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第7話「お前、毒蛇だな」
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休憩終了のチャイムが鳴って、
仕事を再開した。
仕事中は、余計な場所に視線をやらないようにしようと意識しているが、
背中にも見られているのが伝わってきて動揺する。
(……ば、バジリスクだ。噛まれたら、
そこから毒が回るのよ! )
慧一さんは、毒蛇とか失礼なことを考えた。
後で、苦情を言おう。
今日は誰かさんのせいで、ミスを連発したから、サービス残業になってしまった。
帰って行く同僚を見送ってから、給湯室に向かった。
「……うわ!」
「どうしたの? 怖がらせちゃったかな」
給湯室では、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ慧一さんがいた。
「怖くはないですけど」
「三島さん、残業なんだね。偶然だ。
俺も残業だから、分からないことや、
助けてほしいことがあったら、うんだよ」
「課長……ありがとうございます」
慧一さんの言葉がわざとらしく聞こえるのは、私の耳がおかしいのだろうか。
(疑いすぎかな)
私のコーヒーも注いでくれた慧一さんは、にこにこと微笑んで椅子に座った。
(お砂糖とミルクも入れてくれた)
「あり……」
お礼が手で制された。
「いいの。可愛い部下を労(ねぎら)っただけ」
私は立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
落ち着かない。
平静を装いつつ馴れ馴れしく接してくる
神経の図太い慧一さんは、先に出るつもりはなさそうだ。
早くこの場から立ち去りたい。
「三島さん、ちょっと」
慧一さんが、指をくいくいとこちらに向けている。
眼鏡をかけた課長の顔で手招きをされた。
訝しみながら、隣の椅子に座ると、あろう事か耳に唇を寄せてきた。
肩に手も置かれている。
(ちょ、ちょっと……! 誰が見てるか分からないのに……いや、
ほとんど同じ課の人達は帰っている。分かっててやってるんだわ)
頭の中は混乱していたが、慧一さんは知る由(よし)もなく、耳元で口を開く。
「……優香」
びくっとした。
「今夜は君の部屋に行きたいな……手料理食べさせて」
こく、こくと頷く。
「会社での優香も、いいね。付き合う前の君みたいだ。そそられる」
「こっちは、真剣に仕事をしに来ているのよ! 」
思わず声を張り上げて、はっ、とする。
コーヒーカップを片づけると、慧一さんを残して給湯室を出た。
背中に視線を感じたが、気にしては駄目だと言い聞かせた。
仕事を片づけると、帰る準備をする。
恥知らずにも慧一さんのマンションに泊まり、そこから出社してしまった。今日は、
精一杯、おもてなししてお礼をしよう。
疲れた体を引きずりながら、地下駐車場に向かった。
携帯に連絡しても、すぐに返事はなかった。仕事が終わってないのだ。
(私のせいかな……後処理とか)
何となく罪悪感を覚えていると、かつかつと、靴音が聞こえてきた。
長い足は大股で、私のそばまで来るのは、
あっという間だった。
「待っててくれたんだ。嬉しいな」
「お疲れ様です」
「お疲れ様。さ、乗って」
車の鍵を開け、助手席のドアを開いてくれた。
私は躊ためらいなく身を滑りこませる。
「私のせいで、手間取らせてしまってたらごめんなさい」
「一応、俺の役職は課長だから、
他のみんなが帰ってからじゃないと、
帰れないんだ」
「……慧一さんは、みんなに慕われているわ」
「だと、いいんだけどね」
慧一さんは、謙遜するでもなく淡々と口にした。
「優香は、俺に言いたいことがあるんだろ」
薄暗い車内で、ルームライトをつけてくれた
慧一さんは、自分から切り出した。
「……慧一さんは、上司と部下の距離感を
どう考えているの? 」
「どうとは……? 」
「会社の人に私とあなたの関係がバレたら、大変でしょ! 考えてないの? 」
「別にバレてもいいけど。虫除けになるし」
「はぁ? 指輪してるくせに、よく言うわよ」
慧一さんは、サイドポケットに紛い物(フェイク)の指輪を投げ入れた。
「優香以外、男も女も近づけたくないから、外さないけど」
「……ややこしくなるから外して!
