愛していた『はず』の妻の顔が思い出せない~後悔して今更戻ってきてほしいと懇願しても遅かった~

日々埋没。

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​第3話 壊れる日常

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​「これは……」

​ 慌てふためく侍女から「一刻を争う」との報告を受け、深夜に呼び出された侍医は、イザベラの背中を検分して言葉を失った。かけるべき言葉を慎重に選び、何度も唾を飲み込んでから、ようやく重い口を開く。

​「奥さま、落ち着いて聞いてください」
「ええ、先生。話してちょうだい」

​ そう前置かれては、自身の身に良からぬ事態が起きているのは明白だった。
 それでもイザベラは、長年鍛え上げた貴族の妻としての矜持を盾に、凍りつきそうな心を押し殺して冷静に先を促した。

​「……専門外ではありますので確実なことは言えないのですが、医者仲間から聞いたことのある特徴的な症状と符合する病気に、恐らく奥さまは罹患されておられます」

​ その口振りは、絶望的なほどに確信めいていた。

​「奥さまは石化病、というものに心当たりは?」
「石化病……? いいえ、初めて耳にします」
「石化病とは指定難病の一種で、皮膚がまるで石のように固まる奇病です。まずは背中から始まり、その後、四肢、全身へと広がっていきます。末端神経にまで到達すると、さながら石膏像のようになることから石化病と呼ばれております」
「全身に……。もしそうなったら、どうなるのかしら」

​ イザベラの問いに、侍医は逃げるように視線を落とし、苦渋を舐めたような表情で答えた。

​「――死を迎えます」

​ 死。そのあまりに無機質な単語に、イザベラの背筋に本物の石を押し当てられたような寒気が走った。だが、彼女は指先一つ震わせず、内心の動揺を鋼の意志で面に出さないように務める。

​「ですが奥さま、そう悲観的にならないでください! 確かにこの病にはいまだ謎が多く完治も難しいですが、隣国ではこうした難病治療に対する専門機関が充実しているとも聞きます! ですから旦那様にもご協力いただき、なんとか早期治療に専念いたしましょう!」

​ あえて暗く聞こえないよう、必死に希望を繋ぎ止めようとする侍医。その熱を帯びた進言に対し、イザベラは力なく、しかし拒絶の色を込めてふるふると首を横に振った。

​「あの人には、このことは言わないでちょうだい。ただでさえ不妊のこともあるし、これ以上は迷惑な顔をされるだけだわ」
「ですが奥さま……!」
「いいのよ先生。隣国で治療を受けるだけなら、少しでも身軽な方がいいもの」

​ 己の生を決して諦めたわけではない。
 生きる可能性があるのなら、その細い糸に縋りたいとも思う。
 ただ、その闘病の傍らにフランクが寄り添い、共に戦ってくれる姿だけは、どうしても想像できなかったのだ。

​「……それにもう、この生活も潮時かもしれないもの。きっといい機会なんだわ」
「どういうことです奥さま?」
「いい加減、あの人の言うとおり離婚も視野に入れるということよ。その方がお互いのためでしょう?」

​ 寂しそうに、けれど憑き物が落ちたような顔でこぼすイザベラに、侍医は己の無力さを呪い、唇を噛み締めることしかできない。

​「分かりました。奥さまがそうお望みになられるのでしたら、担当医としてその気持ちを尊重したいと思います」
「ありがとう、先生」
「いいえ、私にはこのぐらいしかできませんから……」

​ かくして、美しき貴婦人の体がゆっくりと石に変わっていくという残酷な真実は、イザベラと侍医、そして涙を堪える侍女の三人だけの秘密となった。

​ ◆

​「あーくそっ、ついてないなっ!」

​ 舌打ちと共に、いつもより早めの時間に帰宅したフランクは、苛立ちを隠さず玄関を蹴るようにして入った。

 馴染みの商館に顔を出したものの、お目当てのモンモランシーは「本日は不在」だという。

 他の女を抱いて鬱憤を晴らすことも考えたが、今の自分は彼女に夢中なのだ。浮気相手に対して「裏切り」などという滑稽な理屈で操行を守り、結局何もせずに帰ってきた己の「不運」に腹を立てていた。

​「おい、帰ったぞ」

​ 不機嫌さを撒き散らしながら、誰に聞かせるでもなく吐き捨てる。
 すると、いつものようにが静かに姿を現した。

​「お帰りなさい、
「なんだお前か。……ふん、相変わらず暇そうでいい身分だな」

​ 浮気が空振りに終わった居心地の悪さを紛らわすように、わざわざ出迎えた妻へ毒を吐く。

 ふと、違和感を覚えた。いつもなら『あなた』と呼ぶはずの彼女が、なぜか今は名前で呼んでいる。

 なにか心境に変化が――そう考えかけたフランクに、イザベラは淀みのない声で告げた。

​「フランクにどうしても伝えないといけないことがあって」
「なんだかしこまって。もしかして、ようやく別れる気になったとかか? はっ、それなら嬉しいんだがな」

​ いつものように、相手を傷つけるためだけの軽口だった。
 この女は、どれだけ罵倒しようが、肖像画を踏みにじろうが、無感情に耐え忍ぶ。それなら何を言っても「平気」なのだと、フランクは自分に都合のいい解釈をしていた。
 だが。

​「フランク。――私と離婚してください」

​ その言葉が、これほどまでに重く、鋭く響くとは予想だにしていなかった。
 いざ望み通りの言葉を叩きつけられた瞬間、フランクはどのような顔をすればいいのか、まるで見当もつかなかった。
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