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第9話「もどかしいほど彼は優しい」
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慧一さんの愛車の中で、いつになく緊張していた。
膝の上に手を置いてぎゅっ、と両手を重ね合わせる。
気がつけば車内は、全面がカーテンで覆われ
密室の空間を醸し出していた。
「ほとんどの社員は、帰ってる時間だ。
問題ない。早く二人きりになりたくて
ずっとそわそわしていたんだよね」
慧一さんは舌なめずりし、こちらに覆いかぶさってきた。
背中を抱きしめられただけなのに、心臓が暴れてたまらない。
「すごく煩(うるさ)いね。ドキドキしちゃった?」
胸元に頬を寄せられている。
「っ……だって」
慧一さんが好きだから意識して心臓の音も早く大きく
鳴り響いてしまう。異性として恋愛感情を抱く相手だから。
頬をなでた指が唇に触れる。
開かれた唇に舌が忍び込み絡められた。
「っん……」
ねっとりと絡められ、二人の間で水の糸が橋を作る。
吐息が弾ける。
お互いスーツを着て車内でこんなことをしている状況が信じられなかった。
引き締まったスーツの胸元を叩く。
彼は難なく手首を優しくつかんだ。
「優香……本当に嫌ならやめるよ」
「……嫌じゃないの。車の中が嫌なだけで」
「わかった。俺の家においで。
夕食をごちそうするよ」
抱擁されたままで告げられ、うなずく。
「さっきの可愛すぎて俺を煽っただけだよ」
手を掴まれ誘導された場所で触れた熱にびくりとする。
最上級のいたずらだった。
慧一さんのマンションの部屋に着いてリビングに案内された。
「すぐできるからお茶を飲んで待っててね」
麦茶をグラスに注いでくれ彼はダイニングキッチンに消えた。
手際よく準備し調理する音が聞こえてくる。
次第にいい匂いもし始めた。
慧一さんは料理もプロ級でなんでもそつなくこなす。
スポーツカーも華麗に乗りこなすし……。
(粘着質な大蛇(バジリスク)。
それでもぎりぎりを守ってくれてる)
「慧一さん、私より料理が上手いし
ちょっと悔しいなあ」
「褒めてくれてありがとう。独り身が長くて
慣れているだけだよ。俺としては優香の手作りご飯も食べたいなあ」
飲み終わったグラスを手に持っていると、慧一さんが現れた。
20分ほど待ったころだった。
テーブルに置かれたのは大皿に盛られたパスタが二種類、
ボウルに入ったグリーンサラダだ。
小皿やドレッシングも横に置かれている。
パスタはカルボナーラと、ペペロンチーノ。
どっちも食べたいという願いを叶えてくれる仕様だ。
「美味しそう。手際いいですよね」
目を輝かせた私に、慧一さんは優しいほほえみを浮かべた。
お茶のお代わりがグラスに注がれる。
「食べよう。今日もお疲れさま」
「慧一さん、おつかれさまです」
アルコールではないがグラスを合わせて唇を湿らせる。
小皿にパスタを取り分けてくれた慧一さんににこっと微笑む。
「優香は罪なほどかわいい。
会社の奴らに目をつけられてないか不安だよ」
「……何言ってるの? 香住課長の人気には
驚くくらいですよ。休憩時間によく女子社員に
噂されてます」
「悪口かなあ。俺は職場では結構厳しいし」
「仕事は厳しいけどフォローは欠かさないし、
さりげないのがニクいそうですよ」
「案外好かれてるんだな。
話しかけたら緊張してる感じだったけど」
「それは、あなたがかっこいいからです!」
「ありがとう」
淡々とした反応だが瞳は嬉しそうだった。
「奥さんはどんな人なのか気になるみたいでしたよ」
ちら、と顔を盗み見る。
食事の合間の会話なのでテンポは悪い。
普段女性よけでつけているフェイクの指輪は、車のダッシュボードに投げ入れている。
偽りの仮面ごと捨ててきたみたいに今は素顔の慧一さんが目の前にいる。
「本当は、嘘の指輪だって言いたい。
私が恋人なんだもの」
「そうだね。君に婚約指輪を贈って、
次は二人で結婚指輪をはめたいかな。
近い将来の俺の夢だ」
アルコールを口にしていないのに頬に朱がのぼる。
彼の言葉に酔わされてしまっていた。
二種類のパスタはどちらもおいしいし付け合わせのサラダも、
手作りドレッシングで絶妙の味だ。
「こうやって語り合っていたいですね」
「本気にしてないの?」