恋愛じゃなくて不倫になるのよ! 」
勢いづいた私がよほど、おかしかったのか、
慧一さんは、押し殺した笑い声を上げた。
「大人しいより、それくらいでいい。その方が、俺も落とし甲斐があって楽しい」
「落とし甲斐も何も……とっくに落ちてるじゃない」
好きになってはいけない部類の危ない男だった。
いい人ではあるはずだが、時々慧一さんの正体が分からなくなる。
「優香、俺と愛のレッスンをしてみようか」
「は……愛のレッスン」
「お姫様を眠りから覚まさせてあげる。
本当の愛を教えてあげるよ」
人の話を聞いているのかどうか。
慧一さんは、助手席の私に、腕を伸ばし
抱きしめると、首筋を指でたどった。
「ん……は、早く車を出して」
「遅くなっちゃったから、どこかへ食べに行こう」
吐息が、肌に触れる。
走り出した車の中、身体を震わせた。
たどり着いた居酒屋は、よく覚えがある場所だった。
「ここは、美味いんだよ。酒を飲まなくても、料理だけ頼めばいいし」
よく知っていた。
「……ここは、やめときましょう! 」
慧一さんの腕を引っ張る。
「嫌な思い出がある場所? 」
「そうじゃないけど……ここは」
「……理由を教えてくれるかい? 」
「兄が……よく来るので、いるかもしれません」
「もし会えたら好都合じゃないか。ご挨拶ができるし」
「……駄目なんですってば! 」
扉が開かれる。賑やかな空気が伝わってきた。
慧一さんに店の中に連れ込まれ、危惧していたことが、現実として訪れたのを知る。
カウンター席に座っているのは、兄の朔だ。
後ろ姿で分かってしまう。
グレーのスーツをきっちりと着こなしている。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか? 」
「二人です。座敷でお願いいたします。
灰皿は結構です」
店員に聞かれる前に、慧一さんは告げた。
私は彼の後ろをついて行こうとしたが、
鋭い声に呼び止められた。
「優香……奇遇だな」
席を立った兄が近づいてきた。
靴の音が、やけに響いて聞こえる。
「香住さん、初めまして……じゃないか。この前は電話でどうも。
鹿島朔です。優香のたった一人の実兄です」
兄・朔の声は、極めて穏やかだったが、
棘が含まれていた。
「初めまして。あなたが朔さんですね。
こうして見ると優香さんによく似ている。
美形兄妹ですね」
「俺は今はっきりと、理解した。お前、毒蛇だな」
「……席を移動しませんか? 一緒に食べながら話しましょう」
「いいだろう」
凍りついた空気に、はらはらとした。
兄の言動を意に介してない様子で、冷静に対応している慧一さんも、逆に怖い。
兄が襖を開く。
慧一さんが、揃えた靴の隣に靴を置くと、
彼は微笑んだ。兄は離れた所に靴を脱いでいた。
店によっては別の場所に下駄箱があり、スリッパに履き替える場合もあるが、
ここは、部屋の前で脱ぐようだ。
二人のあとに続き、靴を脱ぐと襖を閉める。
慧一さんの左隣に座ると、彼と、兄が向かい合う形になってしまった。
斜め向かいに座った兄が、険しい顔を慧一さんに向けている。
「……優香、さっきから何も言わないな」
話しかけてこないでという念は通じなかったらしい。兄から視線が飛んできて、
もごもごと口を動かした。
「お前、もっとはっきりと物を言えるタイプだったよな。ちゃんと言え」
「慧一さんもいるし! 」
置いてけぼりにして会話はしづらい。
そろり、横を見ると慧一さんは、メニューを見ていた。
「優香、ここには何度も来たことがあるの? 」
「ええ、お兄ちゃんに連れてきてもらったから」
「じゃあ、自分で選ぶ? おすすめでいいなら、適当に注文するけど」
「おすすめで」
「了解。あ、お兄さん、灰皿持ってきて
