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内腿の山百合ーー薄緑の花弁に隠された,蜜の旋律を歌う二人だけの練習曲
第9話:タイルの網目,「刻印」の記憶
7月末のキャンパスを覆う熱気は,試験を終えた大学生たちの解放感でさらに温度を上げているようだった。
最後の試験が終わり,吸い寄せられるように合唱サークル「ヴォーチェ」の部室へと向かった。重い扉を開けると,そこには冷房の効いた空間で,誰かを待つようにスマホをいじる美羽先輩の姿があった。その姿は,まるで**「後輩」という名の獲物が網に掛かるのを待っている**かのようにも見えた。
「あ,陽菜ちゃん! 久しぶり,試験どうだった?」
美羽先輩の屈託のない声が響く。
「……死にました。ミクロ,計算ばっかりで。『情報の非対称性』の記述問題なんて,自分でも何を書いたか……」
「あはは,大変だよね。私なんて一昨年その授業,単位落としかけたんだからね。ところでお腹空いたでしょ? 打ち上げ行こうよ!」
獲物を仕留めた美羽先輩に促されるまま,早速,一番近いファミレスに行く。
店内は,ドリンクバーの機械が唸る音,ナイフとフォークが安っぽいお皿と当たる音,そして試験から解放された学生たちの騒音で満ちていた。
冷たいオレンジジュースを一口飲むと,経済学の計算でひび割れた脳に,ようやく水分が染み渡った。
「……ふう」
美羽先輩がおかわりを取りに席を立った隙に,私はテーブルの下でスマホを取り出した。
ーー『試験終わりました』
送信して十数秒。画面の隅に『既読』が灯る。
ーー『お疲れ様 僕は明後日の2つで終わり』
「……大輝くん?」
アイスコーヒーを片手に戻ってきた美羽先輩が,私の手元を覗き込むようにしてニヤリと笑った。
「あ,……はい。試験終わったって,報告だけ」
「律儀だねえ。でも,あの6月の『交際宣言』は本当に驚いたよ。サークルの女子たちの間じゃ『公然の秘密』ってやつ? 全員知ってるからこそ,あえて誰も口にしないっていうね。……というか,みんな当てられすぎて恥ずかしくて口に出せないだけかもしれないけど」
美羽先輩は,小エビのサラダの,小エビだけ,を器用に掬い上げると,少しだけ声を落として茶化すように言った。
「でも正直,羨ましいな。私も彼氏いるけどさ,あんな風に親の前で『今日,僕から申し込みました』なんて言われたら,速攻で惚れ直す自信あるもん。……で? その後どうなの? 進展はあったわけ?」
私はオレンジジュースの氷をストローでつつき,カランと乾いた音を立てた。
「進展,と言われても……。テスト前だったので,ずっと図書館かファミレスで一緒に勉強していただけです。大輝先輩,課題が本当に大変そうで」
「えー,つまんないの! 親の前で熱烈な宣言しといて,その後はペン握ってるだけ? せっかく付き合い始めたんだから,もっとこう……手繋いだりとか,さ」
美羽先輩は「初々しいカップル」の進展を微笑ましく想像しているようだった。彼女の頭の中では,私たちはまだ,指先が触れ合うだけで赤くなるような,そんな清廉なフェーズにいることになっている。
「……美羽先輩。……先輩たちは,その,最初はどうだったんですか?」
「私? うちはお互い結構ぐいぐい行ったからねえ。でも,陽菜ちゃんは大輝くんのこと,もっと大事に育てたほうがいいよ。育ちがいいからさ。
私はオレンジジュースの氷をストローでつつき,カランと乾いた音を立てた。
「でも,あんまり焦らせて,困らせちゃダメだよ?……でもまだ,先の話か! ごめんごめん,気が早すぎたよね」
美羽先輩は,「子ども」に少し刺激の強い「大人」の話をしてしまったときのような,バツの悪い苦笑いを浮かべた。
けれど,その苦笑いの隙間から覗く彼女の瞳は,一瞬たりとも私から逸れることはなかった。それは,無邪気な「お姉さん」を演じながらも,私の微かな動揺や,肌の艶,あるいは「女」特有の空気の変化を逃さず嗅ぎ取ろうとする,冷徹な眼差しだった。
(……この人,気づいているの?)
