香月探偵事務所

山本記代 (元:青瀬 理央)

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第二章 波乱

case05. 素行調査

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 守樹の任意同行から数日経ち、ベルダ事件は発展が無いまま、香月探偵事務所は慌ただしかった日も過ぎ、漸く落ち着いた日常を取り戻していた。

「守樹サーン、もう直ぐ入江いりえさんがお見えになる時間だよー」

「断れ」

「何馬鹿な事言ってるの。一度受けた依頼取り消すのは許さないよ。ほら、早く支度済ませて下さい」

「私は働く為に生まれてきたんじゃない」

「どっかで聞いた事ある台詞言ってないで、急いで」

 そう言って寝室へ誘導すると、気乗りしない様子でボスンと音を立ててベッドにダイブした。

「あっ! コラ!」



 * * *



 それから一時間程掛けて漸く守樹の身支度が整い、再び事務所へ足を踏み入れると、依頼者が訪ねてくる約束の十分前となっていた。

「寝癖直してないじゃん!」

 飛び上がって大袈裟に驚いてみせたマオが、慌てて寝癖直し用の霧吹きと櫛を引っ掴み、ブツブツと文句を言いながら手慣れた様子で守樹の髪を整えた。

それを終えた時、タイミング良く事務所のインターホンが鳴り、マオは今度は玄関の方へ急ぎ、持ち前の人の良さそうな営業スマイルを顔に貼り付けて来客を迎えると、三十代くらいの女性が少し戸惑いながら小さく頭を下げた。

「あ、おはようございます。あの、依頼した入江……入江麻美いりえあさみです」

「どうぞお上がりください。入江様、確かに本日九時三十分に御依頼を承っております」

 マオは依頼者にスリッパを履くよう左手で促し、応接用のソファへ誘導した。

「先生、入江様がお見えになりました。入江様、どうぞお掛け下さい。こちらが当探偵事務所の所長、香月守樹です。私は助手を務めております、妻渕マオと申します」

「入江です、よろしくお願いします」

 依頼者がペコリと頭を下げているにも関わらず、守樹は足を組んでソファに座ったままだ。
その様子を見たマオの額に青筋が浮かぶ。

――依頼人が来たら立って出迎えろって何回言わすんだコイツ! マジでありえねぇ……うるせぇ客だったらどうすんだよ。

 無意識の内に守樹を睨んでいたマオだったが、直ぐに本題に入った守樹の声を聞き、気持ちと頭を切り替える。

「入江麻美様、ご依頼内容は電話でお伺いした通り、ご主人の素行調査でよろしいですね?」

 守樹の言葉に、僅かに依頼者の顔が強張るのが分かった。

探偵事務所に来ているのだ。行き慣れたスーパーやコンビニに居るのとは違う。
変に緊張してしまうのも無理はないだろう。

 依頼者が「はい」と頷く。

「お恥ずかしい話しですが……実は夫は一年程前から不倫をしているんです。ですから……その、『証拠集め』って言うんですか? をお願いしたいのですが……」

「ご主人が不倫を……それはお辛い思いをされましたね。そのような中でのご決断、痛み入ります。話されるのもお辛い事と存じますが、私達と共にもう少しだけ頑張って下さいますか?」

「……はい」

「ありがとうございます。私達が全力を尽くしてサポートさせて頂きますので、不安な点や御不明な点などございましたら何なりと仰って下さいね」

「は、はい。ありがとうございます」

 まるで不安げな表情の依頼者を安心させる様に両膝をついて座り込み、優しく微笑んで声を掛けるマオを横目に、守樹は口を開いた。

「承りましょう。ところで入江さん、貴女は今後ご主人とどうしたいですか? 貴女の言う通り、不倫をしているという証拠を得られたらご主人を訴えますか?」

「……はい。その場合慰謝料はきちんと貰えるでしょうか?」

「さあ? しかし証拠は必ず揃えます。探偵われわれの仕事は証拠集めですから。法律の事は専門職程詳しくありませんが、後は弁護士次第でしょう」

 守樹の後ろに控えたマオはボイスレコーダーとメモ帳を持ち、要点を書き留める。

「では入江さん、改めて依頼の内容を確認させて頂きます――『ご主人の素行調査』でよろしいですね?」

「はい」

「証拠があれば収集し、弁護士に提示するというものでよろしいでしょうか?」

「はい」

「わかりました。では貴女がご主人の不倫を疑う様になった理由を基に、もう一度確認させて下さい」



 * * *



 入江幸則いりえゆきのり、三十六歳。
中小企業に勤めるサラリーマン。

その妻である麻美氏は二歳年下。
二人は八年前、共通の友人が主催した合同コンパで知り合い、三年の交際期間の後、結婚に至る。
結婚後直ぐに長男が誕生し、翌年次男を授かり円満な家庭を築いていた。

