甘く残酷な支配に溺れて~上司と部下の秘密な関係~

雛瀬智美

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第二話「逃れられない腕に絡め取られて」

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番号の部分は手書きだった。
香住慧一(かすみけいいち)、とんだ食わせ者だ。
(名刺は、つき返せないもの。
ずるいやり方だ)
返事はせずに、階段を駆け下りた。
息を切らして戻った私に同僚の菜都子が、驚いている。
「……ぎりぎりだったから」
「あ、課長だ」
彼女が、見ている先に課長が見えた。
私のすぐ後で急いで戻ってきたのだろう。
息を切らしている様子もないし、涼しげだったが。
(煙草の匂いより、香水の匂いが強かったかもしれない……ブルガリのブルー)
菜都子に声をかけられる前に、さっさと自分のデスクに着く。
離れた席から、視線を感じた。射るようで、背筋が熱くなる。
小さく首を振って、チャイムと共に仕事に戻った。
終業後、トイレで携帯電話を見つめる。
名刺に刻まれた番号を登録するか迷っていた。
(……登録してかけてしまったら、もうOKしたことになる。イエスなら電話をして。
柔らかな物腰の彼は、そう言った)
深く考えなくていいのだろうか。
社内恋愛(オフィスラブ)で、上司と部下の関係。
醜聞(スキャンダル)は、一般社員より
大きく膨れ上がり、尾ひれがつく。
頭のよろしい課長が考えていないはずもない。
大事な話があるから、屋上に来てほしいと、人目を避けて呼び出したのだ。
まんまと応じたこの身が、憎い。
「……ふう」
課長は、私を恋愛対象として見ていたから、こちらが意識しているとわかったのか。
普通、社員には、そんな目を向けないだろう。
ひどく女慣れしていて、怖い部分もある。
戻れない道に引きずり込まれてしまうような畏怖に怯えながらも、
名刺の番号を登録した。
(あの、瞳の奥に隠された真実を知りたい)
香住課長と登録した。
震える指先で、課長の番号を呼び出す。
「やあ、掛けてきてくれたんだね」
5コールで、課長は出た。
周りに人の気配はない。電話の向こうは、静かだった。
「……イエスと受け取ってくれてかまいません」
「かけてきてくれたもんね。まだ何かありそうだけど」
「旅行には行きません。OKしたからと、
 すぐ旅行というのはおかしいので、
一人でツインを使ってください」
「強引だったかな。ごめんね。
旅行に行けば、絆を深められると思って」
ちっとも、悪そうに聞こえない。
「絆も何も、ないですよ。よく言うわ」
 上司と部下としては、良好な関係を
 築いているが、男女の仲という意味の絆ではない。
「じゃあ、俺の家にでも来る?
 引っ越したばかりで綺麗だよ」
「旅行を断ったでしょう! そこで分かって」
「……じゃあ、他の人もいる所ならいいかな。
 君は思ったより警戒心が強い」
「……あなたに、色目を使われて、
 警戒しない女なんていないでしょ」
「……警戒してもらえるというのも、いいもんだけどね。
そのかたくなな鎧を剥いで、手にした時の喜びを想像するだけで心が躍るよ」
「……変な人」
「褒め言葉に取っておく。
早速、今日のオフタイムは一緒にどう。
地下駐車場で待ってるから」
「……えっ、今日は」
「大丈夫。イケナイ事はしないから」
その声が、既に危ないと思っていても抗えなかった。
「はい……地下駐車場に行けばいいんですね」
「待ってるよ」
課長の声は、どこか弾んでいた。
エレベーターを降りて地下駐車場で待っていると、颯爽とした足取りで課長が、やって来た。