もらわなくて大丈夫ですか? 」
「いらん。それと、てめぇの兄貴じゃない」
「将来、そうなるかもしれないじゃないですか」
慧一さんは、兄にメニューを渡す。
「どの面(つら)、下げて抜かしてんだ」
渡されたメニューを眺めて、兄はぼそっ、とそれを口に出していた。
慧一さんは店員さんを呼んだ。
襖が開いて店員さんが、顔を覗ける。
「お決まりですかー? 」
場の雰囲気に似合わない間延びした声だ。
「ネギ多めの冷や奴、季節の天ぷら盛り合わせ、
ノンアルコールビールと、カシスオレンジをお願いします」
「たこ焼き……とノンアルカクテル」
「以上でよろしいですか? それではご注文を繰り返させていただきます」
淀みなく口にする店員さんを何となく見ていた。
店員さんが、立ち去った後、兄が口を開いた。
「飲んでもいいんですよ、優香は、俺が送りますから」
「……車で来ていますからね」
「ああ……」
「ところで、たこ焼きとは可愛いんですね。さすが、優香のお兄さん」
「大事な妹を呼び捨てにするな」
「優香ちゃんでいいですか? 」
「ちゃんづけはやめて! 」
「ちゃんづけで呼んでいいのは、俺だけだ」
「そう呼ばれると、恥ずかしい歳だから、やめてよ!慧一 さんにも、呼ばれたくないわ」
「あと、たこ焼きは、この店の看板メニューのひとつだ。食わずに帰るのは罰が当たる」
兄は、さっきのツッコミを気にしていたようだ。
「教えてくれてありがとうございます。
後で注文してみますね」
「……ところで、いつから、うちの優香と
付き合ってるんだ? 電話じゃ詳しいこと
聞いてなかったから、教えてくれよ」
兄は、うちのを強調した。
「可愛らしい優香さんとは、正式に付き合い始めて一週間少しですかね。
元々、会社でも一年の付き合いがありましたから、
優香さんが、素晴らしい女性なのは知っていました」
慧一さんと、兄が電話で話した時は、
すぐ終わったし、彼はそんなことを口にはしていなかった。
「今、なんつった? 同じ会社?
やたら、よさげなブラント物のスーツを
着ているようだから、同僚じゃないな。
歳も、俺と変わらないくらいか」
「33です。お兄さんは、
30歳と、優香さんにうかがいました。若くていいですね」
「……はあ?」
兄の額に青筋が立っているのが見えた。
「貴様、俺を怒らせるなよ」
「怒らせるようなことをしましたか?」
「二人ともやめてー! 」
「優香、喧嘩なんてしていないよ」
「で、香住さんは、どういう肩書きだ? 」
兄が尋ねると、慧一さんは、ジャケットのポケットから一枚の名刺を取り出した。
スマートな仕草で兄に名刺を差し出す。
「その歳で課長さんね……エリートのようだ」
「一昨年、課長に昇進した時は、辞令を
一度断ったんですけど、再三のお声がけに、断りきれなくて課長職を担うことになりました」
初めて知った事実だった。
やはり慧一さんは、できる男だった。私は少し引け目を感じた。
「……ふうん。ところで、優香に手を出してないだろうな? 優香は、見た目通り、
清らかなんだ。あんたが、汚していい存在じゃない」
「優香が、顔を真っ赤にしていますよ。
恥じらう妹が、可哀想ですよね」
兄と慧一さんを見比べる。
ちら、ちら視線を送っていると兄が舌打ちした。
「お兄ちゃん、慧一さんは、紳士だから、
簡単に手を出したりしないの。
私のこと信じてくれたんじゃなかったの? 」
「優ちゃんは、信じてるが、上司のくせに部下に色目を使ったこの男は信用ならん」
「お兄さん、俺はどんな間柄であろうが、優香さんに、惹かれていたでしょう。
彼女は、それだけ魅力的です。見た目もですが、心が美しいから」
さら、と言いきられ、頬が赤くなる。
照れてうつむく私に兄は、呆れた顔をした。
