甘く残酷な支配に溺れて~上司と部下の秘密な関係~

雛瀬智美

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第7話「お前、毒蛇だな」

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休憩終了のチャイムが鳴って、
仕事を再開した。
仕事中は、余計な場所に視線をやらないようにしようと意識しているが、
背中にも見られているのが伝わってきて動揺する。
(……ば、バジリスクだ。噛まれたら、
そこから毒が回るのよ! )
慧一さんは、毒蛇とか失礼なことを考えた。
後で、苦情を言おう。
今日は誰かさんのせいで、ミスを連発したから、サービス残業になってしまった。
帰って行く同僚を見送ってから、給湯室に向かった。
「……うわ!」
「どうしたの? 怖がらせちゃったかな」
給湯室では、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ慧一さんがいた。
「怖くはないですけど」
「三島さん、残業なんだね。偶然だ。
俺も残業だから、分からないことや、
助けてほしいことがあったら、うんだよ」
「課長……ありがとうございます」
慧一さんの言葉がわざとらしく聞こえるのは、私の耳がおかしいのだろうか。
(疑いすぎかな)
私のコーヒーも注いでくれた慧一さんは、にこにこと微笑んで椅子に座った。
(お砂糖とミルクも入れてくれた)
「あり……」
お礼が手で制された。
「いいの。可愛い部下を労(ねぎら)っただけ」
私は立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
落ち着かない。
平静を装いつつ馴れ馴れしく接してくる
神経の図太い慧一さんは、先に出るつもりはなさそうだ。
早くこの場から立ち去りたい。
「三島さん、ちょっと」
慧一さんが、指をくいくいとこちらに向けている。
眼鏡をかけた課長の顔で手招きをされた。
訝しみながら、隣の椅子に座ると、あろう事か耳に唇を寄せてきた。
肩に手も置かれている。
(ちょ、ちょっと……! 誰が見てるか分からないのに……いや、
ほとんど同じ課の人達は帰っている。分かっててやってるんだわ)
頭の中は混乱していたが、慧一さんは知る由(よし)もなく、耳元で口を開く。
「……優香」
びくっとした。
「今夜は君の部屋に行きたいな……手料理食べさせて」
こく、こくと頷く。
「会社での優香も、いいね。付き合う前の君みたいだ。そそられる」
「こっちは、真剣に仕事をしに来ているのよ! 」
思わず声を張り上げて、はっ、とする。
コーヒーカップを片づけると、慧一さんを残して給湯室を出た。
背中に視線を感じたが、気にしては駄目だと言い聞かせた。
仕事を片づけると、帰る準備をする。
恥知らずにも慧一さんのマンションに泊まり、そこから出社してしまった。今日は、
精一杯、おもてなししてお礼をしよう。
疲れた体を引きずりながら、地下駐車場に向かった。
携帯に連絡しても、すぐに返事はなかった。仕事が終わってないのだ。
(私のせいかな……後処理とか)
何となく罪悪感を覚えていると、かつかつと、靴音が聞こえてきた。
長い足は大股で、私のそばまで来るのは、
あっという間だった。
「待っててくれたんだ。嬉しいな」
「お疲れ様です」
「お疲れ様。さ、乗って」
車の鍵を開け、助手席のドアを開いてくれた。
私は躊ためらいなく身を滑りこませる。
「私のせいで、手間取らせてしまってたらごめんなさい」
「一応、俺の役職は課長だから、
他のみんなが帰ってからじゃないと、
帰れないんだ」
「……慧一さんは、みんなに慕われているわ」
「だと、いいんだけどね」
慧一さんは、謙遜するでもなく淡々と口にした。
「優香は、俺に言いたいことがあるんだろ」
薄暗い車内で、ルームライトをつけてくれた
慧一さんは、自分から切り出した。
「……慧一さんは、上司と部下の距離感を
どう考えているの? 」
「どうとは……? 」
「会社の人に私とあなたの関係がバレたら、大変でしょ! 考えてないの? 」
「別にバレてもいいけど。虫除けになるし」
「はぁ? 指輪してるくせに、よく言うわよ」
慧一さんは、サイドポケットに紛い物(フェイク)の指輪を投げ入れた。
「優香以外、男も女も近づけたくないから、外さないけど」
「……ややこしくなるから外して!