思わず怯んだ私の手はさりげなく
引かれ、導かれる。
助手席が、右にある外国車だ。
扉を開けられ、乗ってしまった。
閉まる。隣に課長が、乗り込む。
「よかった。電話をくれなかったら、
俺は、道化そのものだった」
(私がかけるって思っていたでしょ)
内心の声を言葉にせず、息をつく。
「三島さん、恋ってね、意識せずとも落ちているものなんだよ。
今の立場とか、そんなのは関係なくなる。
落ちたんだから衝動に従うしかないんだ」
「饒舌ですよね」
「好きな存在には、言葉が過ぎてしまうみたいだ。うるさいかな?」
「……いえ、よく次から次へと出てくるなって」
「ははっ。性分(しょうぶん)だよ」
課長が、運転の準備に入る。
シートベルトの差し込み口を探していたら、
ここだよと、小声で言われる。
課長の腕が、身体に、触れた。
カチャリ。
シートベルトが、装着された。
(彼の腕の中に閉じ込められたようなものだ)
「車、出すよ」
課長は、声をかけて車を発進させる。
連れて行かれたのは、レストランだった。
超がつくほど高級なお店で、今まで来たこともない。
車から降りた課長は、手を差し出す。
強気で握ったりせずに、私が手を掴むのを選んだ……。
その行動の意味は、この後わかる気がした。
「……こんな所に課長と来るなんて」
「他の男がよかった? 妬いてしまいそうだ」
「そういうことじゃなくて」
「躊躇(ためら)わないで扉を開けよう。
怖がることは何もないよ」
高級レストランに入るという行為に足をすくませているのではない。
何かに怯えている。
決して、こちらに不用意な視線は送らないが、さりげなく様子をうかがう。
課長は、紳士なのだろうか。
危険な匂いが、溢れ返っていても。
「は、はい」
課長は、満足げに頷いた。
握られた手が熱い。
開け放たれた世界へと飛び込む。
予約席へと案内されて、仕組まれていたと悟る。
(用意が良すぎるわ……断られるなんて思ってもないのね)
奥の席に案内された。
窓から見える東京の夜景が綺麗だった。
残業は、こういう夜景を見られるのがご褒美だと思う。
向かい合って座ると課長は薄く微笑みを浮かべていた。
「どうして、そんな顔をするんですか? 」
「三島さんと食事する状況が、嬉しくなっちゃって」
「歓迎会でもご一緒しましたが」
「今日は誰もいない」
他の人がいる所と言われてうっかり騙された!
確かに他の客もいるが、奥まった予約席だ。
この店は予約制のスタイルを取っているようで、多くの客がいるわけでもない。
二人きりの状況を招いてしまった己の浅はかさを呪った。
もっと問いつめておけば良かった。
「君と過ごせるなら手段なんて選ばない。
卑怯で、小賢(ざか)しいと罵(のの)しってもいいんだよ」
「……そんなの言われたら罵れなくなるでしょ」
「もっと強気でいたらいいよ。上司と部下、年齢の違いなんて気にしないで」
「……課長」
「名前で呼んで。君のことは優香さんでいいかな? 」
「会社の外でなら」
「もちろんだよ、優香さん」
課長改め慧一さんは、目元を緩めた。ブリッジをいじるのはくせだろうか。
「……慧一さん? 」
「なんだい」
「眼鏡の縁をいじるのは、くせなんですか?
会社ではやめた方がいいわ。やらしいから」
今度はワイシャツのカフスに触れた。
時折、視線が送られて、びくっとする。
「……車に乗ったら、罠があったわ。
恋愛経験がないわけでもないのに、男の人のことを侮(あなど)って……私って馬鹿なの」
心の中の声が、口に出てしまい、はっ、とした時には遅かった。
「俺が君を篭絡(ろうらく)するみたいに言わないで。
君が望まないことはしないから」
「はあ……」
「料理来たよ。食べようか」

