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第二章

10、君の瞳に映るもの

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 ルシアは目覚めて衣服を着替えると庭園へ続く

 階段を駆け下りた。

 以前は昇り降りするのが、怖かった時もあったのに、

 慣れた今では危うげなく駆け下りることができる。

 魔術で構成された庭園は、日が昇ったところだ。

 早起きすると気分がいい。

 後ろから面倒くさそうな態で歩いてくるクライヴは、

 堂々と欠伸を噛み殺していた。

「クライヴ、こっちまで眠くなります」

「……眠いんだからしょうがない」

 気だるそうな様子は、妖艶さを漂わせ、ルシアは、顔を赤らめた。
 彼は無自覚で男性の色香を垂れ流している。

 昨夜は、寄り添いあって眠っただけだが、

 彼が、ぎゅうぎゅうと抱擁してくるのでルシアは大層焦った。
 寝ている時は甘えたがりになるのだ。

(一ヶ月間、会わなかったから、寂しかったのかな)
 
 クライヴの元に帰ってきた時に抱かれたことを

 思い出してしまいそうになり、頭をぶんぶんと振るう。

 ルシアは噴水で顔を洗いながら、

 水面に移った自分の顔を見て驚く。

 姉が言ってくれた『綺麗になった』を真に受けたわけではないが、

 随分変った気がした。

 そこには、少女から女に変った自分がいた。

 自覚していた肉体的な部分だけではなく、

 精神的な部分も女になった。

 契約の証として、身体を捧げた時は愛なんて、なかった。
 少なくともクライヴは、欲だけで、ルシアを抱いたのだろう。
 何度も抱かれる度、彼から向けられる感情の変化を敏感に感じ取っていた。

 顔を上げれば、クライヴがいつの間にやら隣にいた。

 目が合って、ルシアはびくり、と驚いた。

 顔を洗ったのだろう。

 顎を伝う雫を乱暴に腕で拭ったクライヴは、噴水の水を口に含む。

 顎を傾けられ、口移しで水を注がれる。

「……んんっ」

 捕らわれた顎から、雫が伝う。

 水を口移しされたあとは、舌が絡む。

 執拗に、絡められ、自ら舌を差し出した。

「はぁ……」

 朝にはふさわしくない濃厚な口づけだ。

 じんわりと、身体が熱くなったルシアは、クライヴの黒い

 長衣(ローブ)の裾を掴んでしがみついた。

 視界が潤んで、虚ろな眼差しをクライヴに向ける。

 息が荒くなる。
 肩で息をしながら、彼を睨むと執拗で、エロティックな口づけは、ようやく止んだ。

「美味かっただろ」

「……っ!」

 そもそも口づけが目的で、水を飲ませるのはていのいい口実に過ぎなかったくせに。

「ルシア……好きだよ」

 吐息が耳朶に触れた。ルシアは、ぼ、ぼ、ぼっと赤くなった。

(こんなこと、する人だったかしら!)