「私は過去に恋愛で失敗しているから、
こんな風に未来を語り合うこともなかった。
一年付き合った後でお別れした時も、
ようやく終わったって思っただけなんです。
束縛するくせにこちらの束縛は嫌悪したり……」
「優香を支配したかっただけじゃないか。
俺なら、束縛はお互いにしあいたいね。
優香が女子社員の噂話を語る時の表情とか、
そういうの見られてうれしいけどな」
「どんな顔してました?」
「俺と恋人同士だと伝えてしまいたいって顔に出てた」
グラスの麦茶でのどを潤す。
料理はほぼ食べ終えてまったりとしたムードが流れていた。
「さっき言ってくれたように俺もばらしたい気持ちもあるけど。
そのうちサプライズで驚かせようよ。
だから君も仕事を頑張って。
仲間ともたくさん交流してね」
「はい。香住課長のもとで頑張ります。
私はまだひよっこですからね」
その時、向かいに座っていた慧一さんが立ち上がり
私の後ろに立った。肩を抱きしめられる。
「後輩もいるんだから君はもうひよっこじゃないだろ」
「そうですね。頼りになる先輩になりたいです」
「大丈夫。優しくて頼りになるって後輩社員から聞いてるよ」
耳元をくすぐる低音。
肩に回された腕は少し熱かった。
エアコンの風にあたっていても彼の体温はしっかりと感じられる。
「今日は泊まっていくんだろ。
用意はしてきた?」
「はい」
リビングのソファの上に置いたバッグには、
着替えや化粧品が入っている。
明日は日曜日だからゆっくりできる。
少しだけ甘い予感への気持ちを抱きながら、私はここにいた。
「優香の心臓がまた鳴り響いてる。
まだ何もしてないんだけど?」
「っ……えっとこれは」
「……もし先に進んだら君の心臓が壊れちゃうのかな。
それは困る」
「大丈夫です!
私もあなたを同じくらいドキドキさせてみせるから」
「……かわいい」
軽いリップノイズがして頬に口づけられたのを知った。
「洗い物しますね」
「君はお客様だから気にしなくていいよ。
先にお風呂入ってくるといい」
立ち上がりキッチンに向かいかけた私を彼は言葉で制した。
髪をなで背中をなでる。
ぽん、ぽんと叩いてくれた。
「でも……してもらってばかりで申し訳ないわ」
「いいよ。付き合いが長くなったら甘えちゃうかも」
そう伝えてくれた慧一さんはバスルームへと私を送り出し、
自分は食事の片づけをした。
「優しすぎ……」
広いバスタブに肩までつかった私は、慧一さんの
優しさが少し怖くなっていた。
強引なところはあるけれど優しさはそれ以上だ。
バスルームの扉を開ける前に彼が用意してくれたバスローブやタオル
が籠の中に置かれているのを確認した。
(いたれりつくせりなんだもの)
一緒に住むわけでもなく宿泊なのに恋人用の
シャンプーやボディーソープまで用意してくれている。
「……慧一さん」
ぽつり、独りごちていると突如としてバスルームの扉が開いた。
(えっ……!)
長身の男性がゆっくりと中に入ってくる。
「お待たせ。さみしかったよね」
バスルームの中で彼の声が反響している。
「さ、さみしくなんてないです」
彼に肌をさらしている事実に気づき慌てて背中を向けた。
シャワーの音が聞こえてくる。
「つれないなあ。俺は優香と早く一緒に入りたかったのに」
シャワーの音でかきけされない声。
(とんでもなく甘いんですけど……!)
慧一さんがゆっくりするためにもバスルームを出たいけれど、
タオルもまいていない状態で立ち上がれない。
入浴剤を入れたバスタブに浸かっていれば肌はある程度隠せる。
観念することにした。
「すみません。私、長湯しすぎですよね」
「のぼせるのはよくないから出る?」
「いえ、ここにいます」
身体と頭を洗ってお湯につかったが食事を終えてから
三十分少しというところだろうか。
(慧一さんは男性だから普段はさっと洗ってお風呂から上がるのよね。
きっと。異性とお風呂入ったことないからわからないけど)
「入っていい?」
洗い終えた慧一さんが声をかけてきた。
顔を見ず返事をするのは失礼だと思い視線を向けた。
腰にタオルを巻いて微笑んでいる。
「ど、どうぞ」
「そんなに避けなくても大丈夫。優香は小さいし。
それにもっとくっつきたい」
指先が絡められていた。
背後に回った慧一さんに抱きしめられている。
肌同士は触れるかどうかの隙間を空けながら。
(紳士的な距離感?)