料理はとても美味しかった。
帰りの車内で、戸惑っていると、慧一さんが、身を寄せてきた。
密室という空間で逃げられるはずもない。
(……こわい)
吐息が、首筋に触れて目を閉じる。
びくっとした私は顔まで赤いだろう。
くすっ、と笑った慧一さんは、頬にキスを落として離れた。
「今日はありがとう。楽しかったよ。
君も楽しく過ごせたかな? 」
「はい。ごちそうさまでした」
「君を送り届ける役を出来て光栄だな」
身構えていた私は、胸をなでおろす。
肩透かしを食らわせて、
安全だとこちらに思わせている。
(……嘘はつかなかった)
気づいた時は、もう慧一さんの手の内で、
絡め取られた時は、さらなる深みにはまっているのだろう。
もう、なるようにしかならない。
踏み出した上司との恋を受け入れる覚悟をした。

就寝の支度をして、寝ようかと布団に入った頃、携帯電話に着信のランプが灯った。
香住課長と表示されている。
「……慧一さん? 」
「寝るところだったかな。申し訳ない」
「いえ。まだ起きてましたから」
「それなら、良かった。眠る前に君の声を聞きたくて」
「……甘いことばかりしないで」
過去の恋愛で彼氏におやすみと言われたことは、経験あったが、相手が違うと戸惑うものなのだ。
(慧一さんの声が、甘ったるいのよ)
「彼女の声が、聞きたくなるのは、
しょうがないよ。自然なことだ」
ああ言えばこう言う。電話越しの眠たげな声は、普段より更に色気があった。
「……おやすみなさい」
「おやすみ、また明日、君がいい時にメールを見てね」
通話を終了すると、部屋に静寂が戻る。それから、眠りについた。
胸騒ぎはやまないまま。朝起きて、メールを確認すると、
「おはよう。優香さん、よく眠れた?
今日はデートしようか。準備ができたら電話で教えて」
デートする予定は、すでに定められていた。
流されるのもいいか。
(一気に書かれていたわ……喋っている時と変わらない)
朝食を食べ、着替えて、メイクをした。
携帯電話を手にすると、着信履歴から電話をかけた。
「準備できました」
「迎えに行くから待ってて」
「……はい」
マンションの部屋を知られていても、不思議ではなかった。
課長だから、住所も把握している。
そわそわしながら、彼を待った。
髪をいじってみたり、鏡で自分の顔を確かめたり。
まるで、初めて恋人ができて、浮かれている女の子だ。
(……こんなに、心が弾むのは久しぶり)
思い出にするのも嫌な記憶もあるけど、
慧一さんなら、忘れさせてくれるかもしれない。
微かな予感に胸が震えた。
電話が鳴る。1回で切られたのは、
到着を知らせたのだ。
扉を開けて鍵を閉める。
一階のエントランスを抜けて、外に出たら、
運転席の窓(ウィンドウ)が開いた。
「……っ、慧一さん? 」
「どうしたの? 驚いた顔して」
「今日はコンタクトなんだなって」
「私生活(プライベート)では、コンタクトの時が多いよ。オンとオフを分けたいからね」
「ですよね」
助手席のドアが開かれて乗り込む。
「優香さんこそ、ずいぶんと印象が違うね。
今日はナチュラルで、どこのお嬢さんかと思ったよ。可愛らしいね」
「会社では、よそ行きの顔ですからね」
この殺し文句はなんなのか。
真顔で口にするんだから、どうしようもない。
「どっちの君も好きだよ」
顔が熱くなる。
(私もそうだとは、口にできなかった)
「どうして君に交際を申し込んだか知りたい? 」
「……私のこと好きって言ってくれましたよね」
「そうだね。好きだから付き合いたいって言ったわけだけど」
区切るしゃべり方は、心臓に悪い。
慧一さんは、笑顔を崩さないし、深い意図はないんだろうけど。
「社内恋愛は面倒だから、フェイクの指輪(リング)をつけてたのに、私には
あっさり好きって言ってくれましたものね」
「社内恋愛で終わらない予感があったからね」
車を早く出してほしい。
心臓が高鳴ってるのが、嫌になる。
「……慧一さんは気安いことを言い過ぎなの」
「チープな表現だけど、優香さんに運命を感じた。
大事に君との愛を育てていけたらいいなって」
髪を一筋掴まれる。慧一さんの指に挟まった髪は、さらと指先で揺れた。
髪に落とされたキス。
「……慧一さん、私のことはいつから好きだったんですか? 」
「初対面の時から気になってたよ。
一年も声を掛けなかったのは、上司としての
対面やらを気にしてたからだが、
そろそろいいかなって」
慧一さんは、色々葛藤していたようだ。
私も彼が気になっていたが、いつしか気持ちに蓋をしていた。
紛い物(フェイク)を結婚指輪と思い込んで。
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