溺愛ダーリン

朝飛

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アダムとイヴ

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 鈴の勤める中学校は学力と運動の両方に力を入れており、部活動の中でも運動部のいくつかは全国大会に進んだことがあるほどだ。

 そして、その経歴がある故か、転入してくる生徒も多く、少子化が謳われる近年には珍しく、一学年のクラスは十を優に超すマンモス校だ。

 転勤が決まった頃には、鈴もここでならやり直せるかもしれないと少しばかりやる気を取り戻したものだったが、仕事に慣れるごとに自然と怠け癖がついてきてしまった。

 教職というのは、教える生徒が変わるだけで毎年毎年同じことの繰り返しなのだ。それに気付いてしまえば、ある程度節度を守って真面目に教えてさえいれば、後はどれだけ怠けようと構わない。

 そう思っているのは鈴のような駄目教師ぐらいなのだろうが、その適度なバランスを保つことは学生の頃と変わらないな、とぼんやりと思う。

「佐上先生、佐上っち」

 女子生徒の一人に声を掛けられて我に返ると、いつの間にか自習の時間は終わっていたらしく、各々が勝手に休憩時間に入っている。

「おい、お前ら。せめて挨拶しろ」
「はーい。授業終わりー。礼」
 適当な男子生徒が一人そう言うと、何人かが笑いながらふざけた調子で礼をする。

「まったく……」
 軽く息を吐きながら教卓に広げていた教材類を片付けていると、先ほど声を掛けてきた女子生徒がもう一度呼び掛けてきた。

「佐上っち」
「何だ。その呼び方はよせと言っただろ」
「だってほら、廊下に来てるよ。ルノワール先生」

 言われて気付いたが、なんだか先ほどから廊下が騒がしい。主に女子生徒の声が耳に付く。

「げっ」

 思わずそんな声を漏らしながら教室の窓から廊下に顔を出すと、漫画のワンシーンのように大勢の女子生徒に囲まれながら笑っている王子――アダムの姿があった。

 そして、何故かすぐに鈴の視線に気付いたアダムは、それはそれは素晴らしく素敵な笑顔を向けて手を振ってきた。

「うっ」

 あまりの眩しさに目が眩みそうになりながら、慌てて視線を引き剥がし、教卓に広げた教科書類をかき集めて廊下に飛び出す。そして、本当はいけないのだが、脱兎のごとく逃げ出した。

「待ってよレイ!」

 しかし即座にアダムは追いかけてくる。

 逃げまどいながら、どうしてこうなったと頭を抱えたくなる。実は赴任した直後からどういうわけか鈴をいたく気に入ったらしいアダムは、こうして少しでも空いた時間を見つけると鈴をつけ回し、会いに来るようになった。

 それも、毎日欠かさずだ。まるで通い妻のようだと思いかけ、いやいや誰が夫婦なんだと否定する。

「レイ、捕まえた」
「うわっ」

 長身のアダムは歩幅も当然ながら大きいらしく、あっという間に鈴を捕まえてしまうと、そのまま腕の中に抱き込まれてしまった。

「あの、ちょっとこういうのは」

 言いながらも、あまりに優しい抱き締め方に、何故か嫌がる気持ちよりも戸惑う気持ちが大きく、動揺する。

「大丈夫。ここなら誰も見ていないから」

 指摘されて気が付くと、いつの間にか人気のない旧校舎に来ていた。ここはもうすぐ取り壊しが決まっているので、生徒も教師もほとんど来ないのだ。

「そういう問題じゃ、な……っ」

 今、頭の上に何かが押し付けられる気配がした。まさか口付けられたのだろうか。そう気が付くと心臓が高鳴ってしまいかけ、慌てて腕から逃れた。

「ルノワール先生、ふざけるのも大概にしてください」

「ひどいな。僕は真剣だよ。僕はアダムで君はイヴ。夫婦になることが決まっているんだ」
 意味が分からない。この人大丈夫だろうか。

「いやいや、私は男ですから。夫婦にはなれませんから」

 思わず冷静にツッコミを入れたが、アダムには効かなかったらしい。

「日本じゃそうだけどね、海外では結婚できるよ。それに、日本でもパートナー制度はあるだろう?」

 いつか一人で黄昏ていた時にちらりと考えなくはなかったが、自分はそういう相手はいらないのだ。いや、できるわけがない。
 
 アダムも単に勘違いしているだけなのだ。運命などそう簡単に転がっているわけがなく、ましてやこんな王子の隣に自分は。

 思わず考えるつもりのなかったところにまで行きかけ、慌てて首を振った。

「とにかく、こういうのは困りますから。じゃあ」
「あ、レイ。待ってよ」

 ついて来ようとするアダムを振り切り、そのまま職員室に戻りながら、深く溜息をついた。

 もう、下手な期待はしないと決めているのだ。期待。何を。

 自分の思考に一瞬停止しかけて、ちょうど鳴った授業開始のチャイムの音で意識の外に追いやられた。
 
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