ。」
当時の俺は意味が分からなかった。
でも、今なら少し分かる気がする。
仕事も、人間関係も、行く先を気にしすぎると疲れる。
――“今の位置”を整えるほうが、案外うまく流れる。
祖父の口癖が、時間を超えて空気の中に残っている。
「ねぇ、カズヤ。」ミナの声が現実に引き戻す。
「おじいちゃん、どんな人だったの?」
「どんな人、ねぇ……」
少し考えてから、笑って言った。
「風みたいな人だよ。静かな時は優しいけど、怒ると台風。
でも、誰かが困ってるときは、必ずそっちに吹く。」
「ふーん。なんかカズヤに似てる気がする。」
「どこがだよ。」
「ツッコミが風みたいに速い!」
「褒めてねえだろそれ!」
そのタイミングで、定食が運ばれてきた。
湯気の立つ味噌汁、輝く生姜焼き、そして白米の山。
久しぶりに“ちゃんとした飯”を見た気がした。
「うわぁ……いい匂い!」
ミナの目が輝く。
風の精霊でも、腹は減るらしい。
「……おい、まさか風で冷まそうとか考えてないよな?」
「えっ、バレた?」
「湯気止めろ、料理人の魂まで飛ぶわ!」
俺は箸を割りながら、思わず笑った。
冷蔵庫事件以来、部屋も気分も軽くなった。
こうして外で飯を食うなんて、何ヶ月ぶりだろう。
ミナが一口頬張り、目を丸くした。
「おいしい! “人間のごはん”って、気が優しい!」
「……気じゃなくて味だ。でもまあ、悪くない表現だな。」
「ねえカズヤ、風水師ってさ、こういう時も方位考えるの?」
「一応な。食事は“西”が甘味、“東”が発酵、“南”が辛味、“北”が冷たい味を司る。
だから、この席の向きは――」
「どうでもいいから、食べよ?」
「はい、どうでもいいです。」
会話が途切れ、ただ箸の音が響く。
不思議と静かな時間だった。
窓の外で風がカーテンを揺らし、祖父の言葉がまた浮かぶ。
――“風は、止まらない限り迷わない。”
そういえば、祖父が亡くなる直前に言ったっけ。
「お前が進まなくても、風が連れて行ってくれるさ」って。
あの時は笑って流したけど、今なら信じられる。
ミナと出会ってから、確かに“流れ”が変わった。
たとえニートでも、風は少しずつ俺をどこかへ運んでいる気がする。
「カズヤ?」
「ん?」
「顔、ちょっと柔らかいよ?」
「味噌汁の湯気だよ。」
「うそ。風が笑ってる。」
……本当に、そうかもしれない。
「ごちそうさまでした!」ミナが立ち上がって頭を下げる。
おばちゃんが笑って言った。「またおいで。風水士さんの弟子さんも一緒にね。」
「え、弟子!?」
「えへへ、カズヤの弟子です!」
「いや、俺まだ師匠になるほど稼いでねえ!」
外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
商店街の喧騒、遠くの踏切、揺れる提灯――どれも少し懐かしい。
ミナが両手を広げて言う。
「ねぇカズヤ。次は“南”に行こうよ!」
「なんで南。」
「今日の風が、南に流れてるの!」
「……なるほど。風任せ、か。」
俺は小さく笑い、歩き出した。
祖父なら、きっとこう言うだろう。
“流れがあるうちは、止まるな”って。
財布の中身は心もとない。けれど、心の方位は少しだけ“吉”に傾いていた。
――たぶん、これが今の俺の正しい風向きだ。
腹が減ると“気”も滞る。つまり、空腹は凶相だ。
そんな理屈を自分に言い聞かせながら、俺は財布の残高と睨み合っていた。
「……七百六円。」
「なんか呪文みたいに言わないでよ。」
ミナが風のようにソファから滑り降り、テーブルに顔を出す。
相変わらず、物理法則を半分くらい無視して動くやつだ。
「七百六円でどうやって二人分の外食行くんだよ。風の神様、通貨発行権でも持ってんのか?」
「うーん、風は“流通”の象徴だから、たぶん持ってる!」
「それ詐欺師の理屈だろ!?」
結局、俺たちは近所の定食屋「食堂・八方良し」にやってきた。
外観は古く、暖簾の文字は“八方”の“方”だけ妙に色褪せている。
風水的に見ると――凶だ。
でも、腹の虫には関係ない。
「いらっしゃーい。あら、カズヤ坊やじゃないの」
出迎えたのは、店主のおばちゃん。
俺が子どもの頃から知ってる人だ。祖父の得意客でもあった。
「久しぶりねぇ。おじいちゃんが亡くなって、もう二年かしら。元気してた?」
「まあ、そこそこ。祖父みたいに“風を読む男”にはなれませんけどね。」