「……優香が、可愛くて綺麗で、どうしようもないのを分かってくれてるのは嬉しいが、
くれぐれも言っておく。嫁入り前の娘に手を出すなよ! 」
「……お兄さん、あなたは本気の恋愛をしたことがないんですか」
「香住課長、初対面から、無礼にも程があるな」
「課長であるのは、会社でだけ。
今、ここにいるのは、優香さんに骨抜きにされている愚かな男です……」
慧一さんに、流し目を送られて、心臓が跳ね上がった。
(も、もう。やめてよ、お兄ちゃんの前で)
「……今話すことか」
「妹が一番だから誰も愛せないとか
そういうんじゃないですよね? 」
「シスコンだが、優香は、あくまで妹だ。
恋愛は別だよ。当たり前だろうが」
「シスコン、認めた」
兄を見据えたら、誇らしげだった。
昔から、守ってくれた頼もしい兄だった。
慧一さんとのことを心配してくれるのもよく分かっている……。
「優香さんのことは、大事にします……
手を出すと言うのが、どの範囲までなのか、
無能な私には理解しかねますが」
慧一さんの物言いに唖然とする。
(どこが無能なのよ!頭の回転早すぎるし、
仕事の処理能力は神レベルよ。課長で収まる人じゃないって、いつも思うのに)
「……優香、悪いが俺は帰る。
俺の料理の分は払っておくから、二人で食べてくれ。くれぐれも気をつけろよ」
兄は、疲れた風情で立ち上がり、支払いに向かった。
兄の長い足は、あっという間に見えなくなる。
仕事を再開した。
仕事中は、余計な場所に視線をやらないようにしようと意識しているが、
背中にも見られているのが伝わってきて動揺する。
(……ば、バジリスクだ。噛まれたら、
そこから毒が回るのよ! )
慧一さんは、毒蛇とか失礼なことを考えた。
後で、苦情を言おう。
今日は誰かさんのせいで、ミスを連発したから、サービス残業になってしまった。
帰って行く同僚を見送ってから、給湯室に向かった。
「……うわ!」
「どうしたの? 怖がらせちゃったかな」
給湯室では、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ慧一さんがいた。
「怖くはないですけど」
「三島さん、残業なんだね。偶然だ。
俺も残業だから、分からないことや、
助けてほしいことがあったら、うんだよ」
「課長……ありがとうございます」
慧一さんの言葉がわざとらしく聞こえるのは、私の耳がおかしいのだろうか。
(疑いすぎかな)
私のコーヒーも注いでくれた慧一さんは、にこにこと微笑んで椅子に座った。
(お砂糖とミルクも入れてくれた)
「あり……」
お礼が手で制された。
「いいの。可愛い部下を労(ねぎら)っただけ」
私は立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
落ち着かない。
平静を装いつつ馴れ馴れしく接してくる
神経の図太い慧一さんは、先に出るつもりはなさそうだ。
早くこの場から立ち去りたい。
「三島さん、ちょっと」
慧一さんが、指をくいくいとこちらに向けている。
眼鏡をかけた課長の顔で手招きをされた。
訝しみながら、隣の椅子に座ると、あろう事か耳に唇を寄せてきた。
肩に手も置かれている。
(ちょ、ちょっと……! 誰が見てるか分からないのに……いや、
ほとんど同じ課の人達は帰っている。分かっててやってるんだわ)
頭の中は混乱していたが、慧一さんは知る由(よし)もなく、耳元で口を開く。
「……優香」
びくっとした。
「今夜は君の部屋に行きたいな……手料理食べさせて」
こく、こくと頷く。
「会社での優香も、いいね。付き合う前の君みたいだ。そそられる」
「こっちは、真剣に仕事をしに来ているのよ! 」
思わず声を張り上げて、はっ、とする。