 が、その二年後、幸則氏の異変に気付く。

 幸則氏はそれまで妻のパートについて無関心であったが、ある日突然シフトタイムを頻繁に聞く様になる。
又、長男と次男が通う保育園についても、時間を気にする様になったという。
その変化を少し不審に思いはしたが、麻美氏はそれ程気に留めていなかった。

 そんな状態から半年経ち、会社の後輩だという女性を紹介された。

女性の名前は高部優香たかべゆうか、二十六歳。
二年前に幸則氏が勤めている会社に入社してきたとの事。

 紹介後、幸則氏は以前まで必要以上に触る事のなかった携帯電話を頻繁に開く様になり、休日には遅くまで何処かへ出掛ける事が増え、その同伴者は高部氏だと幸則氏本人が明言している。

そして、あくまでそれは仕事の一環だと言い張っているが、やはり妻として麻美氏は納得がいかないので素行調査を依頼し、浮気をしている事が明確となればその証拠を頼りに裁判にかけたいと思っている。

 出来れば親権は幸則氏へ。
慰謝料は出来るだけ高い方が良いと。

「――以上です」

 マオがメモを基に依頼の内容を読み終えると守樹が一度頷き、依頼者に目を戻す。

「今妻渕が申し上げた通りでよろしければ、こちらの書類全てにサインをお願いします」

「はい。……よろしくお願いします」

「証拠が揃い次第、妻渕の方から連絡致します」

 こうして依頼者は帰っていった。



 * * *



「守樹サン、俺何気に初めてだよ、素行調査」

 麻美が帰った後、昼食を用意しながら溜め息混じりにマオがそう言う。

 香月探偵事務所でアルバイトを始めて半年、評判こそ良くはないが意外に客足の多い探偵事務所で、マオが素行調査に関わるのは今回が初めてだ。

今まで特に多かった依頼は『子供の登下校ルートを調べて欲しい』というものだ。
治安の悪化が目立つ都会では決して珍しくない依頼だ。

その他は引越し先近辺の調査が多かった。

 やっとが舞い込んで来た事にマオはドキドキと胸踊らせ、その口元は少し緩んでいる。

「良かったな」

 そんなマオに目もくれず、守樹は林檎を齧りながら新聞に目を落としていた。

「調査はいつから始めるんです?」

「……いつにしようか迷ってる」

「今までの依頼は頼まれた日から始めてたけど、素行調査とかになると違うんだね。あ、そっか、しっかり計画を立ててからじゃないといけないって事か。そりゃそうですよね」

「いや、同じだ。できるだけ早い方が良い」

「へ? だったらどうして?」

「私自身、今から動くのがめんどくさい」

「ほら、さっさと行きますよ」



 * * *



 結局、素行調査を開始するのは後日という事になり、今日はターゲット本人が不倫をしていると仮定した上で、話しを纏める事となった。
……尤も、それはあくまで建前で実際のところはただの雑談だ。

「……守樹サン、不倫の原因って何だと思う?」

「もし不倫をしているとするなら……その理由は恐らくセックスレスか、もしくは互いの相性に問題があるからか……子供が二人居る事を考慮するならやはり前者か」

 セックスレスという言葉を、顔色一つ変えず何の躊躇いも無く発する守樹に、マオは少し動揺する。

 一方、守樹はマオの動揺には気付かない様子で何かを考えている。
思考を巡らせながらだろう、一点を見つめたまま守樹は口を開く。

はそこそこの美人ではあるが、妻として……二児の母親として見てしまうと、やはり魅力は衰えてしまうのかもしれんな。

しかしその一方で二十六歳の女性が相手となれば、そこに既婚者というスリルも加わり、恋愛の新鮮さを味わえる……。

セックスをするのも、妻子持ちという事実から背徳感も生まれ、より強い刺激を得られる。

と、私は思うが男のお前から見てどうだ?」

――マジかよ、どんな質問だよそれ。我が上司はやはりぶっ飛んでる。

「何かもう、よくわかんない」



 * * *



 数日後、いよいよ素行調査決行の日となった。

 大手に限らず、探偵事務所ではターゲットを尾行する際は多人数を動員し、怪しまれない様ローテーションを繰り返すのが基本だが、知っての通り香月探偵事務所の従業員はたったの二人……かなり骨が折れそうだ。