おばちゃんがにっこり笑った。「あんたの“ため息”が風読んでるじゃないの。」
……この人、たまに詩人みたいなこと言う。
席に着くと、ミナがメニューを真剣に覗き込む。
「ねぇねぇ、“生姜焼き定食”って、ショウガで焼くの?」
「いや、“焼いた肉にショウガ乗せる”だ。順番が違う。」
「“唐揚げ”は唐人が揚げたの?」
「違う。“唐風の揚げ物”だ。あと質問多すぎる。」
「“冷や奴”って、奴隷のご飯?」
「違うって言ってんだろ!!」
注文を終えると、俺は無意識に壁の掛け時計を見る。
針が北東を指すたび、なんとなく落ち着かない。
ミナが首をかしげた。「カズヤ、また方位気にしてる?」
「癖みたいなもんだ。祖父がよく言ってた。“方位は呼吸と一緒”だって。」
……その言葉に、少し胸が詰まる。
思い出すのは、小学生の頃。
祖父の書斎。古い羅盤の前に座り、俺の手を取って言った。
> 「方位は道しるべじゃない。
風は“向かう先”じゃなく、“今いる場所”を教えてくれるんだ。」
当時の俺は意味が分からなかった。
でも、今なら少し分かる気がする。
仕事も、人間関係も、行く先を気にしすぎると疲れる。
――“今の位置”を整えるほうが、案外うまく流れる。
祖父の口癖が、時間を超えて空気の中に残っている。
「ねぇ、カズヤ。」ミナの声が現実に引き戻す。
「おじいちゃん、どんな人だったの?」
「どんな人、ねぇ……」
少し考えてから、笑って言った。
「風みたいな人だよ。静かな時は優しいけど、怒ると台風。
でも、誰かが困ってるときは、必ずそっちに吹く。」
「ふーん。なんかカズヤに似てる気がする。」
「どこがだよ。」
「ツッコミが風みたいに速い!」
「褒めてねえだろそれ!」
そのタイミングで、定食が運ばれてきた。
湯気の立つ味噌汁、輝く生姜焼き、そして白米の山。
久しぶりに“ちゃんとした飯”を見た気がした。
「うわぁ……いい匂い!」
ミナの目が輝く。
風の精霊でも、腹は減るらしい。
「……おい、まさか風で冷まそうとか考えてないよな?」
「えっ、バレた?」
「湯気止めろ、料理人の魂まで飛ぶわ!」
俺は箸を割りながら、思わず笑った。
冷蔵庫事件以来、部屋も気分も軽くなった。
こうして外で飯を食うなんて、何ヶ月ぶりだろう。
ミナが一口頬張り、目を丸くした。
「おいしい! “人間のごはん”って、気が優しい!」
「……気じゃなくて味だ。でもまあ、悪くない表現だな。」
「ねえカズヤ、風水師ってさ、こういう時も方位考えるの?」
「一応な。食事は“西”が甘味、“東”が発酵、“南”が辛味、“北”が冷たい味を司る。
だから、この席の向きは――」
「どうでもいいから、食べよ?」
「はい、どうでもいいです。」
会話が途切れ、ただ箸の音が響く。
不思議と静かな時間だった。
窓の外で風がカーテンを揺らし、祖父の言葉がまた浮かぶ。
――“風は、止まらない限り迷わない。”
そういえば、祖父が亡くなる直前に言ったっけ。
「お前が進まなくても、風が連れて行ってくれるさ」って。
あの時は笑って流したけど、今なら信じられる。
ミナと出会ってから、確かに“流れ”が変わった。
たとえニートでも、風は少しずつ俺をどこかへ運んでいる気がする。
「カズヤ?」
「ん?」
「顔、ちょっと柔らかいよ?」
「味噌汁の湯気だよ。」
「うそ。風が笑ってる。」
……本当に、そうかもしれない。
「ごちそうさまでした!」ミナが立ち上がって頭を下げる。
おばちゃんが笑って言った。「またおいで。風水士さんの弟子さんも一緒にね。」
「え、弟子!?」
「えへへ、カズヤの弟子です!」
「いや、俺まだ師匠になるほど稼いでねえ!」
外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
商店街の喧騒、遠くの踏切、揺れる提灯――どれも少し懐かしい。
ミナが両手を広げて言う。
「ねぇカズヤ。次は“南”に行こうよ!」
「なんで南。」
「今日の風が、南に流れてるの!」
「……なるほど。風任せ、か。」
俺は小さく笑い、歩き出した。
祖父なら、きっとこう言うだろう。
“流れがあるうちは、止まるな”って。
財布の中身は心もとない。けれど、心の方位は少しだけ“吉”に傾いていた。
――たぶん、これが今の俺の正しい風向きだ。
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