恋愛じゃなくて不倫になるのよ! 」
勢いづいた私がよほど、おかしかったのか、
慧一さんは、押し殺した笑い声を上げた。
「大人しいより、それくらいでいい。その方が、俺も落とし甲斐があって楽しい」
「落とし甲斐も何も……とっくに落ちてるじゃない」
好きになってはいけない部類の危ない男だった。
いい人ではあるはずだが、時々慧一さんの正体が分からなくなる。
「優香、俺と愛のレッスンをしてみようか」
「は……愛のレッスン」
「お姫様を眠りから覚まさせてあげる。
本当の愛を教えてあげるよ」
人の話を聞いているのかどうか。
慧一さんは、助手席の私に、腕を伸ばし
抱きしめると、首筋を指でたどった。
「ん……は、早く車を出して」
「遅くなっちゃったから、どこかへ食べに行こう」
吐息が、肌に触れる。
走り出した車の中、身体を震わせた。
たどり着いた居酒屋は、よく覚えがある場所だった。
「ここは、美味いんだよ。酒を飲まなくても、料理だけ頼めばいいし」
よく知っていた。
「……ここは、やめときましょう! 」
慧一さんの腕を引っ張る。
「嫌な思い出がある場所? 」
「そうじゃないけど……ここは」
「……理由を教えてくれるかい? 」
「兄が……よく来るので、いるかもしれません」
「もし会えたら好都合じゃないか。ご挨拶ができるし」
「……駄目なんですってば! 」
扉が開かれる。賑やかな空気が伝わってきた。
慧一さんに店の中に連れ込まれ、危惧していたことが、現実として訪れたのを知る。
カウンター席に座っているのは、兄の朔だ。
後ろ姿で分かってしまう。
グレーのスーツをきっちりと着こなしている。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか? 」
「二人です。座敷でお願いいたします。
灰皿は結構です」
店員に聞かれる前に、慧一さんは告げた。
私は彼の後ろをついて行こうとしたが、
鋭い声に呼び止められた。
「優香……奇遇だな」
席を立った兄が近づいてきた。
靴の音が、やけに響いて聞こえる。
「香住さん、初めまして……じゃないか。この前は電話でどうも。
鹿島朔です。優香のたった一人の実兄です」
兄・朔の声は、極めて穏やかだったが、
棘が含まれていた。
「初めまして。あなたが朔さんですね。
こうして見ると優香さんによく似ている。
美形兄妹ですね」
「俺は今はっきりと、理解した。お前、毒蛇だな」
「……席を移動しませんか? 一緒に食べながら話しましょう」
「いいだろう」
凍りついた空気に、はらはらとした。
兄の言動を意に介してない様子で、冷静に対応している慧一さんも、逆に怖い。
兄が襖を開く。
慧一さんが、揃えた靴の隣に靴を置くと、
彼は微笑んだ。兄は離れた所に靴を脱いでいた。
店によっては別の場所に下駄箱があり、スリッパに履き替える場合もあるが、
ここは、部屋の前で脱ぐようだ。
二人のあとに続き、靴を脱ぐと襖を閉める。
慧一さんの左隣に座ると、彼と、兄が向かい合う形になってしまった。
斜め向かいに座った兄が、険しい顔を慧一さんに向けている。
「……優香、さっきから何も言わないな」
話しかけてこないでという念は通じなかったらしい。兄から視線が飛んできて、
もごもごと口を動かした。
「お前、もっとはっきりと物を言えるタイプだったよな。ちゃんと言え」
「慧一さんもいるし! 」
置いてけぼりにして会話はしづらい。
そろり、横を見ると慧一さんは、メニューを見ていた。
「優香、ここには何度も来たことがあるの? 」
「ええ、お兄ちゃんに連れてきてもらったから」
「じゃあ、自分で選ぶ? おすすめでいいなら、適当に注文するけど」
「おすすめで」
「了解。あ、お兄さん、灰皿持ってきて
もらわなくて大丈夫ですか? 」
「いらん。それと、てめぇの兄貴じゃない」
「将来、そうなるかもしれないじゃないですか」
慧一さんは、兄にメニューを渡す。
「どの面(つら)、下げて抜かしてんだ」
渡されたメニューを眺めて、兄はぼそっ、とそれを口に出していた。
慧一さんは店員さんを呼んだ。
襖が開いて店員さんが、顔を覗ける。
「お決まりですかー? 」
場の雰囲気に似合わない間延びした声だ。
「ネギ多めの冷や奴、季節の天ぷら盛り合わせ、
ノンアルコールビールと、カシスオレンジをお願いします」
「たこ焼き……とノンアルカクテル」
「以上でよろしいですか? それではご注文を繰り返させていただきます」
淀みなく口にする店員さんを何となく見ていた。
店員さんが、立ち去った後、兄が口を開いた。
「飲んでもいいんですよ、優香は、俺が送りますから」
「……車で来ていますからね」
「ああ……」
「ところで、たこ焼きとは可愛いんですね。さすが、優香のお兄さん」
「大事な妹を呼び捨てにするな」
「優香ちゃんでいいですか? 」
「ちゃんづけはやめて! 」
「ちゃんづけで呼んでいいのは、俺だけだ」
「そう呼ばれると、恥ずかしい歳だから、やめてよ!慧一 さんにも、呼ばれたくないわ」
「あと、たこ焼きは、この店の看板メニューのひとつだ。食わずに帰るのは罰が当たる」
兄は、さっきのツッコミを気にしていたようだ。
「教えてくれてありがとうございます。
後で注文してみますね」
「……ところで、いつから、うちの優香と
付き合ってるんだ? 電話じゃ詳しいこと
聞いてなかったから、教えてくれよ」
兄は、うちのを強調した。
「可愛らしい優香さんとは、正式に付き合い始めて一週間少しですかね。
元々、会社でも一年の付き合いがありましたから、
優香さんが、素晴らしい女性なのは知っていました」
慧一さんと、兄が電話で話した時は、
すぐ終わったし、彼はそんなことを口にはしていなかった。
「今、なんつった? 同じ会社?
