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しおりを挟む宿泊研修から戻った翌日、この夏の野球部の運命を決める組み合わせ抽選会が行われた。
部活後のミーティングで結果が発表されたものの、正直なところ、俺は野球については、他の学校のレベルはもちろん、自分の学校のレベルさえもわからないので、周りの反応を伺うだけだったが、まずまずの位置を引き当てたらしかった。
それぞれのブロックに配されるシード校も俺たちのブロックは第三シードの高校で、それも四回戦まで勝ち進まなければ当たらないとのことだった。そして、その四回戦に勝つことができれば、ベスト16に入れるらしい。
俺たちは、いたって普通の県立高校の野球部で、創部五十一年の歴史の中で、最高成績は二十年前に一度だけあったという、ベスト16だった。だから、今年の目標も「めざせ!甲子園」ではなく、あくまで「めざせ!ベスト16」であり、なにより初戦突破が第一目標だった。
ずっと一番を、全国制覇を目指してバスケットをやってきた俺には、その感覚がいまいち理解できなかった。
「なぁ、安田。甲子園って、そんなに遠いの?」
校門を出たところで、雨が降り出したため、俺はカバンに入れっぱなしになっていた折り畳み傘を開きながら、隣の安田に聞いてみた。安田は「入れたはずなんだけど……」とカバンに手を突っ込んでゴソゴソと傘を探していた。俺はそんな安田に自分の開いた傘を傾けてやる。
「遠いって言っても、兵庫だろ?新幹線で大阪までいけば……」
「そうじゃなくて、甲子園って、目標にもできないものなの?」
「あぁ、そういうこと。そうだなぁ、『目標』っていうよりも『夢』に近いんじゃね?……お、あった、あった」
安田はようやくカバンから取り出した紺色の折り畳み傘を俺に見せて、ニヤッと笑った。
安田が傘を開くと、歩道は二人並んで歩くのには狭かったので、自然と俺は安田の後ろを歩いていた。
「夢ねぇ、そういうものか」
「そういうものだな。なに?藤倉、本気で『めざせ!甲子園』だったの?」
「うーん、そう言われると、どうかなぁ。俺自身は野球始めてまだ二ヶ月だし。だけど、ほかの奴らは、みんなずっと野球をやってきたわけだからさ、やっぱ、一番を目指すものじゃないのかなって」
俺の言葉に安田が首だけで振り返る。
「それ、逆じゃね?」
「逆?」
「ずっとやってきたから、自分のレベルも周りのレベルもわかっちまうっていうか、本気で甲子園に行きたいって言える様な学校には入れなかったわけだからさ」
「そっか、……安田?」
安田は歩道の真ん中で立ち止まると、そのまま固まった。その視線は俺を通り越して、反対側の歩道に注がれている。俺が安田の視線の先を振り返ると、水色の傘の中で寄り添って歩く制服姿の男女が見える。風向きのせいで傘は少し斜めを向いていて、顔まではよく見えない。
けれど……顔までよく見えなくても、わかってしまうことがある。
それが、例えば、よく見かける人であれば、いや、自分がいつも見つめている人であれば……それも、さきほどまで一緒にいた人であれば、わかってしまうのだ。
そして、それは向こう側を歩く相手も例外ではなくて。
「!」
水色の傘が少し上を向いた。
そして、俺と安田に顔を向けると、小さく傘を振った。
俺と安田は同時に頭を下げた。
水色の傘を振った兵頭主将の隣で軽く頭を下げたのは……豊田だった。
「いやぁ、急にすみません」
「いいのよ、いいのよ。どんどん食べてちょうだい。今日は翔太もひかりちゃんもいないのに、いつも通り作っちゃって……だから、安田くんが来てくれて助かったわ」
「いやぁ、この肉じゃが、マジ旨いっす。ご飯、お代わりしてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ。いっぱい食べて」
俺は隣で美味しそうに肉じゃがを頬張る安田とその向かいに座る母さんの楽しそうな会話に箸が止まっていた。
