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本編
第四十二・五話 泥濘の戦場と天才の指揮
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王都から遠く離れた南方の湿地帯。そこは、紫色の毒霧が立ち込め、地面は底なしの泥沼と化している、生物にとって過酷極まりない場所だった。
「……最悪だ。湿気がまとわりつく。カビが生えそうだ」
宮廷魔術師団長シルヴィス・クローデルは、泥の上に浮遊魔術で数センチ浮きながら、心底不愉快そうに吐き捨てた。
彼の周囲には、半球状の不可視の結界が展開されており、毒霧はおろか、泥の跳ね返りひとつ寄せ付けていない。銀髪はサラサラのままだが、その眉間の皺は深くなる一方だった。
「団長! 三時の方向より『泥沼蛙』の群れが接近! その数、三十!」
部下の魔術師が悲鳴に近い報告を上げる。視線の先には、牛ほどの大きさもある醜悪な蛙の魔獣が、泥飛沫を上げて突進してきていた。その皮膚からは溶解液が分泌されており、騎士の剣ですら容易に腐食させる厄介な相手だ。
前衛の騎士たちが盾を構え、緊張に身を硬くする。
「……いちいち報告するな、視界に入っている」
シルヴィスはあくびを噛み殺しながら、指揮棒でも振るうかのように手をかざした。
「――氷槍」
彼が指先を弾いた瞬間、湿気を帯びた空気が瞬時に凍結した。数秒の詠唱も、魔術陣の展開もない。ただの現象として、数百の氷の槍が空中に顕現したのだ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!!
氷の雨が降り注ぐ。正確無比に眉間を貫かれた泥沼蛙たちは、断末魔を上げる暇もなく絶命し、その巨体は泥の中へと沈んでいった。さらに、着弾した氷槍が冷気を撒き散らし、周囲の泥沼を一瞬にして凍土へと変える。
「あ……」
騎士たちは盾を構えたまま、ポカンと口を開けていた。本来なら、騎士団が足止めし、魔術師団が後方から時間をかけて詠唱攻撃を行う連携が必要な場面だ。それを、シルヴィスはたった一人で、しかも鼻歌交じりのような気軽さで殲滅してしまったのだ。
「何をしている、前進しろ」
シルヴィスは冷徹な声で告げる。
「俺は腹が減っているんだ。さっさとヒュドラを狩って帰るぞ」
その言葉には、絶対的な自信と、それ以上の不機嫌さが滲んでいた。彼を突き動かしているのは正義感ではない。「早く帰ってエレナの飯が食いたい」という、極めて個人的かつ切実な欲望だけだ。だが、その欲望こそが、この天才魔術師を最強足らしめている原動力でもあった。
一行は湿地帯の奥へと進む。道中、巨大な毒蛇や吸血植物が襲い掛かってきたが、それらはシルヴィスの指先一つで塵と化した。
「すげぇ……噂には聞いていたが、これほどとは」
「あれが魔術師団長か。引きこもりだって聞いてたけど、化け物じゃないか」
騎士たちの間で、畏怖と称賛の囁きが交わされる。だが、シルヴィスの表情は晴れない。
「……おかしいな」
彼は立ち止まり、周囲の淀んだ空気を睨みつけた。湿地帯の主である古代種ヒュドラ。その巨体と魔力反応があれば、とっくに感知できているはずだ。しかし、この一帯からは雑魚の魔獣の気配しかしない。まるで、主だけが忽然と姿を消したかのように。
「団長、どうされましたか?」
副官がおずおずと尋ねる。シルヴィスは凍った地面をつま先でコツコツと踏みつけた。
「静かすぎる。……ヒュドラは縄張り意識が強い魔獣だ。これだけ派手に暴れれば、怒り狂って出てくるのが道理だ。それがいないということは……」
その時だった。ズズズズズ……。地響きのような音が、足元の泥の底から響いてきた。それは一方向からではない。前後、左右、そして地下深くから。全方位を取り囲むように、無数の殺気が膨れ上がっていく。
「……罠か」
シルヴィスが舌打ちをした瞬間、泥沼が爆発した。
「敵襲ーーッ!! 全方位!! 魔獣の群れだ!!」
騎士の叫び声がかき消されるほどの咆哮。泥の中から姿を現したのは、先ほどの泥沼蛙など比較にならない数の、異形の魔獣たちだった。空からは翼竜、地からは大蜥蜴、そして沼からは触手を持った水棲魔獣。その数、千以上。
ヒュドラは、自らの魔力で支配した湿地帯の全魔獣を統率し、人間たちをこの殺戮地帯へと誘い込んだのだ。
「ひ、ひいぃっ! こんな数、無理だ!」
「陣形が崩される! 退却、退却だ!」
パニックに陥る混成部隊。だが、その混乱を一喝する声が響き渡った。
「狼狽えるな、雑魚共ッ!!」
シルヴィスの全身から、蒼き魔力が爆発的に噴出した。それは物理的な衝撃波となって周囲の泥を吹き飛ばし、味方の兵士たちを正気に戻させる。
「俺の許可なく退却することは許さん! 円陣を組め! 術師は結界を展開、騎士は隙間を埋めろ! 一歩も引くな!」
ただの偏屈な男ではない。戦場における彼は、冷徹にして完璧な支配者だった。絶望的な状況下で、天才魔術師の本領が発揮されようとしていた。
「……最悪だ。湿気がまとわりつく。カビが生えそうだ」
宮廷魔術師団長シルヴィス・クローデルは、泥の上に浮遊魔術で数センチ浮きながら、心底不愉快そうに吐き捨てた。
彼の周囲には、半球状の不可視の結界が展開されており、毒霧はおろか、泥の跳ね返りひとつ寄せ付けていない。銀髪はサラサラのままだが、その眉間の皺は深くなる一方だった。
「団長! 三時の方向より『泥沼蛙』の群れが接近! その数、三十!」
部下の魔術師が悲鳴に近い報告を上げる。視線の先には、牛ほどの大きさもある醜悪な蛙の魔獣が、泥飛沫を上げて突進してきていた。その皮膚からは溶解液が分泌されており、騎士の剣ですら容易に腐食させる厄介な相手だ。
前衛の騎士たちが盾を構え、緊張に身を硬くする。
「……いちいち報告するな、視界に入っている」
シルヴィスはあくびを噛み殺しながら、指揮棒でも振るうかのように手をかざした。
「――氷槍」
彼が指先を弾いた瞬間、湿気を帯びた空気が瞬時に凍結した。数秒の詠唱も、魔術陣の展開もない。ただの現象として、数百の氷の槍が空中に顕現したのだ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!!