「まだ先」だと決めつける言葉の裏に,すでに私が「その先」の景色を知っているのではないかという,確信に近い疑念を潜ませている。美羽先輩は,あえて私を「子ども」の枠に押し込めることで,私の内側に眠る「女」が反発し,正体を現すのを待っているようにも見えた。
「……そうですね。大輝先輩,本当に優しいですから」
私は美羽先輩の歩幅に合わせるように,「子ども」の微笑みを貼り付けた。
ーー美羽先輩は知らない。一ヶ月前,その「育ちの良い」彼がどんな掠れた声で私を求め,私の内側を蹂躙したのかを。
「夏休みはどこか行くの? 大輝くんのデートとか」
「いえ……。土曜日には,長野の実家に帰る予定です」
「えっ,嘘でしょ!?あと4日しかないじゃない」
美羽先輩は,まるで自分の大事な予定を台無しにされたかのように,身を乗り出して驚きの声を上げた。
「ちょっと,それまでにデートしないと! 帰省したら会えないんだよ? いい? 大輝くんはああ見えて奥手なんだから,自分から誘うんだよ。この時期なら,行き先は……ーー」
美羽先輩の言葉が,マシンガンのような勢いで私に浴びせられる。
私はその圧倒的な熱量に圧され,返事もできずに立ち尽くすような心地だった。
けれど,私の耳は,「先輩」が吐き出す「デート」に関する全ての言葉を一言も聞き逃がすまいと,異様なほど冴えわたっていた。先輩が提示する選択肢の一つひとつが,私のなかで「武器」へと変換されていく。
……………………………………………………………………………………
2日後。大輝先輩の試験最終日。目白の冷房の効いた部屋で,私は朝から帰省の準備を進めていた。スーツケースに隙間なく敷き詰められていく実家へ持って帰る春物の洋服。この春に母と一緒に買い物に行って選んだ平和な記憶とは対照的に,私の心は,どことなく浮き足立っていた。
机の上のスマートフォンが短く震える。
ーー『試験,全部終わったよ。やっと解放された』
待ってました,と心臓が跳ねる。私は,熱を持った指先で返信を打ち込んだ。
ーー『お疲れ様です! 私,今週末の土曜日には帰省しちゃうんです それまでに一度デートに行きたいです』
数分後,『行きましょう いつがいいですか? 明日でもいいですよ』という返信。
ーー『ぜひ 明日お願いします 先輩はどこに行きたいですか? 私は……ーー』
場所は,美羽先輩が言っていた横浜に決まった。
ーーあそこには,二人きりになれる大きな観覧車があるからーー
脳内で,昨日の美羽先輩の声が再生された。
深く一息ついてスマホを置くと,部屋の静寂が急に重くなった。
私はクローゼットを開け,明日のための「とっておき」を選び始めた。
手に取ったのは,清楚でありながら,しっとりと身体のラインを微かに拾う薄緑のワンピース。
それは母との買い物では決して選ばなかった,目白で私が見つけた,「私」だけの服だった。
次に,引き出しを開ける。
ーー引き出しの一番奥。
一ヶ月前のあの夜,彼に初めてすべてを預けた日に身につけていた,淡いピンクの下着が視界に入った。
この一ヶ月間,独りの夜に何度かこれを身につけては,レースの端々に染み付いた情欲の記憶をなぞってきた。
指先の感触だけではない。私を容赦なく貫き,内側を埋め尽くした彼の「芯」の硬さと,その熱。
今も,それらを鮮明に思い出すだけで,私の「容れ物」は,冷房が効いた涼しい室内でじわりと不自然な熱を帯びてきた。
(……もし先輩が,気づいてしまったら)
前と同じだと気づかれる恥じらいよりも,気づかれないことへの寂しさが勝ってしまう。私は明日,この「記憶」をもう一度,彼に上書きしてもらうために、あの日と同じ姿で彼の前に立つ。
私はシャワーを浴びようと鏡のついた洗面台の前に立ち,高校のクラスTシャツとハーフパンツを脱いだ。
高校のクラスTシャツとハーフパンツを脱ぎ捨てると,そこにはブラトップとグレーの綿のショーツだけを身につけた,幼さの残る女子大生の姿があった。
鏡に映る自分の身体を見るたび,その平坦さに、どうしても小さな溜息が漏れる。