お腹に触れるかどうかの場所で腕を組まれている。
「優香はとってもよく頑張ってるよ。
俺こそ君にふさわしい男にならなくちゃその内振られそう」
「それはないから安心して」
「そう? 朔さんとも仲良くなれるかな。
あのかっこいいお兄さんには好かれたいなあ」
「意味深な言い方やめてください」
「もちろん優香に好かれるのは別の意味だよ。
彼ともっと交流を持って俺を知ってもらいたい。
三人で会う機会がまたあればいいんだけど」
「お兄ちゃん……私のことをすごくかわいがってくれてるんです。
今は無理に距離を縮めようとしたら逆効果かも」
「お兄さんに許可をもらえないと優香と結ばれることもできないなんて、
切なすぎるな」
慧一さんは面白がっているように感じた。
少し含み笑いをしている。
「そこまで話す必要はないです。
私は大人ですから自分で決めて何もかも受け入れます」
「大人の付き合いに口を出されたくないよね」
顎が捕まれる。
身体ごと振り向かされて、キスが舞い降りてくる。
何度もついばまれ唇が濡れてきた。
長い指が下唇に触れる。
「……続きはまた今度。
先にバスルームを出るから優香もお湯の中から出てね」
耳元に口づけて彼は、バスタブから立ち上がった。
私は茫然と見送ったのだけれど。
(……見てはいけないものを見たような)
バスタブから上がり椅子に座ってほてった頬を押さえた。
用意されたバスローブを着てリビングに戻る。
慧一さんは水を飲んでいるようだ。
「優香も水分取ってね。ダイニングのテーブルの上に水の容器があるから」
「ありがとう」
グラスに水を注ぎ、椅子に座って飲んだ。
リビングに戻ると慧一さんに手招きされた。
「おいで?」
歩いていくと腕を引かれ膝の上に乗せられた。
(下着も着ていない状態で密着してしまった)
お互いバスローブ姿で意識しないようにするのが大変だ。
「髪を乾かしてあげる」
ソファの隅に置かれたドライヤーを手に取った慧一さんは、
私の髪を乾かし始める。
「綺麗な髪だ」
指先で触れながらうっとりとささやく。
「美容室に置いているようなドライヤーだから、
つやつやになりますね」
「君が来る時のために買っといた。
俺は使わなくても平気だからね」
時間をかけて丁寧に乾かしてくれて髪をブラシで梳いてくれた。
「何だかお姫様になった気分」
「お兄ちゃんにしてもらったことないの?」
「兄にしてもらうのとは違います」
「やっぱりされてたか。悔しいな」
「そんなことでライバル意識燃やさないでください」
「これからは俺が優香を大事に守っていくから。
シスコンお兄ちゃんに負けないように」
「ふふ」
今日の慧一さんは、何だかかわいらしい。
「あ、あの……」
ぎゅっ、とバスローブの裾を掴む。
「ん? 風邪ひかないようにパジャマに着替えて寝るんだよ」
髪をなでて微笑んでくれる。
「慧一さん」
背中に腕を回し、抱きついた。
「大好きです」
「ああ。俺も大好きだよ」
深くはないキスは彼の優しさを教えてくれるものだ。
少しは自分からも何かできたらと思い、頬に口づけた。
軽いリップノイズ。
「慧一さんのほっぺってすべすべですね」
指で触れて頬ずりする。
「っ……、君はこっちの気もしらないで!」
声を荒らげた慧一さんに驚く。
怖くはないけど……瞳の奥に宿る光は狂おしいもので。
組み敷かれて見上げた姿は初めて見るものだった。
「慧一さん?」
背中に腕が回る。
「ごめん……、優香は俺の部屋の隣に部屋を用意してるから、
そっちを使って。おやすみ」
私の頬をなでた慧一さんは身体を離しリビングから出て行った。
意識してくれていたってこと?
