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プロローグ
case00. 香月探偵事務所
しおりを挟むぺたぺたぺたぺた……。
事務所の中を裸足で歩き回る音が聞こえる。
毎日口煩く「スリッパを履け」と言われるのに、香月守樹は懲りずに今日も素足のようだ。
顳顬をヒクヒクと引き攣らせ、額には青筋を浮かべた冴えない黒縁眼鏡の妻渕マオがフライ返しを片手に振り返る。
女性を思わせる名前であるが、マオは正真正銘身も心も男だ。
「もおおー! 守樹サンッ! 裸足はダメだって何度言えば分かるの! 画鋲でも落ちてたらどうするのさ! それにもうとっくに営業時間なんだけどっ!」
振り返りざまにそう怒鳴るマオの前で、寝ぼけ眼を擦りながら気だるそうに立つのは、黒髪のショートカットで中性的だが端正な顔立ちをした守樹だ。
背は低く線も細いが、齢十九にして事務所を構える腕利き探偵である。
守樹は少し苛立った様子で溜め息を吐くと、不機嫌そうにマオに言い放った。
「それはお前の掃除不足だろう。今日は依頼も無いんだ、訪ねてくる人間なんて限られてる。そんな事より朝食はまだか?」
――そんな事よりだと?
マオの顔に増える青筋に気付いた守樹は、心底面倒表臭そうな表情を浮かべると大袈裟に肩を落として見せ、やがて眉間に濃い皺を刻み、なんとも人相の悪い顔をマオに向けたが、マオは守樹のそんな様子を意にも介さない。
恐らくこれが日常だからなのだろう、マオは目を吊り上げて守樹の名前を一際大きな声で呼んだ。
「もう一度言うけど、いくら依頼が無いって言ったって事務所はもう営業してるんだから! この間だって直接来てくれた依頼人に慌てた事、もう忘れたの!?」
「慌てていたのはお前だけだろう。私は遅めの朝食の邪魔をされて虫の居所が悪かったくらいだ」
「いいから早く顔洗って着替えて来て下さいっ!」
フライ返しで勢い良く守樹の自室を指すマオに、負けじと食い下がる。
「この事務所の所長は私だ、命令をするな。それにここは事務所であり私の自宅でもあるんだ。どんな格好をしていようが私の勝手だろう」
結局いつも折れるのはマオの方だ。
マオは深く長い溜め息と共にだらりと項垂れた。
「――もう、ホンット頑固だよね守樹サン」
諦めと疲労を思わせる表情のマオは、毎回こうして自ら折れるのだ。
外の階段を上る足音をマオの耳が拾った。
マオはいち早く反応して守樹を自室に押し込むと、大きな音を立ててその扉を閉める。
この三階建ての煉瓦造りの小さなビルは、一階が守樹の幼馴染みでありマオと同い年……齢二十一の音原舞子が店主を務めるカフェ『パレット』があり、その二階がここ『香月探偵事務所』だ。
因みに三階はこの事務所の資料庫として使われている。
つまり、階段を上がって来る人物が居るとすれば、それは必然的にこの事務所に用が有る者だと推測される。
マオは考える。
――クソ、絶対依頼だ! こんなだらしねぇガキが所長だなんて知れたら、直ぐに噂が広まってただでさえ少ない依頼がゼロになる!