けれど,その無機質なグレーの布地を指先で引き下げたとき,色が変わっているその部分を見て,私は自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。
ーー明日,大輝先輩に会える。
たったそれだけの予感に突き動かされた私の「容れ物」は,持ち主の理性よりもずっとせっかちに,隠しようのない熱を孕んで溢れ出していた。
私は,その事実から逃げるようにシャワーを浴び,肌の火照りを鎮めようとした。
けれど,首筋を叩く熱い湯は,かえって大輝先輩の温度を鮮明に呼び覚ます。
石鹸の泡にまみれた指先を,私は自分の身体へと滑り込ませた。コンプレックスでしかないAカップの小さな胸を,あの日彼がしたように,少し強めに揉みしだく。その先端を指先でじりじりと追い詰めると,胸の奥がキュンと鳴り,それだけで軽く一度,意識が遠のいた。
(……だいき,せんぱい。……だいき,せんぱい……っ)
泡を洗い流しても,内側の渇きは収まらない。
(もう少しだけ……)
目を閉じれば,そこにいるのは,一ヶ月前,私の内側を埋め尽くした彼の熱く硬い「芯」ーー。
「……っ,いれて……いれてください……」
誰に届くはずもない懇願が,湯気の中に溶けていく。
ーー「容れ物」に滑り込ませた一本の指。
けれど,私の指には彼のような「硬さ」も「太さ」もない。
私は脳内の記憶を必死に手繰り寄せる。彼のそれは,もっと先端に,逃げ場を塞ぐような「段差」があったはずだ。
私は指を少しだけ曲げ,あの時の「段差」を再現するように,内側の柔らかな壁を内側から強く掻き上げた。
その瞬間に,背筋を突き抜けるような衝撃が走る。
私は崩れ落ちる前に,自分から冷たいタイルの上へ膝を突いた。
「あ,……っ,おねがい,もっと,もっと……っ,…っんぁ……」
自分の指で動かしているはずなのに,私はたまらず声を漏らした。
瞬間に,背筋を突き抜けるような衝撃が走り,私は崩れ落ちる前に,自分から冷たいタイルの上へ膝を突いた。
逃げ場をなくしたように背中を丸め,溢れ出す熱をただ受け止める。腹筋が激しく震え,視界が白く爆ぜる。
(だいき……,せん…ぱい。)
彼によって与えられた「記憶」だけで,私は私を果てさせていくーー。
指先から伝わる自分の拍動が,ゆっくりと落ち着きを取り戻すまでの間,私は時間の感覚を失ったまま,ただ引いていく残響に身を任せていた。
私は震える足で立ち上がった。
もう一度,全身を念入りに洗い流す。
ふと見下ろすと,自分の膝には,網目模様が痛々しいほど赤く残っていた。
……………………………………………………………………………………
洗面台の鏡が白く曇っていた。
その曇りを手で拭い,ありのままの自分と対峙する。
とうの昔に消えてしまったはずなのに,私は鏡の中の私を凝視して,ありもしない鎖骨の「刻印」の影をずっと探していた。
一ヶ月。物理的な痕跡は一週間で消えたけれど,精神的な刻印は消えるどころか,骨髄にまで染み込み,微熱となって脈打っている。
週末に上田に帰ることを考えれば,肌が潔白な状態に戻ったのは娘として「正解」なのだ。
それなのに,私はその「正解」がひどく寂しかった。
清廉な娘として帰省する前に,もう一度だけ,自分でも制御できない色に染められたい。
用意した,あの日と同じ,ピンクのセットを身につけると,鏡の中の私は,まだ何も知らない少女のように見えた。
……………………………………………………………………………………
翌朝の目白駅。改札の前で,大輝先輩は待っていた。
実家から池袋を経由して横浜へ向かうなら,わざわざ目白で降りる必要はない。それなのに,「一緒に行きたいから」と一度電車を降りて待っていてくれる。
そんな彼の誠実な優しさに触れるたび,胸の奥がじんわりと温かくなり,自分が大切にされている幸せを噛み締めた。
「久しぶり。……今日の服,似合ってるね」
照れくさそうに笑う大輝先輩の視線が,薄緑のワンピースに止まる。
私たちは電車を2回乗り換えて,山手駅へと降り立った。