 今回のターゲットである入江幸則は、平日毎朝六時に家を出て電車を乗り継ぎ会社へ向かう。
その為、ターゲットの自宅付近で守樹は待機し、最寄り駅には営業マンに紛れてスーツを着込んだマオが待ち構える。

《今自宅を出た》

 マオの携帯電話に、守樹からメッセージが届いた。

《りょ》

《何だそれは》

《間違えましたすみません。わかりました》

《先が思いやられる》

 尾行スタート。



 * * *



「地味なクセにしんどいじゃん、うかうかトイレも行けないじゃん、超腹減ってんのに食えないじゃん、食っても歯磨きできないじゃん、体もベタベタすんのにシャワーすら浴びれないじゃん、そのクセ全然証拠集まんないじゃん……ナニコレ?」

 素行調査を始めて一週間が経過した。

疲れ果てた顔のマオが、事務所のテーブルに突っ伏しながら文句を垂れる正面で、流石腕利き探偵……といったところか、守樹が涼し気な面持ちで数枚の写真を並べている。

「文句を言うな。本来尾行とはそういうものだ。こればかりは忍耐力を鍛えるしかない」

 そう言って写真を全て並べ終えると、腕を組んで「ふむ」と何やら満足気だ。

「さっきから、何の写真?」

「入江幸則の写真に決まってるだろ。不倫は確定の様だな」

「ハ?」

 勢い良く上体を起こしたマオが、勢い任せに並べられた写真を全て引っ掴み、確認すると深夜街で仲睦まじく腕を組んで歩く入江幸則とその不倫相手である高部優香の姿。
更にラブホテルの前で口付けを交わす写真や、録音済みのボイスレコーダーまで揃っていた。

小刻みに手を震わせながら、マオは守樹に尋ねる。

「……これ、いつ?」

「四日前だ」

「言ってよ! 何で四日も黙ってるの!? 言ってよ! ていうかよく黙ってられたね! 証拠揃ってんだったら尾行いらないじゃん! 後の四日無駄じゃん!」

「いや、気になる事があってな」

「俺は何で守樹サンが四日も黙ってたのかって事の方が気になりますけどっ!?」

「何故彼女、麻美氏は『夫が浮気をしている』と言い切ったんだ? もしかして、既に彼女は証拠を掴んでいた? それに、何故親権は夫に譲るつもりでいるんだ?

普通、慰謝料と養育費、親権は女性の方が欲しがるものだ。
ところがは親権は要らないと言う。……どういう事だ? そればかりが引っかかる。もしかして彼女は……」

「――なんかよくわかりませんけど、とりあえず入江さんに連絡しますよ?」

「ああ」



 * * *



 翌日の昼、入江麻美は事務所に現れた。

「こんにちは。お待ちしておりました、どうぞお上がり下さい」

「失礼します……」

 麻美は事務所に最初に訪れた時とは違い、あまり緊張はしていない様子でソファに腰を下ろす。
麻美が座るのを確認した守樹が、マオに写真を提出する様促す。

「結果からお伝えしますと、やはり貴女の睨んだ通りご主人は高部氏と不倫をしていた様です。妻渕、準備を」

「はい先生。……入江様、こちらが証拠品です」

 そっと提出された写真を手に取り確認する麻美。
無言で六枚の写真を見つめるその顔からは、一体何を考えているのか全く想像がつかない。
覚悟をしていたから、ショックは少ないのだろうかとマオは考える。

「後はメールの履歴等があれば良いが……おそらく、その写真とボイスレコーダーで充分でしょう。後は弁護士の腕次第ですが、証拠は揃っているので問題ないでしょう」

 腕と脚を組んだままソファに体を預ける守樹に、麻美は上目遣いに質問する。

「弁護士……とは、どなたか紹介して頂けないですか? を利用した事が無くて……」

「私の顔が利く弁護士は、一人しかいませんが?」

「その方は、その……」

「信用頂いて構いませんよ、それに腕は確かです。貴女の要求は必ず通ります」

 さらりと言ってのける守樹にマオは驚く。

――え、なんだ? そんな知り合い居たのか? ていうか『必ず通る』って言い切って大丈夫なもんなのか?