なんだろ、この光景……。
「あれ、藤倉、全然食べてないじゃん」
「あら、ホント。大地、具合でも悪いの?」
安田と母さんの二人に同時に見つめられた俺は、お味噌汁のお椀に手を伸ばしながら、安田に視線を向けた。
「安田が早食いなだけだろ」
「ま、それもあるな。だけど、こんな旨い飯なら、がっついちゃうだろ。あ、このほうれん草のごま和えも旨いっす。」
「あら、ホント?嬉しい。安田くん、遠慮しないで、好きなだけ食べてね。こうやってちゃんと感想言ってくれると、作りがいもあるってもんよね。ホント、うちの男どもは……」
母さんの冷たい視線が俺に向けられた。俺はお味噌汁のお椀でその視線を避けながら、さっきから気になっていたことを聞いてみた。
「……母さん、父さんの分、ちゃんと残してあるよね?」
「何、言ってるの。お父さんの分なら、ここにちゃんと……」
俺の言葉に、母さんは俺へ向けていた冷たい視線を食卓のテーブルへと向け、そして、一瞬固まった後、目の前の安田に顔を向けた。少しだけ戸惑う様な表情を覗かせたが、一応、笑顔で。
「あ、あの、安田くん?ここにあったお皿は……」
「あ、おばさんがさっきくれたのですか?美味しく頂きましたよ!いやぁ、ホントおばさん料理上手ですね。藤倉がうらやましいわぁ」
「まぁ、そんな……ホホホ……」
母さんが俺に「なんで言わないのよ」と鋭い視線を一瞬向けた後、「ちょっとごめんね」と安田に声をかけてから、すばやく席を立つとキッチンに駆け込んだ。
自分で調子に乗って、渡したくせに……いや、この場合、一番かわいそうなのは父さんだよな。
母さんの様子を目で追いながら、俺は心の中で父さんに謝った。
それでも俺は、隣でご飯を食べている安田の顔が、今だけはとても幸せそうに見え、父さんには悪いけど、正直、ちょっとホッとしていた。
「翔太は明日、帰ってくるんだよね」
「そうよ。サッカーの合宿に行っているだけだから、明日には帰ってくるわよ」
母さんがサクランボを洗いながら、俺に視線を向けた。俺は母さんの視線から逃げる様にテレビに視線を向ける。安田は風呂に入っていて、父さんは仕事をするために書斎に行ってしまい、ダイニングには俺と母さんの二人だけだった。
母さんが俺の言葉を待つ様に、視線だけ向けたまま口を閉じている。
母さんの視線が、「聞かないなら、何も教えないわよ」と言っている。
俺はテレビのリモコンを掴み、チャンネルを回しながら、母さんには視線を合わせずに聞いた。
「……ひかりは?」
「ひかりちゃんはねぇ」
母さんがサクランボを載せた器を手にキッチンから出てくると、俺の前にその器を置いた。
「心配しなくても、来週には帰ってくるわよ」
「別に、心配なんてしてないし。……え、来週?」
俺はサクランボを一つ摘まみ上げてから、母さんの顔を振り返った。
母さんは俺の顔を見て、ニヤッと笑った。
「寂しいでしょ?」
「だから、そんなんじゃないって!」
俺の声を背中で聞き流しながら、母さんはキッチンに戻って洗い物を始めた。
「百合たちが帰ってきているのよ。だから、その間だけ家に戻っているの。安心した?」
俺は三つ目のサクランボに手を伸ばしながら、「別に」と視線を再びテレビに合わせたまま答えた。
「素直じゃないんだから」
母さんの呟きが聞こえたけれど、俺は聞こえなかったフリをして、テレビのボリュームを上げた。
「……あれってさ、やっぱり、そういうことだよな?」
電気の消えた室内に目が慣れてきた頃、安田の声がふいに聞こえた。
やっぱ、起きてたか。
電気を消すまで、安田はいつも通りに、いや、いつも以上に、明るく振る舞っていた。あまりにもニコニコと愛想良く笑い続けるので、あまりのショックにどこか壊れてしまったのかと思ったほどだ。
「……たぶん」
俺は天井を見つめたまま、静かに答えた。
目を閉じなくても、自然と蘇る。
降り出した雨。
水色の傘。
一つの傘に寄り添うように歩く姿。
そして、遠目からでもわかってしまった、少しはにかんだ様な豊田の笑顔。