最初に向かったのは洋館。手入れされた庭園には,私のワンピースに似た淡い色のやまゆりが,誇らしげに咲き誇っていた。その独特で濃厚な香りが,夏の熱気に混ざって鼻腔を突く。
「先輩,こっち向いて~。写真,撮りましょ!」
庭園を背景にカメラを向ける。
(……この写真,いつかお母さんに見せる日が来るのかな)
ふと,そんなことが頭をよぎった。
目白で私が一人で選んだ薄緑のワンピース。
それを着て,お母さんが知る「誠実」な大輝先輩の隣で,私は母が最も安心するであろう「幸せな娘」の笑顔を作ってみせる。
ーー初めてのツーショット写真。
画面の中に並んだ私たちは,レンズ越しに伝わる距離感のぎこちなさは,どこまでも「初々しいカップル」そのものだった。
山手の洋館を巡り,山下公園の氷川丸を眺め,赤レンガ倉庫の喧騒を抜ける。陽が傾き,街がオレンジ色に染まる頃,私たちは大きな観覧車のある遊園地の横を通りかかった。
ーーあそこには,二人きりになれる大きな観覧車があるからーー
美羽先輩のあの声が耳の奥で蘇る。その場所を目の前にして,私は逃げ場を失ったような,あるいは待ち焦がれていた場所にようやく辿り着いたような、奇妙な高揚感を覚えた。
「……観覧車,乗ってもいいですか?」
「……うん,そうだね。乗ろうか」
大輝先輩は少し驚いたように目を細めたけれど,私の手を引くようにしてチケット売り場へ歩き出した。
ゆっくりと上昇を始めるゴンドラ。その狭い,二人きりの密室の中で,大輝先輩の清潔な石鹸の香りと,わずかな汗の匂いが混ざり合う。地上から離れるにつれ,横浜の街並みが模型のように小さくなっていく。
「陽菜,今日ずっと楽しそうだね」
隣に座る大輝先輩が,私の手をそっと握った。
ゴンドラが頂点に達する直前,大輝先輩が私の顔を覗き込み,その綺麗な指先で私の顎をそっと持ち上げた。
「……陽菜さん」
夕焼けの光が差し込む彼の瞳が,一ヶ月前のあの夜と同じ,逃げ場のない熱を帯びて私を射抜く。
「……ねえ,先輩。……今日,私の部屋,寄っていきませんか?」
私の唇から溢れたのは,誘惑というにはあまりに切実な,渇望の音だった。
大輝先輩は一瞬だけ目を見開いたあと,喉仏を大きく上下させ,絞り出すような声でーー,
「……うん」
短く応えた。
最後の試験が終わり,吸い寄せられるように合唱サークル「ヴォーチェ」の部室へと向かった。重い扉を開けると,そこには冷房の効いた空間で,誰かを待つようにスマホをいじる美羽先輩の姿があった。その姿は,まるで**「後輩」という名の獲物が網に掛かるのを待っている**かのようにも見えた。
「あ,陽菜ちゃん! 久しぶり,試験どうだった?」
美羽先輩の屈託のない声が響く。
「……死にました。ミクロ,計算ばっかりで。『情報の非対称性』の記述問題なんて,自分でも何を書いたか……」
「あはは,大変だよね。私なんて一昨年その授業,単位落としかけたんだからね。ところでお腹空いたでしょ? 打ち上げ行こうよ!」
獲物を仕留めた美羽先輩に促されるまま,早速,一番近いファミレスに行く。
店内は,ドリンクバーの機械が唸る音,ナイフとフォークが安っぽいお皿と当たる音,そして試験から解放された学生たちの騒音で満ちていた。
冷たいオレンジジュースを一口飲むと,経済学の計算でひび割れた脳に,ようやく水分が染み渡った。
「……ふう」
美羽先輩がおかわりを取りに席を立った隙に,私はテーブルの下でスマホを取り出した。
ーー『試験終わりました』
送信して十数秒。画面の隅に『既読』が灯る。
ーー『お疲れ様 僕は明後日の2つで終わり』
「……大輝くん?」
アイスコーヒーを片手に戻ってきた美羽先輩が,私の手元を覗き込むようにしてニヤリと笑った。
「あ,……はい。試験終わったって,報告だけ」
「律儀だねえ。でも,あの6月の『交際宣言』は本当に驚いたよ。サークルの女子たちの間じゃ『公然の秘密』ってやつ? 全員知ってるからこそ,あえて誰も口にしないっていうね。……というか,みんな当てられすぎて恥ずかしくて口に出せないだけかもしれないけど」
美羽先輩は,小エビのサラダの,小エビだけ,を器用に掬い上げると,少しだけ声を落として茶化すように言った。