 さらっと、甘いことをして、ルシアのそばを去るクライヴに、心臓を宥めながらルシアは叫んだ。

「私はあなたからパワーをもらいました。きっと後悔しますよ!」

 クライヴは、ひらひらと手を振っている。

 ルシアは拳を握り締めた。

 部屋に杖を忘れたことに気づいたルシアは、小走りで駆けて行った。

 ベッド脇に置いていた杖を手にし、ぶんぶんと振ってみる。

 ふとベッドの上に目がいったルシアは、メモらしきものを拾い上げた。

『魔法の効果が上がるように杖を強化しておいた。

 最高の時間をくれたお礼に、俺からのささやかな贈り物だ』

 文字からクライヴの声が聞こえてくる気がした。

 ルシアの錯覚に過ぎないが。

『次にお前を奏でられる日が楽しみだ。

 甘く美しい声で啼くお前は、声と表情と仕草で俺を魅入らせる』

「……もう。あの人ったら」

 クライヴがこの手紙を書いている姿を想像すると、ふふっと笑いが漏れた。

 表情ひとつ変えずに書いていたのだろうけど、何故かおかしい。

 文机の上には、クライヴから授かった魔術書が置かれている。

 元々は彼の生家にあったもので、かなり年季の入ったものだ。

 ルシアは、魔術書を眺めたあと、地下への階段を降りる。

 魔術書は、子供時代に紛失した魔術書の内容をそっくりそのまま写した

 もので、いわゆる模造品(レプリカ)ではある。

 授かったがまだほとんど、理解できていない。

 先生に教えてもらわなければ理論もわからないし。

 初級編から上級編まであるが、初級編でさえ、匙を投げたくなった。

 写本なんて、酷く労力がいる。

 クライヴは、自分の世界に入るとルシアの言葉も聞こえてない時がある。

 底知れぬ集中力で、写本をやり遂げたに違いない。

 魔術勝負の日まであと六日残ってない。

 無駄に過ごしたわけではないけれど。

 庭園に駆け出すと、思いきり息を吸って深呼吸した。

 この澄んだ空気は魔力が源だなんて

 ルシアは、未(いまだ)に不思議に思う。

「……頑張ります」

 ルシアは景気づけに、花を咲かせてみることにした。

 何度も挑戦するが1度も成功したことがないが、今度こそと意気込む。

 クライヴが庭園に咲き乱れる花を見つめて微笑んでいる姿はなかなか、新鮮だ。

 ルシアが花を咲かせたら褒めてくれるだろうか。

 明朗とした声が、空気が振るわせる。

 杖を振り翳した。

 ぽぽぽん。

 すると辺り一面に、黄色、赤、白、青、様々な色と形の花が一面に咲き乱れた。

(どうか、無事にいきますように)

 切なる願いを込める。

 きらきらと光を浴びて輝く花は、

 暫くしても誇らしげに咲いたまま。

「やった!」 

 庭園の景色が一層賑やかになった。

 ぴょんぴょんと飛び跳ね、喜びを表現した。

 すべてが上手くいくといい。

 魔法を完成させて、ちゃんとマスターして後悔しないようにしよう。

 クライヴに勝つことよりも、自分に負けてはならない。

 笑顔がよい方向に物事を引き寄せてくれる。

 そればかりではないけど、一理はある。

 花達が風に吹かれる。

 同じ気候条件、環境では本来なら咲かないはずの花達が、皆一緒に咲いている。

 命の限り寿命を全うしてほしい。

 ルシアは、初めて咲かせた花達を愛しく感じていた。

「……魔方陣の部屋を使わせてもらおう」

 庭園は、草花が、生い茂っているため、

 安全性を考えるとそちらの方がよかった。

 ルシアはにわか魔術師に過ぎない。
 ここで、事故を起こし庭園を台無しにしたらクライヴは、さすがに、怒りを表すだろう。
 それより、彼の憩いを奪うことは、何より悲しい。



 未熟な魔術師見習いは、安全な場所で魔術の特訓をするのが一番だ。

 より安全かつ効果的に魔術を使える場所に移動するのが懸命だ。

 魔法陣の部屋を使えばいいと、クライヴは言ってくれなかったが、自分で気づけということだったのだろう。

 彼はそれぐらい気づけと突き放すことも知っている。

 飴と鞭を上手く使い分ける男なのだ。

 庭園を抜けて階段を上る。

 地下一階に辿り着いて扉を開ければ、クライヴがいた。

 彼は手に光を集めては、解き放っている。

 ルシアはきょとんとする。

 光が弾けては消えるのを目にして身震いした。

(そんなに技術を磨かなくても、あなたは、

 底知れないほど強いですから!)