「おい出せ、舞子だ。問題ない」
扉の向こうから気のない声が聞こえるがこの際無視だ。
そうこうしている内に足音の主は事務所の前に着いたらしく、音は止み、代わりに事務所の扉の方からは人の気配がする。
ゴクリ……マオは生唾を飲むと直ぐに鳴るであろうインターホンに備える。
漸くインターホンの無機質だがどこか軽快な音が事務所に響き、マオは青ざめそうになる顔に他所行きの笑顔を貼り付けた。
そして玄関の扉を開けて事務的な挨拶をする。
「おはようございます、香月探偵事務所――」
そこに立つ人物を確認するとマオの顔からは、ゆっくりと笑顔が消え、その後安心した様に溜め息を零した。
そんな様子を見ていた来訪者は口元に手をやり、クスクスと可笑しそうに笑うとマオに挨拶を返した。
「おはようマオ君、いつも大変ね。守樹居るかしら?」
来訪者の正体は依頼人ではなく、先程話しに出てきた一階のカフェ店主――舞子だった。
マオは安堵の表情を浮かべると「今起きたところなんです」と愚痴の様に伝える。
「相変わらず、朝に弱いんだから……守樹ー? 早く顔洗いなさいよー」
慣れた様に事務所に上がった舞子は守樹の居る部屋に向かって声を掛けながら、持ってきた荷物をカウンターテーブルに置いた。
それを見ながらマオが問う。
「……舞子さん、この紙袋って?」
その時、マオの手によって乱暴に閉められた守樹の自室の扉が、今度は静かに開いた。
気付いた二人は、中から出てきた案の定着替えを済ませていない守樹を見やる。
心無しかその表情は不機嫌そうだ。
「ほら見ろ、問題ない」
マオを鋭い眼差しで捉えてそう言った守樹を見て、やっぱり不機嫌だと確信したところで、舞子が空気を変える様に明るい声を上げた。
「守樹、おはよう。コーヒーそろそろ切らす頃でしょ? 持ってきたわよ、その紙袋の中」
「ああ、悪いな」
「それと新聞、はい」
「ん」
事務所への郵便物は全て舞子の店に届く様になっている。
マオがこのだらしない所長の元へ来て半年しか経っていないが、その理由はなんとなくわかる様な気がした。
きっと放っておくとゴミ屋敷と化すからだろう。
そう自己完結して未だ着替えはおろか、スリッパも履かず新聞片手に事務所の中を「何か食べ物……」と呟きながらウロウロと歩き回る守樹に視線を投げ、本日何度目かの溜め息を吐いた。
「守樹サン、もう十一時になってくるよ」
腰に手をやってそう言うと、マオはふと気になった事を口にした。
「そういえば守樹サン、何で足音が舞子さんだってわかったの?」
ゴミを見る様な目……とは正にこの事だろうか。
心底引いた様な表情でマオを見る守樹だったが、やがて呆れた様に話し始めた。
「そんな事もわからないで私の助手とは……まあいい。舞子は高校生の頃、所属していたテニス部の過度な練習によって左の足首が炎症を起こし、長い間痛みに魘されてきた。
今となっては私生活に支障は無い程まで回復したが、当時の癖が抜け切れず未だに左の踵を僅かに引き摺る癖が残っている。
更にこのビルは一階から二階まで四十七段の階段があるが、舞子は決まっていつも四十段目の踊り場で景色を見る為足を止める」
マオは冷や汗が一筋、顎に伝うのを感じた。
先程までとは違う、感嘆を受けた溜め息がマオの口から無意識に吐き出される。
舞子は愛想の良い笑顔をマオに向けた。
「私も初めて聞いた時は驚いたわ。階段で立ち止まるのは確かだけど、足を引き摺ってるなんて自分では全然意識してなかったのよね。でも『言われてみればそうかも』って」
マオは再び守樹に視線を戻す。
「足音だけで、そこまでわかるもんなんだ……」
空腹を堪えきれないのだろうか、守樹はキッチンの方へ踵を返すと顔だけをマオに向けた。
「音の観察は当然の事だ。お前は日常にある音をただ聞くだけ、視覚からの情報をただ見るだけか? それなら私の助手は猿で十分だ。いや、寧ろ猿に給料を払うくらいなら居ない方が良い」
フン、と鼻を鳴らしてキッチンに入って行った守樹。
その言葉にワナワナと震えるマオを舞子が苦笑いでフォローするが、頭に上った血は引かず、ギリギリと音が鳴るほど拳を握りしめるのだった。
――こンの……っ、クソガキッ!
「あ! スクランブルエッグ! おい! いつからこれを放置してた!? 早く作り直せー!」
今日も怒号が響いた此処は……
――香月探偵事務所
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