氷の雨が降り注ぐ。正確無比に眉間を貫かれた泥沼蛙たちは、断末魔を上げる暇もなく絶命し、その巨体は泥の中へと沈んでいった。さらに、着弾した氷槍が冷気を撒き散らし、周囲の泥沼を一瞬にして凍土へと変える。
「あ……」
騎士たちは盾を構えたまま、ポカンと口を開けていた。本来なら、騎士団が足止めし、魔術師団が後方から時間をかけて詠唱攻撃を行う連携が必要な場面だ。それを、シルヴィスはたった一人で、しかも鼻歌交じりのような気軽さで殲滅してしまったのだ。
「何をしている、前進しろ」
シルヴィスは冷徹な声で告げる。
「俺は腹が減っているんだ。さっさとヒュドラを狩って帰るぞ」
その言葉には、絶対的な自信と、それ以上の不機嫌さが滲んでいた。彼を突き動かしているのは正義感ではない。「早く帰ってエレナの飯が食いたい」という、極めて個人的かつ切実な欲望だけだ。だが、その欲望こそが、この天才魔術師を最強足らしめている原動力でもあった。
一行は湿地帯の奥へと進む。道中、巨大な毒蛇や吸血植物が襲い掛かってきたが、それらはシルヴィスの指先一つで塵と化した。
「すげぇ……噂には聞いていたが、これほどとは」
「あれが魔術師団長か。引きこもりだって聞いてたけど、化け物じゃないか」
騎士たちの間で、畏怖と称賛の囁きが交わされる。だが、シルヴィスの表情は晴れない。
「……おかしいな」
彼は立ち止まり、周囲の淀んだ空気を睨みつけた。湿地帯の主である古代種ヒュドラ。その巨体と魔力反応があれば、とっくに感知できているはずだ。しかし、この一帯からは雑魚の魔獣の気配しかしない。まるで、主だけが忽然と姿を消したかのように。
「団長、どうされましたか?」
副官がおずおずと尋ねる。シルヴィスは凍った地面をつま先でコツコツと踏みつけた。
「静かすぎる。……ヒュドラは縄張り意識が強い魔獣だ。これだけ派手に暴れれば、怒り狂って出てくるのが道理だ。それがいないということは……」
その時だった。ズズズズズ……。地響きのような音が、足元の泥の底から響いてきた。それは一方向からではない。前後、左右、そして地下深くから。全方位を取り囲むように、無数の殺気が膨れ上がっていく。
「……罠か」
シルヴィスが舌打ちをした瞬間、泥沼が爆発した。
「敵襲ーーッ!! 全方位!! 魔獣の群れだ!!」
騎士の叫び声がかき消されるほどの咆哮。泥の中から姿を現したのは、先ほどの泥沼蛙など比較にならない数の、異形の魔獣たちだった。空からは翼竜、地からは大蜥蜴、そして沼からは触手を持った水棲魔獣。その数、千以上。
ヒュドラは、自らの魔力で支配した湿地帯の全魔獣を統率し、人間たちをこの殺戮地帯へと誘い込んだのだ。
「ひ、ひいぃっ! こんな数、無理だ!」
「陣形が崩される! 退却、退却だ!」
パニックに陥る混成部隊。だが、その混乱を一喝する声が響き渡った。
「狼狽えるな、雑魚共ッ!!」
シルヴィスの全身から、蒼き魔力が爆発的に噴出した。それは物理的な衝撃波となって周囲の泥を吹き飛ばし、味方の兵士たちを正気に戻させる。
「俺の許可なく退却することは許さん! 円陣を組め! 術師は結界を展開、騎士は隙間を埋めろ! 一歩も引くな!」
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