「ク、クライヴ!」

 思わず叫んでしまった。

 生み出されていた光が消え、魔方陣の部屋に暗闇が戻る。

 ぱちぱちと瞬きしたルシアは、クライヴに近づいていった。

 銀髪は、暗闇の中で闇に溶けずに彼の存在をあらわにしていた。

 目を眇めてクライヴがルシアの姿を捉えた。

「クライヴ、何してるんですか! 」

「お前が俺と闘うために一生懸命頑張っているのに、

 手を抜いては失礼かと思ってな」

 明らかに面白がっていた。

「いつも自信満々でぞんざいな振る舞いばかりで

 余裕に満ち溢れているでしょ。それも、嫌味じゃないから
 小憎(こにく)らしいんですけど。

 私、素人ですよ。こてんぱんに伸のすつもりですか」

 ルシアは拳を握り締めて言葉に力を込めた。

「礼には礼を尽くす主義だ」

 しつこく食い下がるクライヴはあくまで無表情。

「全然失礼なんかじゃありませんから

 暫くゆっくりくつろいでいてください」

 不服そうなクライヴはルシアの勢いに気圧されたのか、

 どうでもよくなったのか固い床でごろ寝を始めた。

 頭の下で腕まで組んでいる。

 ルシアは真横で寝転がられ、唖然とした。

「……じゃあゆっくりするかな」

「私が、特訓してても気にしないでくださいね。

 寝られるかは分かりませんけど」

 クライヴは心底おかしそうな顔をした。

「……ああ。ここで、魔術を使うのか?」

「だって、庭園は危ない気がして」

「今頃気づいたのか。鈍いのも天然記念ものだな」

「……っ」

「ちょっと考えりゃ分かることだろうが。

 人に頼るばかりじゃ成長できないぞ」

 案の定、想像通り手痛い言葉が返ってきた。

 ルシアは一瞬顔を顰めたが、気を取り直して、

「怪我したら大変ですから、

 避けといた方がいいかもしれませんよ」

「……お前が俺に怪我を負わせられるとは思わない」

 さきほどとの態度の違いにルシアは、唖然とした。

 否、こちらの方がよほどクライヴに合う。

「確かに一理ありますが」

 ルシアは、釈然としなかった。

(端(はな)から相手にはならないんでしょうけど)