でも私のために決してそれ以上を求めない。
(多分、まだ覚悟はできてないの気づかれてた。
触れられても嫌じゃなくても……不安は消えないままだ)
「慧一さん……おやすみなさい」
愛しさが募る中、それぞれ別の部屋で眠った。
目覚めた時、コーヒーの香りに導かれダイニングに向かうと
普段と変わらない慧一さんの姿があった。
眼鏡もかけて会社の時と同じ顔になっている。
膝の上に手を置いてぎゅっ、と両手を重ね合わせる。
気がつけば車内は、全面がカーテンで覆われ
密室の空間を醸し出していた。
「ほとんどの社員は、帰ってる時間だ。
問題ない。早く二人きりになりたくて
ずっとそわそわしていたんだよね」
慧一さんは舌なめずりし、こちらに覆いかぶさってきた。
背中を抱きしめられただけなのに、心臓が暴れてたまらない。
「すごく煩(うるさ)いね。ドキドキしちゃった?」
胸元に頬を寄せられている。
「っ……だって」
慧一さんが好きだから意識して心臓の音も早く大きく
鳴り響いてしまう。異性として恋愛感情を抱く相手だから。
頬をなでた指が唇に触れる。
開かれた唇に舌が忍び込み絡められた。
「っん……」
ねっとりと絡められ、二人の間で水の糸が橋を作る。
吐息が弾ける。
お互いスーツを着て車内でこんなことをしている状況が信じられなかった。
引き締まったスーツの胸元を叩く。
彼は難なく手首を優しくつかんだ。
「優香……本当に嫌ならやめるよ」
「……嫌じゃないの。車の中が嫌なだけで」
「わかった。俺の家においで。
夕食をごちそうするよ」
抱擁されたままで告げられ、うなずく。
「さっきの可愛すぎて俺を煽っただけだよ」
手を掴まれ誘導された場所で触れた熱にびくりとする。
最上級のいたずらだった。
慧一さんのマンションの部屋に着いてリビングに案内された。
「すぐできるからお茶を飲んで待っててね」
麦茶をグラスに注いでくれ彼はダイニングキッチンに消えた。
手際よく準備し調理する音が聞こえてくる。
次第にいい匂いもし始めた。
慧一さんは料理もプロ級でなんでもそつなくこなす。
スポーツカーも華麗に乗りこなすし……。
(粘着質な大蛇(バジリスク)。
それでもぎりぎりを守ってくれてる)
「慧一さん、私より料理が上手いし
ちょっと悔しいなあ」
「褒めてくれてありがとう。独り身が長くて
慣れているだけだよ。俺としては優香の手作りご飯も食べたいなあ」
飲み終わったグラスを手に持っていると、慧一さんが現れた。
20分ほど待ったころだった。
テーブルに置かれたのは大皿に盛られたパスタが二種類、
ボウルに入ったグリーンサラダだ。
小皿やドレッシングも横に置かれている。
パスタはカルボナーラと、ペペロンチーノ。
どっちも食べたいという願いを叶えてくれる仕様だ。
「美味しそう。手際いいですよね」
目を輝かせた私に、慧一さんは優しいほほえみを浮かべた。
お茶のお代わりがグラスに注がれる。
「食べよう。今日もお疲れさま」
「慧一さん、おつかれさまです」
アルコールではないがグラスを合わせて唇を湿らせる。
小皿にパスタを取り分けてくれた慧一さんににこっと微笑む。
「優香は罪なほどかわいい。
会社の奴らに目をつけられてないか不安だよ」
「……何言ってるの? 香住課長の人気には
驚くくらいですよ。休憩時間によく女子社員に
噂されてます」
「悪口かなあ。俺は職場では結構厳しいし」
「仕事は厳しいけどフォローは欠かさないし、
さりげないのがニクいそうですよ」
「案外好かれてるんだな。
話しかけたら緊張してる感じだったけど」
「それは、あなたがかっこいいからです!」
「ありがとう」
淡々とした反応だが瞳は嬉しそうだった。
「奥さんはどんな人なのか気になるみたいでしたよ」
ちら、と顔を盗み見る。
食事の合間の会話なのでテンポは悪い。
普段女性よけでつけているフェイクの指輪は、車のダッシュボードに投げ入れている。
偽りの仮面ごと捨ててきたみたいに今は素顔の慧一さんが目の前にいる。
「本当は、嘘の指輪だって言いたい。
私が恋人なんだもの」
「そうだね。君に婚約指輪を贈って、
次は二人で結婚指輪をはめたいかな。
近い将来の俺の夢だ」
アルコールを口にしていないのに頬に朱がのぼる。
彼の言葉に酔わされてしまっていた。
二種類のパスタはどちらもおいしいし付け合わせのサラダも、
手作りドレッシングで絶妙の味だ。
「こうやって語り合っていたいですね」
