軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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十二・五「あまやどり」

(60)ほっかむり姿で夜な夜な踊る

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 ザァァ……と雨の音。重い水の粒が地面に当たって砕けて流れていく音だ。
 屋根の下にいるからだろうか、くぐもって聞こえてくる。なので、睦郎の帽子等からポタポタ滴り落ちる水が落下する音が余計に響いて聞こえてきた。

 予想外のできごとに驚愕するあまり立ち竦む睦郎の姿を目に納めてなお、スッと背筋を正して座る麗しき青年は動揺のひとつも見せない。それどころか、まるで睦郎がやって来ることを予知していたかのように落ち着き払った態度を崩さなかった。
 尾坂おざかせん。それが東屋の長椅子に座る男の名だ。
 かの名門九条院侯爵家の三男として生を受け、そして今は陸軍省次長の養子になった男。陸軍幼年学校、士官学校、そして砲工学校を全て首席で卒業していった天才。腰に下げてる軍刀は、砲工学校を卒業した際に下賜された恩賜の軍刀だ。さらには砲工学校を卒業してから昨年五月まで米国の某名門大学に通っていたとか。
 正直もうこれだけでお腹がいっぱいなのだが、その上でさらに五尺六寸170サンチ越えの高身長。しかも、胴が短く脚が長いという日本人離れした恵まれた体型の持ち主。挙げ句の果てはその顔。一見すると男装の麗人と間違えてしまうほど整い過ぎていて、たとえ嫌いな相手であろうと魅入られてしまう。

「申し訳がない。たとえ海軍と言えども貴公は上官。ここはただちに起立して敬礼をすべきであるとは重々承知しておりますが、こちらにはどうあっても起立できぬ事情がありますゆえ……着席したままでの敬礼をどうかお許し願いたい」

 顔に見合わず案外低い声に驚きハッと我に返ると、いつの間にか相手は静かに右手の指先をこめかみ辺りで揃えて敬礼を行っていた。

 相変わらず文句の付けようが無い完璧な敬礼をする男である。睦郎にとっては気に食わないことこの上ない存在だが、それでもこの敬礼の形は素直に称賛したくなるほど美しい。
 
(うっわ。ホンマにこいつ、腹立つくらい顔がエエな……)

 だが、いっそ無駄なくらいに整った顔を見た瞬間、収まっていたはずの腹立たしい気持ちがむくむくと甦ってきた。
 天は、この男にいったいどれだけの物をお与えになれば気が済むのだろうか。この男を構成する要素の配分を間違えたのでは。神は耄碌した爺なのか。そんな妄言を吐きたくなってしまうのも無理はないだろう。
 しかし尾坂大尉はというと、威嚇するカマキリよろしくギチギチしている睦郎の様子にはまるで気付いていない。平然としたまま淡々と会話を続けた。

 と、次の瞬間──睦郎にとって、今までで最大級の衝撃が脳天を突き抜けて走り抜けていく。

「現在、私の膝の上には猫が乗っておりますゆえ不用意に動けません。不躾であるのは重々承知しておりますが、どうかこちらの事情を汲み取っては頂けぬでしょうか」
「ゴァーン」
「!?」

 言い終わるや否や「それ」は、尾坂大尉が羽織るカーキ色の雨套の下からひょっこり顔を見せてきた。唐突に現れた「それ」の姿が目に飛び込んで来たことで、睦郎は思わずぎょっと目を剥いてしまう。
 真っ黒な顔の上で黄色い目が二つ、中央の瞳孔をきゅうっと細めて睦郎を見上げてくる。申し訳程度の可愛らしさを演出する三角の耳に、身なりの良い黒い身体からみょんと飛び出す鍵尻尾。

「アッ!! お前!!」
「ンンマー」

 よく来た人間、と言わんばかりのふてぶてしい態度で睦郎を見上げてくるのは魅惑の黒猫。棍棒のように短く太い尻尾をふぉんと振る黒猫に刺激され、睦郎の脳裏に駆け巡るのは数日前の記憶。

 まるで自分たちの戦隊が帰港するのを見計らったような都合の良いタイミングで現れた、下僕を欲しがるブチ猫とその斡旋業者である黒猫の記憶だ。
 当初は誰もがその黒猫を雌だと信じて疑っていなかった。そう、黒猫が凱旋していく際に見えた立派な玉袋さえ見えなければ。
 その上、最終的に人語を操り話し出すという、化け猫の片鱗を見せていったあの黒猫だ。間違いない、こんな特徴的な形の鍵尻尾など滅多に見られる物ではないのだから。