「だよなぁ」
俺のベッドの隣に敷かれた布団の中で、安田が俺に背を向ける様に寝返りを打った。
俺は枕元に手を伸ばし、ティッシュの箱を掴むと、安田の背中に軽く放った。
「!」
安田が振り返る。
「使いたきゃ使えよ」
「……おぅ」
小さく答えた安田の声が、微かに震えていた。
俺は安田に背を向ける様に壁側を向いた。
窓を叩きつける激しい雨の音が大きくなった気がした。
しばらく雨の音を聞いていた俺は、安田の呟く様な声に振り返った。
「……ありがとな」
安田はいつからか、俺の方へと体を向けていた。
「俺は別に、何も……」
「いや、藤倉がいなかったら、俺、まともにしゃべれてないと思うし」
安田が俺にまっすぐ視線を向けた。
「宿泊研修だって、同じ班にもなれてないだろうしさ。肝試しだって、一緒に回れるなんて思ってなかったし。まぁ、脅かし具合、ハンパなかったけど」
「俺、脅かし役の才能あるよな」
「あるある。お化け屋敷でバイトすれば?」
「あー、それもアリだな」
「ま、俺は絶対、行かないけどな」
「安田が腰抜かしてくれたら、人気出そうなのに」
「おい」
安田の声は、いつの間にか、いつもの調子を取り戻していて、もう震えてはいなかった。
「……悪かったな。腰、大丈夫だった?」
「やっと謝ったか」
「あれ?俺、謝ってなかったっけ?」
「お前なぁ」
雨の音が先ほどよりも少しだけ小さくなった。
明日の朝には、雨は止んでいるだろうか。
俺は緩やかな流れに身を任せる様に瞼を閉じた。
静かな時間が流れ、意識を手放しかけた、その時。
安田の静かな声が再び耳に届いた。
「運命だと思ったのになぁ……」
「運命?なんだよ、それ」
俺は目を閉じたまま、小さく笑う。
「だって、まさか、また会えるなんて思ってなかったしさ。そしたら、同じ高校の、同じクラスで、部活まで一緒ってさ」
「安田が豊田に会ったのって、高校じゃないの?」
俺は安田に振り返った。
「違うんだな、それが」
「?」
安田が天井をまっすぐ見つめたまま、話し出した。
「……去年さ、親父が倒れたんだ。病院に運び込まれて、そのまま手術して、しばらく入院してさ。あ、もう今は元気だからな。ホント、驚くくらい」
安田が俺の方に視線を向ける。
「あ、えっと、」
うまく言葉が見つからない俺に安田はいつものようにニヤッと笑った。
「だから、もう、親父元気だから。本題、こっちじゃないし」
安田はその光景を思い出すかの様にゆっくりとまばたきをした。
「部活帰りに親父の病院寄ったときにさ、すげーキレイな子とすれ違ったわけ。それが、豊田だったんだけど。……その頃の俺さ、親父が倒れて最初は心配してたのに、家の中の雰囲気とかに耐えられなくて、なんか、いつの間にか、どうして倒れたんだって、どうして俺がこんな思いしなきゃいけないんだって、親父のこと心配する気持ちが消えかけててさ。なんか、ガサガサだったわけよ、俺の心の中」
安田が小さく息を吐き出す。
「まぁ、不謹慎かもしんないけど、豊田のこと見たとき、ちょっと心がさ、ラクになったんだよね。俺、家のこととか家族のこととか、それしか考えちゃいけないんだって思い込んでたけど、それだけでできてないなって。俺の心はちゃんと他のこと考えられるんだって。なんか、ちょっとホッとした」
「そっか」
「うん。それでさ、俺、まめに親父の病院行く様になったんだけど、もちろん、豊田に会いたいってだけじゃなくて、ちゃんと親父の見舞いだぞ。俺は豊田に会ってから、ちゃんと親父のこと考えられる様になったから」
「豊田には会えたの?」
「それがさ、一ヶ月くらいは全然会えなかったわけ。あぁ、きっとホントにたまたまあの日病院に来ていただけだったんだって、俺もさすがに諦めかけてさ……でも、」
「でも……会えたのか?」
安田が俺の目をまっすぐ捉える。
「会えた。しかも、親父の担当の先生と話してた。中庭のベンチで、二人で話してて、あ、もうここしかないって思って、俺、思わず中庭に走ってさ」
「話しかけたの?」