「でも正直,羨ましいな。私も彼氏いるけどさ,あんな風に親の前で『今日,僕から申し込みました』なんて言われたら,速攻で惚れ直す自信あるもん。……で? その後どうなの? 進展はあったわけ?」
私はオレンジジュースの氷をストローでつつき,カランと乾いた音を立てた。
「進展,と言われても……。テスト前だったので,ずっと図書館かファミレスで一緒に勉強していただけです。大輝先輩,課題が本当に大変そうで」
「えー,つまんないの! 親の前で熱烈な宣言しといて,その後はペン握ってるだけ? せっかく付き合い始めたんだから,もっとこう……手繋いだりとか,さ」
美羽先輩は「初々しいカップル」の進展を微笑ましく想像しているようだった。彼女の頭の中では,私たちはまだ,指先が触れ合うだけで赤くなるような,そんな清廉なフェーズにいることになっている。
「……美羽先輩。……先輩たちは,その,最初はどうだったんですか?」
「私? うちはお互い結構ぐいぐい行ったからねえ。でも,陽菜ちゃんは大輝くんのこと,もっと大事に育てたほうがいいよ。育ちがいいからさ。
私はオレンジジュースの氷をストローでつつき,カランと乾いた音を立てた。
「でも,あんまり焦らせて,困らせちゃダメだよ?……でもまだ,先の話か! ごめんごめん,気が早すぎたよね」
美羽先輩は,「子ども」に少し刺激の強い「大人」の話をしてしまったときのような,バツの悪い苦笑いを浮かべた。
けれど,その苦笑いの隙間から覗く彼女の瞳は,一瞬たりとも私から逸れることはなかった。それは,無邪気な「お姉さん」を演じながらも,私の微かな動揺や,肌の艶,あるいは「女」特有の空気の変化を逃さず嗅ぎ取ろうとする,冷徹な眼差しだった。
(……この人,気づいているの?)
「まだ先」だと決めつける言葉の裏に,すでに私が「その先」の景色を知っているのではないかという,確信に近い疑念を潜ませている。美羽先輩は,あえて私を「子ども」の枠に押し込めることで,私の内側に眠る「女」が反発し,正体を現すのを待っているようにも見えた。
「……そうですね。大輝先輩,本当に優しいですから」
私は美羽先輩の歩幅に合わせるように,「子ども」の微笑みを貼り付けた。
ーー美羽先輩は知らない。一ヶ月前,その「育ちの良い」彼がどんな掠れた声で私を求め,私の内側を蹂躙したのかを。
「夏休みはどこか行くの? 大輝くんのデートとか」
「いえ……。土曜日には,長野の実家に帰る予定です」
「えっ,嘘でしょ!?あと4日しかないじゃない」
美羽先輩は,まるで自分の大事な予定を台無しにされたかのように,身を乗り出して驚きの声を上げた。
「ちょっと,それまでにデートしないと! 帰省したら会えないんだよ? いい? 大輝くんはああ見えて奥手なんだから,自分から誘うんだよ。この時期なら,行き先は……ーー」
美羽先輩の言葉が,マシンガンのような勢いで私に浴びせられる。
私はその圧倒的な熱量に圧され,返事もできずに立ち尽くすような心地だった。
けれど,私の耳は,「先輩」が吐き出す「デート」に関する全ての言葉を一言も聞き逃がすまいと,異様なほど冴えわたっていた。先輩が提示する選択肢の一つひとつが,私のなかで「武器」へと変換されていく。
……………………………………………………………………………………
2日後。大輝先輩の試験最終日。目白の冷房の効いた部屋で,私は朝から帰省の準備を進めていた。スーツケースに隙間なく敷き詰められていく実家へ持って帰る春物の洋服。この春に母と一緒に買い物に行って選んだ平和な記憶とは対照的に,私の心は,どことなく浮き足立っていた。
机の上のスマートフォンが短く震える。
ーー『試験,全部終わったよ。やっと解放された』
待ってました,と心臓が跳ねる。私は,熱を持った指先で返信を打ち込んだ。
ーー『お疲れ様です! 私,今週末の土曜日には帰省しちゃうんです それまでに一度デートに行きたいです』
数分後,『行きましょう いつがいいですか? 明日でもいいですよ』という返信。
ーー『ぜひ 明日お願いします 先輩はどこに行きたいですか? 私は……ーー』