コーヒーカップを片づけると、慧一さんを残して給湯室を出た。
背中に視線を感じたが、気にしては駄目だと言い聞かせた。
仕事を片づけると、帰る準備をする。
恥知らずにも慧一さんのマンションに泊まり、そこから出社してしまった。今日は、
精一杯、おもてなししてお礼をしよう。
疲れた体を引きずりながら、地下駐車場に向かった。
携帯に連絡しても、すぐに返事はなかった。仕事が終わってないのだ。
(私のせいかな……後処理とか)
何となく罪悪感を覚えていると、かつかつと、靴音が聞こえてきた。
長い足は大股で、私のそばまで来るのは、
あっという間だった。
「待っててくれたんだ。嬉しいな」
「お疲れ様です」
「お疲れ様。さ、乗って」
車の鍵を開け、助手席のドアを開いてくれた。
私は躊ためらいなく身を滑りこませる。
「私のせいで、手間取らせてしまってたらごめんなさい」
「一応、俺の役職は課長だから、
他のみんなが帰ってからじゃないと、
帰れないんだ」
「……慧一さんは、みんなに慕われているわ」
「だと、いいんだけどね」
慧一さんは、謙遜するでもなく淡々と口にした。
「優香は、俺に言いたいことがあるんだろ」
薄暗い車内で、ルームライトをつけてくれた
慧一さんは、自分から切り出した。
「……慧一さんは、上司と部下の距離感を
どう考えているの? 」
「どうとは……? 」
「会社の人に私とあなたの関係がバレたら、大変でしょ! 考えてないの? 」
「別にバレてもいいけど。虫除けになるし」
「はぁ? 指輪してるくせに、よく言うわよ」
慧一さんは、サイドポケットに紛い物(フェイク)の指輪を投げ入れた。
「優香以外、男も女も近づけたくないから、外さないけど」
「……ややこしくなるから外して!
恋愛じゃなくて不倫になるのよ! 」
勢いづいた私がよほど、おかしかったのか、
慧一さんは、押し殺した笑い声を上げた。
「大人しいより、それくらいでいい。その方が、俺も落とし甲斐があって楽しい」
「落とし甲斐も何も……とっくに落ちてるじゃない」
好きになってはいけない部類の危ない男だった。
いい人ではあるはずだが、時々慧一さんの正体が分からなくなる。
「優香、俺と愛のレッスンをしてみようか」
「は……愛のレッスン」
「お姫様を眠りから覚まさせてあげる。
本当の愛を教えてあげるよ」
人の話を聞いているのかどうか。
慧一さんは、助手席の私に、腕を伸ばし
抱きしめると、首筋を指でたどった。
「ん……は、早く車を出して」
「遅くなっちゃったから、どこかへ食べに行こう」
吐息が、肌に触れる。
走り出した車の中、身体を震わせた。
たどり着いた居酒屋は、よく覚えがある場所だった。
「ここは、美味いんだよ。酒を飲まなくても、料理だけ頼めばいいし」
よく知っていた。
「……ここは、やめときましょう! 」
慧一さんの腕を引っ張る。
「嫌な思い出がある場所? 」
「そうじゃないけど……ここは」
「……理由を教えてくれるかい? 」
「兄が……よく来るので、いるかもしれません」
「もし会えたら好都合じゃないか。ご挨拶ができるし」
「……駄目なんですってば! 」
扉が開かれる。賑やかな空気が伝わってきた。
慧一さんに店の中に連れ込まれ、危惧していたことが、現実として訪れたのを知る。
カウンター席に座っているのは、兄の朔だ。
後ろ姿で分かってしまう。
グレーのスーツをきっちりと着こなしている。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか? 」
「二人です。座敷でお願いいたします。
灰皿は結構です」
店員に聞かれる前に、慧一さんは告げた。
私は彼の後ろをついて行こうとしたが、
鋭い声に呼び止められた。
「優香……奇遇だな」