「豊田にじゃなくて、先生にだけど。でも、そしたら、その先生がさ、自分の娘だって豊田のこと紹介してくれたわけ」
「!」
「それで、ちょっと話せた。ホントにちょっとだったけど」
「それが、豊田と話した最初?」
「うん。だけど、そのあと、病院行く度にキョロキョロしたんだけど、まったく会えなくて。で、親父は元気になって退院してさ。病院行く理由なくなっちゃって。ここまでかって思ったら……」
「高校で再会したってこと?」
「そう。俺、教室で豊田見つけたとき、一瞬息止まったからな」
「豊田は覚えてたの?」
「たぶん。はっきりとは言わなかったけど、俺と目が合ったとき、あっちもちょっと驚いてたから」
安田は大きく息を吐くと、寂しさを隠す様に笑って見せた。
「だから、それだけで奇跡みたいで……運命だって、一人で盛り上がっちゃったわけ。俺、バカだよなぁ」
「安田……。別に、普通だろ、それ。俺だって、そんなん運命だって思うよ」
安田がくるりと俺に背を向けた。
「藤倉もバカでよかったわ」
安田の声がまた微かに揺れている。
「ま、安田よりはバカじゃないけどな」
「いや、俺よりバカだろ」
安田の洟をすする音が聞こえた。
「お前なぁ」
「こんなに近くにいて、いつでも話せる距離にいて、それで、何もしないなんて、大バカ野郎に決まってる」
背中を向けたまま、安田が言った。
「え?」
「……じゃあ、俺、明日、朝一で家に帰るからよ。おやすみ」
安田は掛けていた布団を顔が隠れるまで上げると、一方的に会話を閉じた。
俺は、何も言えず、ただ、安田の言葉を頭の中で繰り返していた。
雨の音が、また少し、強くなった気がした。
「大地がひかりちゃん以外のお友達を家に連れてくるなんて、小学生以来じゃない?」
「え?」
安田を駅に続く大通りまで見送ってから家に戻った俺は、いつも起きる時間よりは相当早かったが、もう一度眠る気にはなれず、そのままリビングに向かった。
母さんはキッチンでお弁当の準備をしていた。
「中学校のときは、母さん、ひかりちゃんしか会ってないと思うわよ」
「そうだっけ?」
俺はテレビのリモコンを手に取ると、観るというよりは、なんとなく音が欲しくてテレビを点けた。
「まぁ、私立の学校だと住んでいるところもみんなバラバラだから、そういうものなのかもしれないけど……でも、ホントはちょっと心配だったのよね」
「え?」
俺が振り返ると、母さんは菜箸で白い衣をまとった海老フライをつまみ、そのまま油の中へと泳がせた。
「ちょっとだけね。男の子の友達関係なんて、母さんにはわからないし。でも、だから、昨日、ちょっと嬉しかったな」
「父さんのご飯まで食べられたけどな」
「あぁ、それはさすがに困ったけど。でも、なんか、あんな風に突然泊まりに来ちゃう様な友達っていいじゃない」
母さんが美味しそうな色に変身を遂げた海老フライたちを次々と油から引き上げていく。
「また連れて来てね。今度はもっとご飯用意しておくから」
「あー、でも、別に、普段はそこまでじゃないっていうか……さすがに昨日ほどは食べないんじゃないかな」
「あら、そうなの?じゃあ、よっぽど母さんの料理が美味しかったのね」
「……そうだね」
安田が失恋のショックから自分の限界以上にご飯を食べてしまい、俺が夜中に胃腸薬をあげたことは母さんには内緒だ。
俺がテレビに視線を戻すと、昔、大好きで読んでいたバスケットの漫画が画面に映し出された。
連載が終了してから5年経った今、実写映画化されるというニュースだった。
俺はふと、宿泊研修中に触ったバスケットボールの感触を思い出した。
指に吸い付く様に馴染む、あの感覚。
床から跳ね返ってくるボールの衝撃。
そして、耳の奥で蘇るボールが弾む音。
体育館中で響いていたその音は、俺を取り囲む様にあちらこちらから聞こえ、そして、いつの間にか遠い記憶の端へと引っぱっていく。
*
「藤倉先輩!」
新一がまっすぐ俺の元に駆けて来た。
準備運動を終え、ボールを取りに行こうと歩き出した俺は、その場に足を止めた。
