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34 煙幕ペン

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「……ん!? え、すごい! これ魔法のペンだ!!」
「え、こんな細っこいのが魔道具ですか? 綺麗なペンにしか見えませんけど」

「これは通称、煙幕ペン。インクは普通のでいいんだよ。この螺子ねじを回して中にインクを入れるでしょ、そうするといちいち付けなくても書けるんだよ。オレやってみていい?」
「いいですよ。…………へー、便利。手も普通のより汚れにくそう」

「これだけなら他にも同じ機能のものは売ってるよ。でもここから。このお尻にある白い羽根で文字を撫でると……」
「えっ!? 消えた!? これインクなのに!!」

 スッとひと撫でしただけで、元から何も書かれていなかったかのように紙の白い肌面が戻ってきた。なんてことだ。まさに魔法。術式不明のものは魔法や呪いと表記するので概ね正しい。

 おそらくだがあの熱量過多な手紙をくれた教頭先生は、俺が以前インクで手を汚したことや、没原稿を大量に出したことを鑑みてこれを選んだのだと推察される。

 ヤバい。舐めてた。ハマりすぎて熱を上げてきた人の気持ちを。こんなん一体いくらするんだ。どこから仕入れてきたんだよ。

「そうだね。これは魔力が添加されちゃうから国に提出する公的書類には使えないけど、便利な筆記用具として貴族が使うようなものだね。確かねえ、売り始めたのはオレが学園にいたころだったと思うけど、量産できないものらしくて誰も持ってはいなかった。価格は変わってるかもだけど、当時で金貨が十枚、銀貨が九枚、銅貨も九枚くらいで……」

 ほぼ金貨が十一枚だ。俺の月の給料よりかは低いくらい。しかし丸々突っ込んで買ってしまえば、生活費をごっそり失う価格である。こんなもの、便利だからと気軽に市民が持つものじゃない。決してない。

 ペンの尻尾は天使の羽根を小型化したような意匠をしている。不思議なことに、消しても消しても真っ白なままで汚れない。軸から羽根までが魔道具なのか、この羽根が魔道具なのかは外見からじゃわからない。

 透明な軸は青い硝子か何かで出来ており、持つと案外軽かった。深い海の底をくり抜いて持ってきたような色をしている。動かすたびにインクがさらりと流れてゆき、海中深くに流れる潮のようである。

 それを美しく彩るように金色の枠で囲んであり、夢の中でしか見られない黄金の植物の蔓が絡みついたように見える。持ち手の素材はわからないが人肌のようにしっとりと指に吸い付いて、長時間書いても疲れなさそうな作りをしている。

『先生の次回作を期待しております』。これを見ぬふりして良いものか、迷い始めてしまったじゃないか。この贈りものは正直嬉しいとは思うのだが。心から。

『投資はしたぞ。あとは書くだけだ』。言われたわけではない台詞が言われたように耳に届き、見たことのない教頭先生の笑った顔が見てきたかのように脳裏によぎった。



 ──────



「あー、まだそのペン見てるの? 思い切って書けばいいじゃん。次回作!」
「思い切っても考えなしじゃ、今度はインクとペン先を無駄にするだけですよ。見てくださいこの美しい黄金色。替えだけでも相当しますよ」

「でもさー、替えのペン先も何気にかなりの数が入ってたでしょ。もう完全に書かせる気じゃない、君んとこの教頭先生。インクは何でもいいからな、あとは紙だね。なくなったらオレがいくらでも買ってあげるよ大先生」
「煽らないでくださいよ。お母さんごっこの次は作家先生ごっこですか」

 俺の背中をバスルームまで押しながら『ほらー原稿遅れちゃいますよー』と作家先生ごっこを続けてくるクラースさんは本当にいつも通りだ。でもここまでだった。バスルームを出て帰ってきたら、きちんと飲み物を準備して彼は俺を待っていた。妙に真面目な顔をして。

 意識されず寂しいと思ってはいたが、それにどこか安心していた気持ちもあった。その安心がどこかへフッ飛び、俺は再び焦り始めた。彼は俺より大人なのだ。人生経験からして恐ろしいほどの段違い。きっと線引きはきっちりやる。そういう世界で育った人だ。