 マオの不安を余所に、麻美は一つ頷いた。

「その方にお願いできますか?」

「わかりました、こちらから連絡しておきましょう。後日弁護士の方から貴女の携帯に連絡をさせますので、お待ちを。それと、紛失やトラブルを避けたいので、証拠品はこちらから弁護士に預けても?」

「構いません」

「わかりました。それでは我々の仕事はここまでです。どうぞお気を付けて」

 守樹がそう言うと麻美は立ち上がり、一礼して帰って行った。



 * * *



 すっかり冷えてしまったコーヒーを淹れ直しながら、マオは電話を終えた守樹に問う。

「ねえ守樹サン、『守樹サンの顔が利く、腕の良い弁護士』って一体誰の事? 俺も知ってる人?」

 守樹は子機を戻しながらケロリと答えた。

「ああ、大樹だ」

「……へ?」

 衝撃的過ぎる事実に手元が狂い、カップに注いでいたコーヒーを盛大に零してしまった。

「片付けておけよ」

――弁護士ぃ? マジかよ、人って見掛けによらねぇのな……。ホストか金貸し屋かと思ってたわ。

 しみじみとそう思いながら、マオはキッチンを片付けるのだった。



 * * *



 それから僅か三週間後、入江夫妻の裁判が無事に終わったと大樹から事務所に連絡が入った。

結果は妻、基前妻の麻美が勝利したと言う。

「へぇー……大樹さん、本当に凄いんですね」

――正直、マジで

「あの程度の要求を通せない様では、弁護士に仕事なんて来ないだろう。大樹なら証拠しゃしん一枚もなくていいくらいだ」

――キッツ。

 身内にも厳し過ぎる守樹に、マオが鳥肌を立てながら苦笑いを向けるが気にする様子は無く、守樹は切ったばかりの林檎を齧る。

「……それにしても、やはり人間という動物は強欲だな」

「……え、と? どういう意味?」

 首を傾げるマオに、守樹は一枚の写真を渡した。

マオは不思議に思いながら写真に目を落とすと、事務所に依頼に来た時とはまるで違う、華やかな洋服に身を包み、夜の繁華街でキラキラと輝く笑顔を浮かべる麻美の姿が写っていた。

その隣には、にこやかに麻美を見つめるスーツ姿の男……よく見ると二人は腕を組んでいた。

「これ、幸則さんじゃない人?」

「ああ、どうしても気になってな。後を尾けたらやはりだったらしい」

「え? え? 何?」

 混乱するマオとは裏腹に、守樹は肘をついて半目で答える。

「『慰謝料が欲しい』『離婚したい』と、ここまではよくあるケース……寧ろ探偵を利用するにあたって無くてはならないものだ。だが『親権は要らない』というのはどうもおかしい。

例え相手が浮気者の、どうしようもないクズだとしても、産んだ女性にとって子供とは何より大切なものだというのが一般的だ」

「そういえば、そんな事言ってたね守樹サン」

「子供が居ては困る何かが、彼女にはあったんじゃないかと思ってな。考えるまでも無かった。最初に不倫をしていたのは彼女の方だったんだ。

これで『金は要るが幼児二人を引き取るのは不都合』という理由が成立する。恐らく幸則氏を不倫に追いやったのも、彼女の計画の内だったんだろう」

「ええ……」

 引き攣る様な表情のマオを気に止める事無く守樹は続ける。

「賢い女は嫌いじゃない……が、少々気分が悪いのでな。報酬は弾んで貰った」

「え、そういうのって良いの?」

「お前は何も聞かなかった」

「やだ怖い」

 こうして、素行調査は幕を閉じた。



 * * *



 恋の髪をクルクルと人差し指に巻きながら、愛は口角を持ち上げた。

「ねぇ、恋? 俺そろそろ守樹に逢いたいんだぁ……」
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