やたら、よさげなブラント物のスーツを
着ているようだから、同僚じゃないな。
歳も、俺と変わらないくらいか」
「33です。お兄さんは、
30歳と、優香さんにうかがいました。若くていいですね」
「……はあ?」
兄の額に青筋が立っているのが見えた。
「貴様、俺を怒らせるなよ」
「怒らせるようなことをしましたか?」
「二人ともやめてー! 」
「優香、喧嘩なんてしていないよ」
「で、香住さんは、どういう肩書きだ? 」
兄が尋ねると、慧一さんは、ジャケットのポケットから一枚の名刺を取り出した。
スマートな仕草で兄に名刺を差し出す。
「その歳で課長さんね……エリートのようだ」
「一昨年、課長に昇進した時は、辞令を
一度断ったんですけど、再三のお声がけに、断りきれなくて課長職を担うことになりました」
初めて知った事実だった。
やはり慧一さんは、できる男だった。私は少し引け目を感じた。
「……ふうん。ところで、優香に手を出してないだろうな? 優香は、見た目通り、
清らかなんだ。あんたが、汚していい存在じゃない」
「優香が、顔を真っ赤にしていますよ。
恥じらう妹が、可哀想ですよね」
兄と慧一さんを見比べる。
ちら、ちら視線を送っていると兄が舌打ちした。
「お兄ちゃん、慧一さんは、紳士だから、
簡単に手を出したりしないの。
私のこと信じてくれたんじゃなかったの? 」
「優ちゃんは、信じてるが、上司のくせに部下に色目を使ったこの男は信用ならん」
「お兄さん、俺はどんな間柄であろうが、優香さんに、惹かれていたでしょう。
彼女は、それだけ魅力的です。見た目もですが、心が美しいから」
さら、と言いきられ、頬が赤くなる。
照れてうつむく私に兄は、呆れた顔をした。
「……優香が、可愛くて綺麗で、どうしようもないのを分かってくれてるのは嬉しいが、
くれぐれも言っておく。嫁入り前の娘に手を出すなよ! 」
「……お兄さん、あなたは本気の恋愛をしたことがないんですか」
「香住課長、初対面から、無礼にも程があるな」
「課長であるのは、会社でだけ。
今、ここにいるのは、優香さんに骨抜きにされている愚かな男です……」
慧一さんに、流し目を送られて、心臓が跳ね上がった。
(も、もう。やめてよ、お兄ちゃんの前で)
「……今話すことか」
「妹が一番だから誰も愛せないとか
そういうんじゃないですよね? 」
「シスコンだが、優香は、あくまで妹だ。
恋愛は別だよ。当たり前だろうが」
「シスコン、認めた」
兄を見据えたら、誇らしげだった。
昔から、守ってくれた頼もしい兄だった。
慧一さんとのことを心配してくれるのもよく分かっている……。
「優香さんのことは、大事にします……
手を出すと言うのが、どの範囲までなのか、
無能な私には理解しかねますが」
慧一さんの物言いに唖然とする。
(どこが無能なのよ!頭の回転早すぎるし、
仕事の処理能力は神レベルよ。課長で収まる人じゃないって、いつも思うのに)
「……優香、悪いが俺は帰る。
俺の料理の分は払っておくから、二人で食べてくれ。くれぐれも気をつけろよ」
兄は、疲れた風情で立ち上がり、支払いに向かった。
兄の長い足は、あっという間に見えなくなる。
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