「本気にしてないの?」
「私は過去に恋愛で失敗しているから、
こんな風に未来を語り合うこともなかった。
一年付き合った後でお別れした時も、
ようやく終わったって思っただけなんです。
束縛するくせにこちらの束縛は嫌悪したり……」
「優香を支配したかっただけじゃないか。
俺なら、束縛はお互いにしあいたいね。
優香が女子社員の噂話を語る時の表情とか、
そういうの見られてうれしいけどな」
「どんな顔してました?」
「俺と恋人同士だと伝えてしまいたいって顔に出てた」
グラスの麦茶でのどを潤す。
料理はほぼ食べ終えてまったりとしたムードが流れていた。
「さっき言ってくれたように俺もばらしたい気持ちもあるけど。
そのうちサプライズで驚かせようよ。
だから君も仕事を頑張って。
仲間ともたくさん交流してね」
「はい。香住課長のもとで頑張ります。
私はまだひよっこですからね」
その時、向かいに座っていた慧一さんが立ち上がり
私の後ろに立った。肩を抱きしめられる。
「後輩もいるんだから君はもうひよっこじゃないだろ」
「そうですね。頼りになる先輩になりたいです」
「大丈夫。優しくて頼りになるって後輩社員から聞いてるよ」
耳元をくすぐる低音。
肩に回された腕は少し熱かった。
エアコンの風にあたっていても彼の体温はしっかりと感じられる。
「今日は泊まっていくんだろ。
用意はしてきた?」
「はい」
リビングのソファの上に置いたバッグには、
着替えや化粧品が入っている。
明日は日曜日だからゆっくりできる。
少しだけ甘い予感への気持ちを抱きながら、私はここにいた。
「優香の心臓がまた鳴り響いてる。
まだ何もしてないんだけど?」
「っ……えっとこれは」
「……もし先に進んだら君の心臓が壊れちゃうのかな。
それは困る」
「大丈夫です!
私もあなたを同じくらいドキドキさせてみせるから」
「……かわいい」
軽いリップノイズがして頬に口づけられたのを知った。
「洗い物しますね」
「君はお客様だから気にしなくていいよ。
先にお風呂入ってくるといい」
立ち上がりキッチンに向かいかけた私を彼は言葉で制した。
髪をなで背中をなでる。
ぽん、ぽんと叩いてくれた。
「でも……してもらってばかりで申し訳ないわ」
「いいよ。付き合いが長くなったら甘えちゃうかも」
そう伝えてくれた慧一さんはバスルームへと私を送り出し、
自分は食事の片づけをした。
「優しすぎ……」
広いバスタブに肩までつかった私は、慧一さんの
優しさが少し怖くなっていた。
強引なところはあるけれど優しさはそれ以上だ。
バスルームの扉を開ける前に彼が用意してくれたバスローブやタオル
が籠の中に置かれているのを確認した。
(いたれりつくせりなんだもの)
一緒に住むわけでもなく宿泊なのに恋人用の
シャンプーやボディーソープまで用意してくれている。
「……慧一さん」
ぽつり、独りごちていると突如としてバスルームの扉が開いた。
(えっ……!)
長身の男性がゆっくりと中に入ってくる。
「お待たせ。さみしかったよね」
バスルームの中で彼の声が反響している。
「さ、さみしくなんてないです」
彼に肌をさらしている事実に気づき慌てて背中を向けた。
シャワーの音が聞こえてくる。
「つれないなあ。俺は優香と早く一緒に入りたかったのに」
シャワーの音でかきけされない声。
(とんでもなく甘いんですけど……!)
慧一さんがゆっくりするためにもバスルームを出たいけれど、
タオルもまいていない状態で立ち上がれない。
入浴剤を入れたバスタブに浸かっていれば肌はある程度隠せる。
観念することにした。
「すみません。私、長湯しすぎですよね」
「のぼせるのはよくないから出る?」
「いえ、ここにいます」
身体と頭を洗ってお湯につかったが食事を終えてから
三十分少しというところだろうか。
(慧一さんは男性だから普段はさっと洗ってお風呂から上がるのよね。
きっと。異性とお風呂入ったことないからわからないけど)
「入っていい?」
洗い終えた慧一さんが声をかけてきた。
顔を見ず返事をするのは失礼だと思い視線を向けた。
腰にタオルを巻いて微笑んでいる。
「ど、どうぞ」
「そんなに避けなくても大丈夫。優香は小さいし。
それにもっとくっつきたい」
指先が絡められていた。
背後に回った慧一さんに抱きしめられている。
肌同士は触れるかどうかの隙間を空けながら。
(紳士的な距離感?)