 彼は優しい人だ。ちょっと甘すぎるくらい俺に甘い。でもやるときはやるだろう。優柔不断な人では決してないはずだ。だから俺を切るなんてことは造作もない。この間、二秒。追い詰められフル回転した俺の頭は即座にそう結論付けた。

「クラースさん、俺はもう絶対あんなことしませんから!!」
「ジルくん、オレは君に何をお返ししたらいいのかなあ」

「だから、ここを出ていけなんて言わないでください!! 抜け殻になる自信はあります!!」
「オレ考えたんだけどさあ、呪術師さんへの返礼品って何がいいのか知らないし──」

『えっ?』という声が揃った。話がまるで聞き取れず、しばらくクラースさんから先にどうぞ、いやジルくんから、の譲り合い合戦を続けてしまった。しょうがなく俺が口火を切ったが、それを聞いたクラースさんは爆笑していた。ひどい。真面目に悩んでたのに。

「ふふっ。いやー、そんなにオレとの暮らしを気に入ってくれてたとは。嬉しいよ、君が楽しく暮らせてるならそれが一番。うーんでもさ、チューされるとは思ってなかった!」
「その節は……なんか、つい、気持ちが盛り上がっちゃって。特に呪ったりしてないとは思いますが、その点はどうでしたか」

「呪いというか祝いのほうでしょ。特に何もなかったよ。いや、あったかな? あった気がする。なんかねえ、身体の中にある心をさあ、直接柔らかいもので撫でられてる感じがした。それが妙に気持ちよくて、泣けてきちゃって止まんなかった。君はとても多才な子だよね。文章の才と呪術の才の二振り持ちかあ。凄いよねえ」

『身体の中』『撫でられ』『気持ちよくて』。そういう単語を嬉々として拾い集める脳天気な耳を内心で叱咤しながら、それをクラースさんに悟られまいと頑張っていると、笑い顔を微笑み顔に変えた彼がじっと目を合わせてきた。

「まあ飲んで。これ貰い物だけど。結構いいやつではあるのに最近出なくて、味落ちちゃうから残りはあげるって言われてさ、貰ってきたんだ。美味しいよ」
「あ、ほんとだ。フルーティ。なんかハーブとかスパイスの香りもする。でも軽くはないですね、重くて強い感じはするけど飲み口自体は優しいような」

「そうなんだよ。これはバーソロミュー・バロンっていって、二つの畑から採れた黒曜葡萄を混ぜて作っ……じゃなくて。受け売りのお酒の薀蓄は置いといて。あのね、オレは君にお礼がしたいと思ってるんだ。オレにできることならほんとに何でもやったげる。だから遠慮なく言ってみて。ものは試しに!」

 どうぞ、とでも言いたげに隣に座ったクラースさんが両手を広げた。俺は『何でも』と言われた瞬間、ある単語が頭を掠め、最高速で文章を組み立て上げた。

 俺とお付き合いしてください。いや婚約して。もういっそのこと結婚してくれ。正直に言うと寝て欲しい。あなたの寝室に入れてほしい。もう絶対一人にしない。俺がいるから。俺で良ければの話だけど。

 この間、一秒。しかし俺はそれを言わなかった。良い就職先を得るために、黙って毎晩地道に書いたあの紙束。影でひっそりコツコツと、というのが専売特許でもある俺だ。慎重に事を運びたいのだ。彼の気持ちを掴むまで。

 しかしそのくせ勢いのままやってしまった、あのことはもう取り消せないが。というか、やはり取り消したいとは思わない。

 だから一度許してくれたらしい、という事実を足がかりに使うことにして、あるお願いをしてみたのだ。それを聞いたクラースさんは寝ているところを突然起こされたかのような、ぽかんとした顔をしていたが。

 ちょっと動揺しながら、そんなことで良いのか、と解せない様子で聞かれたが、いいと言った。そんな贅沢ができるようになるだけでも、これからは何だって出来る、何者にでもなれるような気がしていたから。


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