場所は,美羽先輩が言っていた横浜に決まった。
ーーあそこには,二人きりになれる大きな観覧車があるからーー
脳内で,昨日の美羽先輩の声が再生された。
深く一息ついてスマホを置くと,部屋の静寂が急に重くなった。
私はクローゼットを開け,明日のための「とっておき」を選び始めた。
手に取ったのは,清楚でありながら,しっとりと身体のラインを微かに拾う薄緑のワンピース。
それは母との買い物では決して選ばなかった,目白で私が見つけた,「私」だけの服だった。
次に,引き出しを開ける。
ーー引き出しの一番奥。
一ヶ月前のあの夜,彼に初めてすべてを預けた日に身につけていた,淡いピンクの下着が視界に入った。
この一ヶ月間,独りの夜に何度かこれを身につけては,レースの端々に染み付いた情欲の記憶をなぞってきた。
指先の感触だけではない。私を容赦なく貫き,内側を埋め尽くした彼の「芯」の硬さと,その熱。
今も,それらを鮮明に思い出すだけで,私の「容れ物」は,冷房が効いた涼しい室内でじわりと不自然な熱を帯びてきた。
(……もし先輩が,気づいてしまったら)
前と同じだと気づかれる恥じらいよりも,気づかれないことへの寂しさが勝ってしまう。私は明日,この「記憶」をもう一度,彼に上書きしてもらうために、あの日と同じ姿で彼の前に立つ。
私はシャワーを浴びようと鏡のついた洗面台の前に立ち,高校のクラスTシャツとハーフパンツを脱いだ。
高校のクラスTシャツとハーフパンツを脱ぎ捨てると,そこにはブラトップとグレーの綿のショーツだけを身につけた,幼さの残る女子大生の姿があった。
鏡に映る自分の身体を見るたび,その平坦さに、どうしても小さな溜息が漏れる。
けれど,その無機質なグレーの布地を指先で引き下げたとき,色が変わっているその部分を見て,私は自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。
ーー明日,大輝先輩に会える。
たったそれだけの予感に突き動かされた私の「容れ物」は,持ち主の理性よりもずっとせっかちに,隠しようのない熱を孕んで溢れ出していた。
私は,その事実から逃げるようにシャワーを浴び,肌の火照りを鎮めようとした。
けれど,首筋を叩く熱い湯は,かえって大輝先輩の温度を鮮明に呼び覚ます。
石鹸の泡にまみれた指先を,私は自分の身体へと滑り込ませた。コンプレックスでしかないAカップの小さな胸を,あの日彼がしたように,少し強めに揉みしだく。その先端を指先でじりじりと追い詰めると,胸の奥がキュンと鳴り,それだけで軽く一度,意識が遠のいた。
(……だいき,せんぱい。……だいき,せんぱい……っ)
泡を洗い流しても,内側の渇きは収まらない。
(もう少しだけ……)
目を閉じれば,そこにいるのは,一ヶ月前,私の内側を埋め尽くした彼の熱く硬い「芯」ーー。
「……っ,いれて……いれてください……」
誰に届くはずもない懇願が,湯気の中に溶けていく。
ーー「容れ物」に滑り込ませた一本の指。
けれど,私の指には彼のような「硬さ」も「太さ」もない。
私は脳内の記憶を必死に手繰り寄せる。彼のそれは,もっと先端に,逃げ場を塞ぐような「段差」があったはずだ。
私は指を少しだけ曲げ,あの時の「段差」を再現するように,内側の柔らかな壁を内側から強く掻き上げた。
その瞬間に,背筋を突き抜けるような衝撃が走る。
私は崩れ落ちる前に,自分から冷たいタイルの上へ膝を突いた。
「あ,……っ,おねがい,もっと,もっと……っ,…っんぁ……」
自分の指で動かしているはずなのに,私はたまらず声を漏らした。
瞬間に,背筋を突き抜けるような衝撃が走り,私は崩れ落ちる前に,自分から冷たいタイルの上へ膝を突いた。
逃げ場をなくしたように背中を丸め,溢れ出す熱をただ受け止める。腹筋が激しく震え,視界が白く爆ぜる。
(だいき……,せん…ぱい。)
彼によって与えられた「記憶」だけで,私は私を果てさせていくーー。
指先から伝わる自分の拍動が,ゆっくりと落ち着きを取り戻すまでの間,私は時間の感覚を失ったまま,ただ引いていく残響に身を任せていた。
