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8 クラースさんの噂

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 明日は休み。だが予定はない。ここの寮にいることはかつての友人たちに一応知らせてあるのだが、連絡が来たことなんか一度もない。

 遊びたいなら自分から誘えっていう話だが、気を使われながら遊んでもらっても何も面白くはないと思う。意地を張っているわけでは決してない。あの勇者たる友人たちには、俺からも気を使っているのだ。……ちょっと寂しい気持ちはあるが。

 休みの日は食事が出ない。買い出しは明日でいいとして、それ以外はどう過ごそう。いつも誘ってもらってばかりだから、今度は自分からクラースさんを誘おうかなあと考えながら廊下を歩いていたときだった。

 同期の仲間に声をかけられた。彼は周りをこわごわ見回してから、おずおずと片手を上げて近寄ってきた。

「お疲れー……。あのさ、ジルくんってクラースさんと結構仲良いんだよね?」
「ああ、まあ……いい人だし。仲良いっていうか、俺がついつい頼っちゃう感じ」

「気ぃ悪くしないで欲しいんだけどさ、あの人……前科持ちって知ってる?」
「えっ」

 寝耳に水な話だった。今は起きてるが。前科持ち。何の罪で? 何か事件に巻きこまれて、冤罪をかけられていたんじゃないか。かつての自身の経験から即座にそう判断した。しかし同期の話はそんな希望的観測を、はるかに裏切るものだった。

「く、詳しくは知らないよ。ただの噂かもしれないし。でも魔術師免許を剥奪されたのは本当だって。捕まったから。元魔術師さんなんだよ、あの人」
「……それで?」

「ご、ごめん。やっぱ忘れて。なんか悪いことに誘われてたらまずいなって、その、心配になっただけだから。ほら、ジルくんってその、最初怖い人かなって思ってたけど、仕事はすっごく真面目にやるし、いい人だと思ってるし……呼び止めてごめんね、おやすみっ」

 同期のあいつは俺が話を聞いてる間、どんどん顔色を悪くしていき最後は逃げるように去っていった。……顔が怖かったかな。

 いや、そんなことはどうでもいい。俺はクラースさんに今すぐ会って、事実かどうか確かめたかった。でももうだいぶいい時間だ。明日にするか? いや、でも。



「おー。ジルくん。どしたのさ。眠れないの?」
「その……まあそうですね、眠れないです。なんか変な話を聞いちゃって、気になって。ちょっとだけいいですか」

 迷いに迷った挙句、俺はクラースさんの部屋へ行った。部屋の灯りは落ち、柔らかな手元灯だけがついている。大丈夫だからと言ったのだが、クラースさんは灯りをつけて暖かい飲み物を出してくれた。

 俺の今の気分からはかけ離れた、お菓子のような甘い香りが漂っている。ベーレの香酒を入れたそうだ。寝酒にはちょうど良いからと。

「変な話ってなに? もしかしてオレのことだったりして?」
「……そうです。クラースさんが、前に……ここに来る前に──」

「オレが魔術師免許剥奪されちゃった前科持ちだよーって話でしょ? ジルくんの顔見ただけで一発でわかったわー」

 何考えてるか当ててあげるー、なんていたずらを企む子供のような表情と声色でクラースさんは指摘した。

 ピッと指をこちらに差されたその瞬間、心臓がドクリと音を立て、手が痺れたように感じて思わず両手をぎゅっと握り込んだ。

「工房長は外聞が悪いから絶対人にはバラさないって言ってたけどさ、人の口に戸は立てられないって言うもんねー。言わなくても書類とかを誰かが見たかもしんないし、日刊紙にも小さくだけど載ったらしいしね。名前つきで」
「全部知っても距離置くとか、そういう薄情なことはしないです。でもこのままじゃ気になって眠れなくって。明日、いつもみたいにクラースさんが出かけて帰ってくるまで俺、我慢できなさそうだと思って。……すみません」

「ん? いいんだよー距離置いても。なんなら工房の仕事なんて、どこも似たり寄ったりなとこあるから。もしオレが辞めてもさあ、代わりなんかいくらでも──」
「ダメです! やめてくださいよ。あっ、ここを辞めないでって意味ですから。代わりなんていないですよ、俺を抜け殻にしないでください!」

『ヤダー、オレ愛されてるー』と上を向いてケラケラ笑いながらカップを持つクラースさんはあまりに無邪気で、本当に冤罪被害者なんじゃないかという希望をどうしても捨てられなかった。

 しかし、続く話はどう捉えても小市民の俺には重苦しく、校内の硝子とか、壁の落書きとか、そんなレベルのものではなかった。

「オレ的にはさー、家族を助けたつもりだったよ。だって食っていかなきゃいけないし、ずっと食わせてもらったんだからお返ししなきゃ。まあでも、ヤバいことやってる自覚ははっきりあったよ。やらされてるのもわかってた。……うーん、どこから話そうかなあ。オレの可愛い後輩くんだし、最初の最初から話してあげよう」

 クラースさんの表情からはそのとき何も読み取れなかった。いつも通りのゆるく下がった目尻と、左右対称の澄んだ瞳。十人中、十人が『いい人そう』と判断するであろう、人から全く警戒されない優しげな容貌の男の人。俺とはまるで正反対の。

 色々と思い出しているのか、少し下を向いて後ろ髪に触れている。手櫛をかけるたびにサラサラと落ちる真っ直ぐな髪。灯りが落ちると純粋な黒髪に見えるそれにぼんやりと見とれていると、パッと目が合って少し動揺した。

「ねえ、ジルくんはお父さんがもう亡くなってるけど、生前はどんな人だった? お母さんは元気なの? どんな人?」
「え、うちの両親ですか……母はまあ、元気ですよ。父は身体が弱かったですけど、問題といえばそれだけで……二人とも普通の親って感じで。俺、見た目のせいか友達とか少ないし、悪い奴らが起こした事件に巻き込まれることとかあっても親は全部わかってたんで、またかーって感じでごく普通に接してくれてはいましたね。家族ですから。父からは勉強しろ、仕事先の店主さんに迷惑かけるな、とかよく言う人で。母からは夜更かしするなとか、残さず食えとか、まあしょっちゅう言われてました。二人とも小言がとにかく多いんですが、そんな感じで普通の人です」

「いいなあそれ。普通っていいよねえ。オレは親父にぶん殴られてた記憶しかない。あと、いっつも腹減ってた。朝ご飯なんてもんがあるのを知ったのは組織に入ってからだったよ。スプーンの持ち方もおかしくて、ちげぇだろこうだよ、って仲間に何度も直された。しまいには紐でくくられてまで矯正された。学園に入ってから直してたんじゃ遅いだろって。口は悪くても親切だった。他人である仲間の方がよっぽどね」

 普通の家庭、というものがなかったという告白から始まったクラースさんの話。内容が進むにつれて、俺の頭の中にあるのであろう想像力を司る部位は過活動を始めていた。凶悪な父親と薄情な母親を思い描き、殴る蹴るの暴行を幾度となく繰り返したのだ。

 話を聞いていたときの、俺の表情を見ていたクラースさんは後に『ジルくんの方が犯罪者みたいだった』と大ウケしながら言っていた。
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