お腹に触れるかどうかの場所で腕を組まれている。
「優香はとってもよく頑張ってるよ。
俺こそ君にふさわしい男にならなくちゃその内振られそう」
「それはないから安心して」
「そう? 朔さんとも仲良くなれるかな。
あのかっこいいお兄さんには好かれたいなあ」
「意味深な言い方やめてください」
「もちろん優香に好かれるのは別の意味だよ。
彼ともっと交流を持って俺を知ってもらいたい。
三人で会う機会がまたあればいいんだけど」
「お兄ちゃん……私のことをすごくかわいがってくれてるんです。
今は無理に距離を縮めようとしたら逆効果かも」
「お兄さんに許可をもらえないと優香と結ばれることもできないなんて、
切なすぎるな」
慧一さんは面白がっているように感じた。
少し含み笑いをしている。
「そこまで話す必要はないです。
私は大人ですから自分で決めて何もかも受け入れます」
「大人の付き合いに口を出されたくないよね」
顎が捕まれる。
身体ごと振り向かされて、キスが舞い降りてくる。
何度もついばまれ唇が濡れてきた。
長い指が下唇に触れる。
「……続きはまた今度。
先にバスルームを出るから優香もお湯の中から出てね」
耳元に口づけて彼は、バスタブから立ち上がった。
私は茫然と見送ったのだけれど。
(……見てはいけないものを見たような)
バスタブから上がり椅子に座ってほてった頬を押さえた。
用意されたバスローブを着てリビングに戻る。
慧一さんは水を飲んでいるようだ。
「優香も水分取ってね。ダイニングのテーブルの上に水の容器があるから」
「ありがとう」
グラスに水を注ぎ、椅子に座って飲んだ。
リビングに戻ると慧一さんに手招きされた。
「おいで?」
歩いていくと腕を引かれ膝の上に乗せられた。
(下着も着ていない状態で密着してしまった)
お互いバスローブ姿で意識しないようにするのが大変だ。
「髪を乾かしてあげる」
ソファの隅に置かれたドライヤーを手に取った慧一さんは、
私の髪を乾かし始める。
「綺麗な髪だ」
指先で触れながらうっとりとささやく。
「美容室に置いているようなドライヤーだから、
つやつやになりますね」
「君が来る時のために買っといた。
俺は使わなくても平気だからね」
時間をかけて丁寧に乾かしてくれて髪をブラシで梳いてくれた。
「何だかお姫様になった気分」
「お兄ちゃんにしてもらったことないの?」
「兄にしてもらうのとは違います」
「やっぱりされてたか。悔しいな」
「そんなことでライバル意識燃やさないでください」
「これからは俺が優香を大事に守っていくから。
シスコンお兄ちゃんに負けないように」
「ふふ」
今日の慧一さんは、何だかかわいらしい。
「あ、あの……」
ぎゅっ、とバスローブの裾を掴む。
「ん? 風邪ひかないようにパジャマに着替えて寝るんだよ」
髪をなでて微笑んでくれる。
「慧一さん」
背中に腕を回し、抱きついた。
「大好きです」
「ああ。俺も大好きだよ」
深くはないキスは彼の優しさを教えてくれるものだ。
少しは自分からも何かできたらと思い、頬に口づけた。
軽いリップノイズ。
「慧一さんのほっぺってすべすべですね」
指で触れて頬ずりする。
「っ……、君はこっちの気もしらないで!」
声を荒らげた慧一さんに驚く。
怖くはないけど……瞳の奥に宿る光は狂おしいもので。
組み敷かれて見上げた姿は初めて見るものだった。
「慧一さん?」
背中に腕が回る。
「ごめん……、優香は俺の部屋の隣に部屋を用意してるから、
そっちを使って。おやすみ」
私の頬をなでた慧一さんは身体を離しリビングから出て行った。
意識してくれていたってこと?
でも私のために決してそれ以上を求めない。
(多分、まだ覚悟はできてないの気づかれてた。
触れられても嫌じゃなくても……不安は消えないままだ)
「慧一さん……おやすみなさい」
愛しさが募る中、それぞれ別の部屋で眠った。
目覚めた時、コーヒーの香りに導かれダイニングに向かうと
普段と変わらない慧一さんの姿があった。
眼鏡もかけて会社の時と同じ顔になっている。
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