私は震える足で立ち上がった。
もう一度,全身を念入りに洗い流す。
ふと見下ろすと,自分の膝には,網目模様が痛々しいほど赤く残っていた。
……………………………………………………………………………………
洗面台の鏡が白く曇っていた。
その曇りを手で拭い,ありのままの自分と対峙する。
とうの昔に消えてしまったはずなのに,私は鏡の中の私を凝視して,ありもしない鎖骨の「刻印」の影をずっと探していた。
一ヶ月。物理的な痕跡は一週間で消えたけれど,精神的な刻印は消えるどころか,骨髄にまで染み込み,微熱となって脈打っている。
週末に上田に帰ることを考えれば,肌が潔白な状態に戻ったのは娘として「正解」なのだ。
それなのに,私はその「正解」がひどく寂しかった。
清廉な娘として帰省する前に,もう一度だけ,自分でも制御できない色に染められたい。
用意した,あの日と同じ,ピンクのセットを身につけると,鏡の中の私は,まだ何も知らない少女のように見えた。
……………………………………………………………………………………
翌朝の目白駅。改札の前で,大輝先輩は待っていた。
実家から池袋を経由して横浜へ向かうなら,わざわざ目白で降りる必要はない。それなのに,「一緒に行きたいから」と一度電車を降りて待っていてくれる。
そんな彼の誠実な優しさに触れるたび,胸の奥がじんわりと温かくなり,自分が大切にされている幸せを噛み締めた。
「久しぶり。……今日の服,似合ってるね」
照れくさそうに笑う大輝先輩の視線が,薄緑のワンピースに止まる。
私たちは電車を2回乗り換えて,山手駅へと降り立った。
最初に向かったのは洋館。手入れされた庭園には,私のワンピースに似た淡い色のやまゆりが,誇らしげに咲き誇っていた。その独特で濃厚な香りが,夏の熱気に混ざって鼻腔を突く。
「先輩,こっち向いて~。写真,撮りましょ!」
庭園を背景にカメラを向ける。
(……この写真,いつかお母さんに見せる日が来るのかな)
ふと,そんなことが頭をよぎった。
目白で私が一人で選んだ薄緑のワンピース。
それを着て,お母さんが知る「誠実」な大輝先輩の隣で,私は母が最も安心するであろう「幸せな娘」の笑顔を作ってみせる。
ーー初めてのツーショット写真。
画面の中に並んだ私たちは,レンズ越しに伝わる距離感のぎこちなさは,どこまでも「初々しいカップル」そのものだった。
山手の洋館を巡り,山下公園の氷川丸を眺め,赤レンガ倉庫の喧騒を抜ける。陽が傾き,街がオレンジ色に染まる頃,私たちは大きな観覧車のある遊園地の横を通りかかった。
ーーあそこには,二人きりになれる大きな観覧車があるからーー
美羽先輩のあの声が耳の奥で蘇る。その場所を目の前にして,私は逃げ場を失ったような,あるいは待ち焦がれていた場所にようやく辿り着いたような、奇妙な高揚感を覚えた。
「……観覧車,乗ってもいいですか?」
「……うん,そうだね。乗ろうか」
大輝先輩は少し驚いたように目を細めたけれど,私の手を引くようにしてチケット売り場へ歩き出した。
ゆっくりと上昇を始めるゴンドラ。その狭い,二人きりの密室の中で,大輝先輩の清潔な石鹸の香りと,わずかな汗の匂いが混ざり合う。地上から離れるにつれ,横浜の街並みが模型のように小さくなっていく。
「陽菜,今日ずっと楽しそうだね」
隣に座る大輝先輩が,私の手をそっと握った。
ゴンドラが頂点に達する直前,大輝先輩が私の顔を覗き込み,その綺麗な指先で私の顎をそっと持ち上げた。
「……陽菜さん」
夕焼けの光が差し込む彼の瞳が,一ヶ月前のあの夜と同じ,逃げ場のない熱を帯びて私を射抜く。
「……ねえ,先輩。……今日,私の部屋,寄っていきませんか?」
私の唇から溢れたのは,誘惑というにはあまりに切実な,渇望の音だった。
大輝先輩は一瞬だけ目を見開いたあと,喉仏を大きく上下させ,絞り出すような声でーー,
「……うん」
短く応えた。
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