席を立った兄が近づいてきた。
靴の音が、やけに響いて聞こえる。
「香住さん、初めまして……じゃないか。この前は電話でどうも。
鹿島朔です。優香のたった一人の実兄です」
兄・朔の声は、極めて穏やかだったが、
棘が含まれていた。
「初めまして。あなたが朔さんですね。
こうして見ると優香さんによく似ている。
美形兄妹ですね」
「俺は今はっきりと、理解した。お前、毒蛇だな」
「……席を移動しませんか? 一緒に食べながら話しましょう」
「いいだろう」
凍りついた空気に、はらはらとした。
兄の言動を意に介してない様子で、冷静に対応している慧一さんも、逆に怖い。
兄が襖を開く。
慧一さんが、揃えた靴の隣に靴を置くと、
彼は微笑んだ。兄は離れた所に靴を脱いでいた。
店によっては別の場所に下駄箱があり、スリッパに履き替える場合もあるが、
ここは、部屋の前で脱ぐようだ。
二人のあとに続き、靴を脱ぐと襖を閉める。
慧一さんの左隣に座ると、彼と、兄が向かい合う形になってしまった。
斜め向かいに座った兄が、険しい顔を慧一さんに向けている。
「……優香、さっきから何も言わないな」
話しかけてこないでという念は通じなかったらしい。兄から視線が飛んできて、
もごもごと口を動かした。
「お前、もっとはっきりと物を言えるタイプだったよな。ちゃんと言え」
「慧一さんもいるし! 」
置いてけぼりにして会話はしづらい。
そろり、横を見ると慧一さんは、メニューを見ていた。
「優香、ここには何度も来たことがあるの? 」
「ええ、お兄ちゃんに連れてきてもらったから」
「じゃあ、自分で選ぶ? おすすめでいいなら、適当に注文するけど」
「おすすめで」
「了解。あ、お兄さん、灰皿持ってきて
もらわなくて大丈夫ですか? 」
「いらん。それと、てめぇの兄貴じゃない」
「将来、そうなるかもしれないじゃないですか」
慧一さんは、兄にメニューを渡す。
「どの面(つら)、下げて抜かしてんだ」
渡されたメニューを眺めて、兄はぼそっ、とそれを口に出していた。
慧一さんは店員さんを呼んだ。
襖が開いて店員さんが、顔を覗ける。
「お決まりですかー? 」
場の雰囲気に似合わない間延びした声だ。
「ネギ多めの冷や奴、季節の天ぷら盛り合わせ、
ノンアルコールビールと、カシスオレンジをお願いします」
「たこ焼き……とノンアルカクテル」
「以上でよろしいですか? それではご注文を繰り返させていただきます」
淀みなく口にする店員さんを何となく見ていた。
店員さんが、立ち去った後、兄が口を開いた。
「飲んでもいいんですよ、優香は、俺が送りますから」
「……車で来ていますからね」
「ああ……」
「ところで、たこ焼きとは可愛いんですね。さすが、優香のお兄さん」
「大事な妹を呼び捨てにするな」
「優香ちゃんでいいですか? 」
「ちゃんづけはやめて! 」
「ちゃんづけで呼んでいいのは、俺だけだ」
「そう呼ばれると、恥ずかしい歳だから、やめてよ!慧一 さんにも、呼ばれたくないわ」
「あと、たこ焼きは、この店の看板メニューのひとつだ。食わずに帰るのは罰が当たる」
兄は、さっきのツッコミを気にしていたようだ。
「教えてくれてありがとうございます。
後で注文してみますね」
「……ところで、いつから、うちの優香と
付き合ってるんだ? 電話じゃ詳しいこと
聞いてなかったから、教えてくれよ」
兄は、うちのを強調した。
「可愛らしい優香さんとは、正式に付き合い始めて一週間少しですかね。
元々、会社でも一年の付き合いがありましたから、
優香さんが、素晴らしい女性なのは知っていました」
慧一さんと、兄が電話で話した時は、
すぐ終わったし、彼はそんなことを口にはしていなかった。
「今、なんつった? 同じ会社?