「お、おまっ、おまっ、ま、おまっ、そいつ……」
「ワキャヤロウ」
「ひっ……喋った……!」

 黒猫がまた何か言ってる。赤岡は気のせいだとか言って切り捨てていたが、やはりこの猫、人語を操っているではないか。化け猫だ、化け猫は本当にいたんだ。こいつは恐らく、手拭い片手に夜な夜な集会に参加している化生の類いに違いない。ならば睦郎達を容易くあしらったのにも頷ける。

 しかしそんな妖怪を平然と膝に乗せているこの男、いったい何者なのだ。

「……失礼ながら、少佐殿は“ナハト”と既に顔見知りであられたのでありますか」
「えっ?」

 と、ここで尾坂大尉の口から、固有名詞らしき単語がポロッと出てきた。
 ナハト──独逸ドイツ語で“夜”を意味する言葉だ。なるほど、夜空のような黒い被毛と月の満ち欠けを体現する黄色く丸い目を持つこの黒猫にはピッタリの名前……

「いや、ちょお待て。お前さん、この化け猫と知り合いやったんかい!」
「……化け猫?」

 ここで始めて尾坂大尉は表情を動かした。とは言え、嫌味なくらいに整った柳眉りゅうびの片方がピクリと動いた程度だが。それでも感情の機敏くらい判る。
 一文字に引き結ばれた赤い唇が、色白の美貌に華を添えていた。いや、しかし本当に端正な顔立ちをした男だ。とてもじゃないが泥臭い現場仕事が売りの工兵将校とは思えない。
 軍服を脱いで私服に着替えれば、男装の麗人と思われるのにも納得がいく。もしかしたら顔だけでも食っていけるのではないだろうか、この男。

 そんな睦郎の複雑な気持ちを知ってか知らずか。訝しげな表情をしながら、尾坂大尉が自身の膝上でくつろぐ黒猫ナハトをじっと見つめた。

「ンンン……」

 ガーゴン、ガーゴン……

 一瞬、近くで発動機エンジンが始動したのかと思った。それくらいに豪快な音がしたから。
 だが、違う。これは発動機の音ではない。音の出所は尾坂大尉の引き締まった腿に顎を乗せて、ふくふくとした表情をするナハトからである。
 発動機が始動する時の音かと思いきや、それは黒猫が喉をグルグル鳴らす音だった。猫が鳴らす喉の音は、何も「ゴロゴロ」だけでは無いのである。

「……少佐殿。ナハトを化生の類いと同列に扱うのはこれを限りに止めて頂きたい。私の前ならともかく、ナハトの主人の前でナハトを貶すのは貴公の不利益にも繋がる」
「え?」

 と、ここで新情報が飛び出す。もうこれ以上何を詰め込まれるのだとうんざりしたのだが、ここで止められたら逆に気になってしまうではないか。
 いや、しっかり悟っていた。この黒猫には飼い主がいるのだと。こんなにも毛艶が良く、身なりの良い猫は早々いない。どこかのお宅で大事にされてきた飼い猫なのだと、あの時誰もが思っていたから。

 その黒猫の名前を知っていた尾坂大尉こそが飼い主なのだと、てっきり勘違いしてしまったらしい。だが尾坂は言う。飼い主は自分ではないと。

「え……そいつのご主人って、何者……?」
「……本当に知らなかったのでありますか」

 どうやら睦郎は本当に、ナハトの飼い主が誰なのか知らないのだと察した尾坂。その深い青で染まった瞳を揺らし、伏し目がちとなる。
 白い手袋を外し、長く優美な指先が惜しげ無く晒される。尾坂の指に直接触れたナハトは気持ち良さそうに目を細めていた。

(って、睫毛まつげなっが……)
「……ナハトの飼い主は、陸軍だけではなく海軍であられる貴公とも無関係ではない方であります」

 だから、その飼い主とやらは誰なのだ。ハラハラしながらしきりに首を傾げる睦郎の様子を見た尾坂は、溜め息混じりにそっと伝えてやった。

「ナハトの飼い主は、陛下より広島鎮台を任された我が第五師団を率いられる師団長閣下であられますが」
「えっ──」

 信じられないような台詞が鼓膜を突き抜けていき、睦郎はあまりの衝撃に今度こそ盛大に固まった。

 聞き間違いでなければ、尾坂大尉は今、このナハトという黒猫の飼い主が第五師団の師団長だとか言わなかったか。

「うそやん」
「本当であります」

 一抹の希望を込めて囁いた一言だったが、尾坂の耳にはしっかり届いていたらしい。バッサリと切り捨てられて、睦郎は自分の思考がほわぁーと天に昇っていくのを感じた。

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