「1on1の相手、お願いします!」
いつもと変わらないまっすぐな新一の視線。
「おう。じゃあ、あっちでやるか」
「はいっ!」
部活前の自主練の時間。
みんな思い思いにボールを操りながら、体を慣らしていた。
俺と新一はパスをしながら、ゴール前に移動した。
「じゃあ、新一からオフェンスでいいよ」
「宜しくお願いします!」
まっすぐで、礼儀正しくて、練習熱心で、そして、自分を慕ってくれているのがハッキリと伝わってくる。俺にとって新一はとてもかわいい後輩だった。
俺からボールを返された新一がドリブルを始める。
俺は少し距離をとって構える。
新一が一瞬、視線を動かした。
俺の体はその視線の先とは反対方向に動いた。踏み出した新一の先に俺の体が低く入り込む。
ボールはあっという間に俺の手の中に収まった。
「うわぁ。早いっすよ、藤倉先輩」
「お前のフェイントわかりやすいからな」
俺からのボールを受け取った新一が「やっぱ、藤倉先輩はなかなか抜けないなぁ」と悔しそうに笑った。
そして、俺にボールを返した瞬間、表情を変えた。
新一のスイッチが入ったことが伝わる。
俺はまっすぐ新一から目を離さずにボールを床に弾ませた。
*
「大地!」
母さんの大きな声が耳に届いて、俺は目を覚ました。
俺はいつの間にかテレビの前のソファで寝てしまっていたらしい。
「そろそろいつもの時間よ」
「あ、そっか。……うん」
「とりあえず、顔洗ってらっしゃい」
「うん」
俺は母さんの声に追い立てられる様に洗面所に移動する。
蛇口をひねると勢いよく水が飛び出した。
冷たい水が俺の意識をハッキリとさせていく。
顔を洗いながら、俺の耳の奥ではまだバスケットボールの弾む音が聞こえる。
あのあと、どうなったんだっけ?
水を止め、タオルで顔を拭く。
鏡に映る自分の顔がまっすぐ俺を見つめる。
「あのあと……」
小さく呟いた自分の声が少し掠れていた。
そして、蘇る光景。
抜いたはずだった。
フェイントにかかった新一を最初の一歩で抜き去り、俺は一気にシュート体勢に入った。
だけど、抜き去った新一の体が、いつの間にか、とても近くにあって、そして、俺の手からボールが離れる瞬間に——
「大地!遅刻するわよ!」
洗面所を覗き込む母さんの姿が鏡に映り込んだ。
「わかってるよっ!」
俺は制服に着替えるべく、自分の部屋へと向かう。
俺の駆け上る階段の音に「ちょっと、静かにしなさい!お父さん、起きちゃうじゃない」と母さんの声が追いかけて来たが、俺は構わずバタバタと音を立てながら、廊下を走り、自分の部屋のドアを開けた。
母さんの声のほうがよっぽど目が覚めそうだ。
着替え終わった俺は、そこで初めて、部屋の時計を確かめた。
いつもとそれほど変わらない時間。
まだそこまで焦る必要はなかった。
「なんだよなぁ」
俺は一人で小さくため息をついてから、カバンを掴む。
そして、今度は静かに廊下を歩いた。
母さんに無駄に焦らされた怒りはちょっとあったけど、昨日珍しく土曜出勤した父さんが、家に帰ってまで仕事をしていたことを思い出した。
そして、そう思い出して、俺は改めて気付かされた。
こんなふうに家族を思いやることを、俺は、ずっと忘れていたのではないか、と。
いや、家族だけじゃなくて、ずっと、俺は……。
蘇るあの感覚。
久しぶりにバスケットボールに触れた、あの瞬間。
俺は、思い出したのだ。
何も変わることなく、そこに存在し続けるモノを。
変わったと思っていたのは、変わってしまったのは、俺だけで、本当は何も変わっていなくて。
失ったと思っていたモノなんて、本当はなくて。
俺は何も失ってなどいなくて。
ただ、自分から、背を向けただけで……
「大地!早くしなさい!」
先ほどよりも大きな母さんの声が階段を下りる俺の背中を押した。
俺はその声に弾かれる様に顔を上げると、カバンを強く握り直した。
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