やたら、よさげなブラント物のスーツを
着ているようだから、同僚じゃないな。
歳も、俺と変わらないくらいか」
「33です。お兄さんは、
30歳と、優香さんにうかがいました。若くていいですね」
「……はあ?」
兄の額に青筋が立っているのが見えた。
「貴様、俺を怒らせるなよ」
「怒らせるようなことをしましたか?」
「二人ともやめてー! 」
「優香、喧嘩なんてしていないよ」
「で、香住さんは、どういう肩書きだ? 」
兄が尋ねると、慧一さんは、ジャケットのポケットから一枚の名刺を取り出した。
スマートな仕草で兄に名刺を差し出す。
「その歳で課長さんね……エリートのようだ」
「一昨年、課長に昇進した時は、辞令を
一度断ったんですけど、再三のお声がけに、断りきれなくて課長職を担うことになりました」
初めて知った事実だった。
やはり慧一さんは、できる男だった。私は少し引け目を感じた。
「……ふうん。ところで、優香に手を出してないだろうな? 優香は、見た目通り、
清らかなんだ。あんたが、汚していい存在じゃない」
「優香が、顔を真っ赤にしていますよ。
恥じらう妹が、可哀想ですよね」
兄と慧一さんを見比べる。
ちら、ちら視線を送っていると兄が舌打ちした。
「お兄ちゃん、慧一さんは、紳士だから、
簡単に手を出したりしないの。
私のこと信じてくれたんじゃなかったの? 」
「優ちゃんは、信じてるが、上司のくせに部下に色目を使ったこの男は信用ならん」
「お兄さん、俺はどんな間柄であろうが、優香さんに、惹かれていたでしょう。
彼女は、それだけ魅力的です。見た目もですが、心が美しいから」
さら、と言いきられ、頬が赤くなる。
照れてうつむく私に兄は、呆れた顔をした。
「……優香が、可愛くて綺麗で、どうしようもないのを分かってくれてるのは嬉しいが、
くれぐれも言っておく。嫁入り前の娘に手を出すなよ! 」
「……お兄さん、あなたは本気の恋愛をしたことがないんですか」
「香住課長、初対面から、無礼にも程があるな」
「課長であるのは、会社でだけ。
今、ここにいるのは、優香さんに骨抜きにされている愚かな男です……」
慧一さんに、流し目を送られて、心臓が跳ね上がった。
(も、もう。やめてよ、お兄ちゃんの前で)
「……今話すことか」
「妹が一番だから誰も愛せないとか
そういうんじゃないですよね? 」
「シスコンだが、優香は、あくまで妹だ。
恋愛は別だよ。当たり前だろうが」
「シスコン、認めた」
兄を見据えたら、誇らしげだった。
昔から、守ってくれた頼もしい兄だった。
慧一さんとのことを心配してくれるのもよく分かっている……。
「優香さんのことは、大事にします……
手を出すと言うのが、どの範囲までなのか、
無能な私には理解しかねますが」
慧一さんの物言いに唖然とする。
(どこが無能なのよ!頭の回転早すぎるし、
仕事の処理能力は神レベルよ。課長で収まる人じゃないって、いつも思うのに)
「……優香、悪いが俺は帰る。
俺の料理の分は払っておくから、二人で食べてくれ。くれぐれも気をつけろよ」
兄は、疲れた風情で立ち上がり、支払いに向かった。
兄の長い足は、あっという間に見えなくなる。
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そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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