 クライヴが離れるより早く彼から距離を取った。

 庭園よりは狭いがこの部屋もかなりの広さがある。
 離れれば、術者の魔術を受けてしまうことはない。 
 
 悔しいが、部屋全体に影響を及ぼせるほど、ルシアの魔力は強くなかった。

「……真剣な表情がまた可愛いんだからな」

 クライヴはそんな自分に苦笑する。

 距離が離れているのでルシアには聞こえないが。

 楽しい気分で、ちらりとルシアを見やる。

 杖を上方に振っている。

 地獄目(ルシア談)のクライヴは

 彼女の表情までも窺い知ることができた。

 真剣な表情で杖を振るっている。

「……一丁前な面構えだ」

 惰眠を貪ろうと思っていたクライヴだが、

 結局ルシアが気になって眠れない。

 肘を立てて寝転がったまま、ルシアの方に視線をやった。



 ルシアはクライヴが見守る中、夢中で魔法を唱えていた。

 魔術というのは、精神と肉体、両方を酷使する。

 あと六日でどうにか使えるように

 ならなければいけないなど相当きつい。

 もういっそ楽しめればいいかと楽観的にいくことも視野に入れた。

 大好きな睡眠も削りたいが、睡眠不足は

 体調不良を招いたり精神的にも不安的になりがちだ。

 そんなの馬鹿馬鹿しい。

 頑張るけどマイペースにやろう。

 無理をしたって、勝機などゼロより低いのだから。

 ルシアは、素早く杖を振って魔法を繰り出す。

 魔術は人を殺す術でもある。

 人を簡単に殺められる術を持つ黒魔術師は忌み嫌われる存在。

 それを意識して常にシビアでいることが大事だと、

 自分の生まれた時代に戻る以前に、口が酸っぱくなるほど

 クライヴに言い聞かせられたルシアは、それを自戒として、胸に刻み込んでいた。

 魔術は人を殺す術。

 自分の力が未熟な場合、諸刃の剣となり自分に跳ね返ることもある。

 自分の力量を見極められずに、命を落とす魔術師も少なくないという。

 ルシアにはそんなことにはなってほしくない。

 自分が教えた責任と、何よりルシアを失いたくないと

 クライヴが真剣な目で語ったのはいつだったろうか。

 クライヴの魔術を教わった弟子として強くなりたい。

 魔術師クライヴの弟子として相応しく。





 見た目も派手なら、魔術も派手だな。

 クライヴはルシアを見やりながらそんなことを思う。

 まだ一人前になるまで程遠いルシアが、

 よく炎と風を合わせた魔術などを思いついたものだが

 付け焼き刃の魔術は心許ないものだ。

 必死なルシアに対して、告げることができなかった。

 いくら頑張ろうと、元々半人前の力しかないのに、どうして強い魔術が使えようか。

 二つの属性の魔術の合成は、両方の属性である火と風を

 ちゃんと扱えないと 上手くいくはずもないのだ。

 二つの魔術を合わせられたと錯覚しても

 結局中途半端に威力が半減する羽目になる。

 魔術勝負で実際にクライヴと相対するまで

 ルシアは分からないかもしれない。

 折角努力しているのに、言えない。

 クライヴは、もどかしかったが、ルシアの努力する姿に、

 何も言えなかった。
 傷つけたくないというのは、愚かな考えだが、彼女を愛してしまったのだ。

 彼女の真っ直ぐな瞳に映るものを見守りたい。

 ルシアを見ていると時折たまらない気持ちになるが、

 そんなクライヴの心を彼女は知るよしもないだろう。

 いつか消えゆく儚げな炎のように、心もとなく映る。

 もう、いなくなったりしないと、分かっているのに、

 どうしようもない不安にも駆られる。

「……お前は、俺の最高のパートナーで最高の弟子だよ」

 クライヴの側で、彼に囚われることなく

 純粋な想いをぶつけ、痛みまで感じさせる存在。

 未いまだかっていなかった奇跡を起こしたのだ。

 クライヴに、多大な影響を与え短い期間で自分の存在をこれまでかと

 ばかりに、彼の中に焼きつけてしまった。

 愛を手にした時、人は強くなり、弱くもなる。

 身を持って教えてくれたのがルシアだ。

 彼女を失った時クライヴは世界を壊してしまうことさえ厭わないだろう。

 視界の隅でルシアが、急に魔術を使うのを止めた。

 ぺたんと床に座り込み、頬杖をついている。

 適度に休憩を取ることを覚えたのならいいことだ。

 クライヴは口の端を緩く持ち上げ、腰を上げた。



 長い黒衣(ローブ)Iを捌いてクライヴが、歩いてくる。

 はっとしたルシアは杖を手から離してしまった。

 杖はからんからんと音を立てて回転し、すぐ側の床で動きを止めた。

 クライヴは口元を押さえた。

 あまりにも分かりやすく反応するルシアがおかしくて、思わず吹き出していた。

「……笑うなんてあんまりですよ」

 クライヴの口元が震えてるのも、

 声が漏れているのも聞き逃さないルシアだった。

「今のは驚かせたクライヴが悪いんだから」

「そうだな。悪かった」

「本当に悪いと思ってますか?」

「勿論」

 くすっと笑ったルシアをクライヴは眩しそうに見つめていた。

 次の日もその次の日も、ルシアは

 魔方陣の部屋で、腕を磨いた。

 クライヴは、ルシアが休憩を取る度、

 厨房から差し入れたお茶を飲んだりおしゃべりをして、二人で過ごす時間を持った。

 そんな折ふと、クライヴはルシアの手に目が止まった。

 折角の綺麗な手の平が、傷だらけになっていた。

 指にできた肉刺まめが潰れている。

 白い皮膚の表面には無数の傷が走り、痛々しい。

 革の手袋を唇で乱暴に外すと、自らの手でルシアの手を擦った。

 治癒してやれない自分が、もどかしくて無力に過ぎないこの身が恨めしい。

 クライヴは、手の平を擦っては自らの頬に寄せる。

 無言で手の平を握り、優しく擦ってくれているのを感じ、

 ルシアの心はほんわかとあったかくなった。

 唐突で心臓に悪いけれどやっぱりこういう優しい所も好きなんだと改めて思う。

 武骨で飾らない性分のクライヴ。

「痛むか」

「平気ですよー」

「どこがだよ」

 クライヴは納得がいかない顔だ。

 ルシアは困らせるつもりはなく、心配かけたくない一心だった。

 ほんの小さな傷だし、生活する上での支障はないのだ。

「……クライヴ」

 クライヴはルシアの手の平や手の甲、

 指先の隅々に至るまで唇を押し当て始めた。

 リップノイズが耳に響いて、ぽっとルシアの顔が朱に染まる。

「傷を治す力があればいいのに」

 クライヴからぽつりと漏らされた言葉。

 どうして彼はこんなに切ない瞳をするのだろう。

 クライヴに気を遣わせてしまったことが申し訳ないと思いながらも、

 ちくちくとした痛みが吹き飛ぶくらい心が

 満たされるのを感じていた。

「……ううん、もう痛みなんて感じていません」

 ――あなたが癒してくれたから。

 不器用な優しさは、人間らしく感じられた。

 彼の想いが心に届く。

  ルシアはお返しとばかりに、クライヴの頬に唇を寄せた。

 クライヴは、目を見開いたがすぐに真顔に戻り、

 ふわりとルシアの体を引き寄せた。

「今日は、明日に備えてゆっくり休め。

 明日、またこの部屋で会おう」

 淡々と紡がれた言葉には、精一杯の想いが込められている。

「はい!」

 ルシアは、ぎゅっと抱きついて抱擁に応えた。

 真正面から見つめてくる瞳は鋭くて、でもどこか柔らかい。

 ぽんぽんとルシアの背中を撫でてクライヴは体を離した。

「クライヴ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 ルシアは、クライヴの瞳に自分の姿が

 しっかりと映されているのを感じて、

 些細なことに、喜びを感じられて良かったと思った。

 お互いに背中を向けて、部屋を後にする。

 先にルシアが階下へ向かい、それを見送って

 クライヴが奥の寝室の扉を開けた。

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